今日も雨降るこの街を、あなたと共に
もう住み慣れた筈のこの街にも、短い間で色々な変化が起こった。
本日もカナイ区は絶好の雨日和、と報じるニュース。
いい雨を。その言葉で会話を締めくくる事が多くなった街の人達。
毎日行列が絶える事が無い、街の外から来た“人”が経営するラーメン屋。
少し前まで、何処か陰鬱な空気が流れていた、この街。
それが変わった日から……暫くが経った。
「ハララさん、こちらが頼まれていた書類です」
「助かる。そこに置いておいてくれ」
私は、アマテラス社の一社員だ。
普段は書類整理の仕事をしていて、今日は保安部の今後の活動に必要な書類を持って来た。他の人は全員出払っている様で、部屋に居るのは私とこの人……ハララさんだけだ。
保安部の一人である、ハララ=ナイトメアさん。
美人だけれど、冷酷で乱暴で……怖い人だと言う人は少なくない。
でも、私は知っているんだ。
本当は少し不器用なだけで、猫や犬が好きな可愛い所がある、とても優しい人だって。
「……よし、これで一段落という所か」
「お仕事お疲れ様です。コーヒーも一緒に持ってきたので、よかったらどうですか?」
「ありがとう。……うん、美味しい。しかもこれは……僕の好きな豆の物だな」
「あっ、分かりましたか?」
「ああ……まだ覚えていてくれたのか、この味を」
「当たり前じゃないですか。この味が一番好きな味だって、ハララさんが教えてくれたんですから」
「…そうだったな」
そう言って、穏やかな笑顔になるハララさん。
…本当に久しぶりだな。あなたの、そんな表情を見れたのは。
「思えば、君とも長い付き合いになったな。…三年半程前だったか、君がこの街に来たのは」
「はい。…あの頃の私は両親に反発して地元を出たはいいものの、大した当ても無く……路頭に迷ってこの街で悩んでいた所に、私はあの人……ヤコウ部長に出会ったんです」
「そうらしいな……あの人に聞いた」
保安部の部長、ヤコウ=フーリオさん。
街のベンチに座って途方に暮れていた私に声を掛けてきたくれた人。最初はなんだか頼りなさそうな大人だなって思ったけど、私にとってあの人と出会えた事は本当に幸運だったと言える……私の大切な恩人だ。
「ヤコウ部長は少しおどけながらも、私の話を真摯に聞いてくれて……私を元気づけてくれた後、私を……このアマテラス社に誘ってくれたんです」
「勿論、最初はあの人が保安部の部長だっただなんて知らなかったんですから、凄く驚きましたよ」
「でも……私を励ましてくれて、私の“特技”も凄い才能だって褒めて貰えて、私は……応援してくれたこの人の為にも頑張ってみようって気持ちになれました」
「必死に勉強して、何とか入社試験に受かる事が出来たとヤコウ部長に連絡したら……あの人は凄く喜んでくれて、部署は違っていてもこれから宜しくなって言って貰えた時は、私も……凄く嬉しかったです…」
「それが、君と部長の出会いだったんだな」
「はい。それから少し後に、私はハララさんとも出会いましたね」
「ああ、緊張して動きがぎこちなかった君を部長が僕達に紹介してきたのが、君と僕との出会いだったな」
「最初はまだお互いに軽く挨拶する位の関係でしたけど、それが変わったのは……ハララさんが猫の写真をこっそり見ていた所を、私が目撃しちゃってからですね」
「…そうだな」
会社の仕事にも少しずつ慣れてきた頃、休憩時間中に今日のお昼は何を食べようかなと思っていたその時……私は見てしまったのだ。物陰にいたハララさんが猫の写真を見て笑顔になっていた所を。…私に気付いたら慌てて隠していたけれど。
「あの時は気が緩んでいたとはいえ、他人に見られてしまったのは不覚だと思ったが……君は、僕を笑わなかったな」
「少し意外だなとは思いましたけど、笑ったりなんかしませんよ。私は……ハララさんは積極的に人と関わろうとしない、仕事一筋な人なのかなって思ってましたけど……猫や犬が好きなんだって知った時、急に親近感が湧いちゃったんです。この人に……そんな可愛い所があったんだって」
「…可愛いは余計だ」
「ふふっ、ごめんなさい。でも、そのおかげで私はハララさんと仲良くなれました。一緒に食事に行ったり、お互いのお気に入りの猫の写真を見せあったり、私にとって……本当に幸せな日々でした。…三年前の、あの日までは」
「…“空白の一週間事件”が起きた……あの日だな」
「はい。気付いたら私は街の真ん中に居て、周りは目茶苦茶、空はずっと雨が降り続く様になって……それだけでも不思議で怖かったんですけど、一番怖かったのは……ヤコウ部長が変わってしまった事でした」
事件の事もあって、最初は仕事が忙しいのか、疲れが溜まっているのかなと思っていた。
それが違うと分かったのは、ヤコウ部長の……あの人の目を見た時だった。
「以前は明るくて優しくて、会社ですれ違う時には元気な挨拶をしてくれる人だったのに……あの日からの部長は雰囲気が怖くなって、挨拶する事はあっても前とは違う、色んな感情が混ざった様な……濁った目で私を見るようになって、それから私は……部長を避ける様になってしまいました」
「僕が君と一緒に過ごす事も、その頃から無くなってしまったな」
「ええ、部長が変わってしまった様に、ハララさんも変わってしまったと思ったんです。前より目つきが険しくなって、笑わなくなって、問題を起こした人を……容赦無く傷つける様になったと聞いてしまったから…」
「……そうか」
「でも……あのハララさんが理由も無くそんな事をする筈がないって、少し考えれば分かる事でした。私、前に一度見たんです。夜遅くに酷く疲れていて、とても……悲しそうな表情のあなたが会社に戻って来た所を」
「…………………」
「あの時、私はあなたに……お帰りなさいとでも言えばよかったのに、結局、私はあなたに何も言わなかった。あなたにも部長と同じ、あの目で睨まれてしまうんじゃないかと思って……怖くなってしまったんです。そんな事はあり得ない、あなたはずっと苦しんでいたんだって分かったのに……私は、あなたに何も……しなかったんです…」
「…それは違う。君が何もしなかったんじゃない、僕が君に何もさせなかったんだ。部長から……僕達保安部から、君を遠ざける為に」
「……ハララさん…」
「僕達は、ずっと部長が元に戻ってくれる日を待っていた。優しかったあの人が戻って来るその日まで……どんな事をしてでもあの人を守ろうと、そう思って行動してきた」
「…………………」
「だが、自分がその様に変わってしまったからこそ、今までずっと……僕は君と距離を置いてきた。君をあまり部長に関わらせない様にする為でもあったが、本当は……君に今の自分を見られたくなかった。誰かの返り血を浴び、変わり果てた今の僕を見て、君に……軽蔑の目で見られる事が、怖かったんだ…」
「…私達、ずっとすれ違っていただけだったんですね。離れていてもあなたは……私を思っていてくれていたのに」
「それは君も同じだろう。三年間も遠ざけてしまったというのに、こうしてまた……君は僕を受け入れてくれた。…本当に、ありがとう…」
「……それこそ、私の台詞ですよ…。ハララさん…」
「ふふ、そうか…」
「…そしてこの間、全部……分かっちゃいましたね。部長が変わってしまった理由も、私達の……正体も」
「…ああ」
“怖いか?苦しいか?…オレが憎いか?”
“オレの方はずっと憎かったぜ?オレの大事な物を全部奪った……お前達の事を!!”
“今日でお前らの人間ごっこは終わりだ。あいつらが味わった絶望や無念を……せいぜいお前らも味わえよ。…紛い物共”
三年間、ずっと雨が降り続いていたこの街に青空が広がり、全身が焼ける様な激痛を感じていた時、あの人……ヤコウ部長が街中の放送設備を使って私達に告げたんだ。私達が何者なのか、私達が……何をしたのかを。
強い憎しみと……悲しみに満ちた声で。
「“僕達”は、三年前に既に死んでいた。そしてその元凶こそが……ここにいる僕達だった。それが……真実だったとはな」
「ヤコウ部長が、あんな目をする様になってしまうのは当然ですよね。自分の大切な人達の命を奪っておいて、何も覚えていない私達の事が憎くて……赦せないと思うのは」
「三年間もあの人の側にいたというのに、僕達はそれに気づく事が出来なかった。今までずっと……あの人の心の傷を抉ってしまった。本当に、情けない話だ」
「ハララさん達は、部長から直接真実を告げられた時……どんな気持ちになりましたか?」
「…全てをあの人に告げられた時は、今までの自分が崩れて……無くなってしまった様な気分だった。自分達が人では無い事も衝撃だったが、部長を……優しいあの人を傷つけ、苦しませていたのは僕達だった。それが真実だったと知り、もう……あの人に合わせる顔が無い、死にたいとさえ思っていた。死ぬ事など出来ない存在だというのにな」
「………………」
「だが……そんな状態の僕達を励まし、支えようとした存在がいた。生きる気力も失せて、絶望していた僕達に……大好きなんて言葉を掛けた探偵がな」
「……ユーマ=ココヘッドさんの事ですか?」
「…そうだ」
ユーマ=ココヘッドさん。
カナイ区の外から来た探偵の一人であり、街で起きた事件を幾つも解決し、ヤコウ部長率いる保安部と何度も対立していた人だ。
そして……カナイ区の空が晴れ渡ったあの日、ヤコウ部長の暴走を止め、この街と私達……ホムンクルスを救ってくれた恩人だと言われている人でもあるんだ。…私はまだ、実際に出会えた事は無いんだけれど。
「彼とは出会いこそ最悪な物だったが、今となっては……彼に出会えて良かったと、心からそう思う事が出来る。僕達を勇気づけてくれた事だけじゃない、あの人の事も……彼は守ってくれたからだ」
「全部終わった後、ユーマさんが……街にいる全ての人に呼び掛けたんでしたね。ヤコウ部長や、ハララさん達が今までしてきた事を赦す事は出来なくても、皆さんのこれからを……未来を奪う事はしないで欲しいと、必死に何度も……頭を下げて」
「反対の声は勿論あった。それでも、彼の行動とマコトが恩赦を与えてくれた事で……僕達は再びここに居る事が出来ている。部長の事も、それまでの事情が明らかになった事で、改めて……あの人を受け入れたいという者達も出てきている。…当の本人は、姿を消してしまったがな」
「…そうですね」
カナイ区の空が晴れた、あの日から……ヤコウ部長は姿を消してしまった。
茫然自失の状態で何処かを彷徨っていると言う人もいれば、自暴自棄になって既に命を絶ってしまったんじゃないかと言う人もいる。何れにしても、あの人の行方はまだ……分かっていないんだ。
「ヤコウ部長は今……どうしているんでしょうね。やっぱり、私達が憎いという気持ちはそのままなんでしょうか…?」
「あの人を止めた彼曰く、最後は憑き物が落ちたような顔をしていたそうだが……簡単には割り切れないだろう。失ってしまった物や、僕達の事を…」
「ハララさんは、また……ヤコウ部長に会いたいですか?」
「…会いたい気持ちはある。だが、会って何を話せばいいのか……分からない。言いたい事は沢山ある筈なのに、口にしようとすると何も出てこない……そんな所だ。…君の方はどうなんだ?」
「私は……会いたい。会って、あの人にお礼が言いたいです。今の私があるのはあなたのお陰で、私は……あなたに出会えて良かったって、ヤコウ部長と出会えた、“私”の分まで……そう伝えたいです。…私の事を、受け入れられないとしても」
「……君は、強くなったな。初めて出会った頃の君とは大違いだ」
「きっと、あなたと出会えたお陰ですよ。ハララさん」
「…そうか。ならば……そうに違いないな」
「はい!その通りです。ふふっ…」
「ん?電話か。もしもし、僕だ。…………ああ、………………分かった。直ぐに現場に向かう。引き続き、捜査を進めておいてくれ。…では切るぞ」
「また何か……事件ですか?」
「ああ、ギンマ地区の路地裏で窃盗が発生した様だ。犯人は被害者を襲い、荷物を持ち去って逃亡中。被害者は気絶してはいるが命に別状は無く、住まいがカナイタワーである事から金銭目的の犯行だと考えているそうだ」
「犯人の特徴は、もう掴んでいるんですか?」
「残念ながらまだだ。現場近くに監視カメラ等は無く、目撃者はいるにはいたが……どうやら幼い子供のようでな。中々具体的な特徴を掴む事が出来ていない状態だ。…そこで、君の力を……僕達に貸して欲しいんだ」
「…私の“特技”で、犯人の特徴を割り出すんですね」
「そうだ。君の“特技”……相手の語る言葉を聞けば、その人物が語った光景を、他者の主観や想像に影響される事無く、忠実に書き記す事が出来るその力は、捜査に必ず役立つ。…頼めるか?」
「はい。私の力で良ければ……捜査に協力させて下さい!」
「ありがとう。ちなみに彼……ユーマも、既に現場にいる職員達と捜査を進めているそうだ。僕達も現場に到着し次第、彼らと合流し捜査を始める。直ぐに支度をしてくれ」
「分かりました。……ユーマさんかぁ。ふふっ」
「何だ、君は彼と会うのがそんなに楽しみなのか?」
「楽しみというか、前々から……実際に会って話をしてみたいと思っていたんです。街の人達だけじゃなく、ハララさん達の事も守ってくれた……優しい探偵さんと。…大好き、なんて皆さんに言ったのなら、情熱的な人でもあるのかもしれませんけど」
「……優しいどころか、お人好しが過ぎる人物だったがな。顔と名前が同じであるだけの別人でも、自分を敵だと突き放されても……僕達だからこそ、守りたかった。見捨てる事なんて出来なかった。いつの間にかこの世界に迷い込んでいた彼が、そう僕達に……話してくれた程に…」
「……?どういう事ですか?」
「詳しい事は、いつか君にも話そう。他人に言いふらさないと約束出来るならな。…それより、自分の部署への連絡は終わったのか?まだなら早くしてくれ」
「は、はい!」
私達がこの街でしてしまった事は……決して消えない。ヤコウ部長の様に、私達を赦せないと思う人も沢山いると思うから。
両親にも、まだ本当の事は伝えていない。勝手に家を飛び出して、心配を掛けたのに、私がアマテラス社に入社する事が出来たと連絡したら……おめでとう、よく頑張ったなと言ってくれた両親。
その二人の娘である“私”は……もういない。この事実は、二人を酷く傷つけて……悲しませてしまうだろう。
「これでよし……と。準備、出来ました!」
「よし、では行こうか」
それでも……向き合わなくちゃいけない。自分がしてしまった事も、これからの事も。
一人じゃ怖くて、何も出来ないかもしれない。でも……今の私は一人じゃない。ハララさんが隣にいるから。
色んな事が変わってしまったけれど、ハララさんと一緒なら、前を向いていく事が出来ると思うんだ。しなきゃいけない事も沢山あるけど、それ以上にこの人と……一緒にしたい事だって沢山ある。だから、いつまでも膝をついて……泣いている訳にはいかない。
ハララさん。さっき私は、部長に出会えて良かったって言いましたけど……部長だけじゃないんですよ?
「頼りにしている。行くぞ、……ユウカ」
「はい!ハララさん!」
私は、あなたにも出会えて良かったと……そう思っているんですから。