今日はきっと素敵な日
大将昔、自分の人生は不幸なものだと思っていた。勿論その中にも幸せを感じ取れるものはあったけれど。
それでも同い年の子供が外を元気に走り回っているのに、一人病室で伏せっているのは悲しかった。
ただ今の自分の人生が不幸かと問われれば迷わず首を横に振る。大切な家族。大好きな仲間たち。大事なものはたくさん、本当にたくさんあってこれで不幸だなんて言える筈がない。
だけど、だ。
それでも今は、今だけはこう言いたい。
今日の自分はとんでもなく不幸だ。
「ゲホッ、ゴホ」
重苦しい咳の音。花寺のどかは自分の部屋のベッドで風邪に苛まれていた。
体調を崩すのも、辛い思いをするのも初めてではなくて、なんならちょっとだけ懐かしいまであるけれど。
今はそんなこと言ってられなかった。
「……うぅ……」
頭が痛いとか喉がイガイガするとか、そんなのとは関係の無い涙が溢れる。
震える指でスマホを操作して、彼女は一件のメッセージを送信した。本当は今日一緒に遊ぶ予定だった相手への謝罪のメッセージ。
既読を示すマークが付くことも確認しないで、のどかはスマホを枕元の傍らへと放り投げた。
今は返事を見たくなかった。どんな言葉をかけられても、きっともっと泣いてしまうから。
――花寺のどかには好きな人がいる。
今日はその人と出かける予定だったのに、この有様だ。
何をしていても悲しくなるだけなので、のどかは布団を被った。
今はただ寝たい。余計なことなんて考えず、泥のように眠りたい。
のどかがその人と出会ったのはおいしーなタウンという有名な観光地である。日本各地、世界各国の美味しいものが集うと噂のその街に、仲間たちと繰り出した時のことだ。
駅で起きたアクシデント。大きな荷物を背負った男性とのどかが接触してしまった。それだけならまだしも、二人がぶつかった場所が悪かった。
階段の上。今から降りようとしたのどかが背中を突き飛ばされた形。一瞬の浮遊感があった。あ、と思った時には体は既に投げ出されていた。
階段が目の前に広がり、咄嗟に強く目を閉じる。
だけど、思っていた衝撃はなかった。受け止めてくれた人がいたのだ。
その人はのどかと大して年の変わらぬ少年。茶色の髪につり目の、海のように青い瞳。どこかあどけない顔立ちながら、体はしっかりと男性の逞しさを感じさせるものだった。
そんな人が、斜め後ろから落ちてきたのどかを受け止めてくれたのだ。
それが彼とのファーストコンタクト。でもそれだけで好きになったわけじゃない。
再会はとある大事件をきっかけに知り合った菓彩あまねというお友達を尋ねて、再びおいしーなタウンにやって来た時のこと。
まさにそのお友達であるあまねが、例の少年と談笑していたのだ。
それらをきっかけに仲良くなって、連絡先を交換して。少しずつ交流している内にどんどん惹かれていったのだ。
だけど彼と過ごせば過ごす程に気付いたこともある。彼がモテモテだということだ。
さもありなん。何せ彼は王子様のようにカッコよく(※個人の意見です)、慈母のように優しくて(※個人のry)、それでいて男性らしい力強さまで持ち合わせていた(※ry)のだ。
これだけの条件が揃えば彼の周りの女の子達が惹かれるのも無理はない。のどかはそんな人を好きになったのだ。
そんなわけで彼と二人きりになれる機会というのはかなり貴重だったりする。だからその貴重な機会に自分を意識して欲しくて、深夜まで一人のファッションショーを開催していた。
最初は服の上から別の服を合わせるだけだったけど、すぐにそれじゃダメだと思い何着も着ては脱いでを繰り返した。
その結果が風邪である。暖房の効いた部屋であっても冬の深夜に何度も下着姿になっていれば無理もない。
だけど、のどかからすれば千載一遇のチャンスで、決して逃せない好機だったのだ。
神様というヤツがいるのなら、恋する乙女の味方をしてくれたって良いじゃないか。
「ん……」
額に触れる冷たい感触に目が覚めた。ぼんやりした瞳を動かすとこちらを覗き込む母、やすこの姿。
「……お母さん……?」
「おはよう、のどか。調子はどう?」
少しずつ覚醒していく頭で確かめてみる。朝はあれだけ酷かった体調は、大分マシになっていた。
頭痛も寒気もかなり引いている。本調子には程遠いけれど、かなり楽になってはいた。
「そう。今ご飯作ってもらってるんだけど食欲はある?」
言われてお腹に手を当てると思い出したように腹の虫が鳴いた。
その音はやすこまで届いたようで柔らかく微笑む。食い意地が張っているようで少し恥ずかしい。
「じゃあ、ご飯の前に汗拭いちゃおうか」
言って彼女は一度席を外した。戻って来た時には温めたタオルと着替えを持って、のどかの為の準備を終えている。
ゆるゆると服を脱ぎ、汗を拭いてもらう。思っていた以上にしっかり汗をかいていたようで、拭われただけでもかなり気分が楽になった。
新しいパジャマに着替えて、もう一度ベッドへ。
娘の様子を確認してから母は優しく口を開く。
「今ご飯持ってきてもらうからね」
そう言って彼女は部屋を出た。楽になったとはいえ、完調には程遠い。ご飯をのんびり待とう、と考えた瞬間にふと思う。
母は『作ってもらってる』『持ってきてもらう』と言っていた。自分で用意しているならそんな表現はしないだろう。
なら、父だろうか。だが失礼ながら父は母と比べて料理が上手いわけではない。のどかの体を拭くのを母に任せて父が料理を、とも考えられるが別にどちらも一人でやれば良いだけだ。
となると、一体誰がいるのだろう。のどかの体調不良を聞きつけて、ちゆやひなた、アスミ辺りが来てくれたのだろうか。
「……ぅ」
色々考えていたら少し頭痛がぶり返してきた気がする。
考えても仕方ないので思考を止めた。どうせすぐに分かることだろう。
そう思っていたところ、まさにドンピシャでノックの音が響いた。中にいるのどかに気を使ったのであろう、小さなノックである。
「……どうぞ」
こちらも小さな声で応じた。大きな声を出すには喉の調子が悪過ぎるので仕方ない。向こうの人にちゃんと届いただろうか。一瞬不安になったものの、扉はすぐに開いた。
「お邪魔します」
その声に思わず跳ね起きる。男性の声だ。ちゆ達ではない。そして、父の声でもない。
というよりも。のどかが『彼』の声を聞き間違える筈がなかった。
「た、拓海くん……!?」
品田拓海。のどかが想いを寄せる少年である。
女性の部屋に入るからか、どことなく気まずそうにしながらも彼は部屋へ入って来た。手にはお盆を持っている。のどかのお昼ご飯だろう。
けど今の彼女にそれを気にする余裕はない。突然自分の部屋に現れた想い人に頭がいっぱいになっている。
「どうしてここに……?」
何となくパジャマ姿を見られたくなくて、布団を口元まで持ち上げながら問いかけた。ついでにそっと髪に触れて寝癖が付いていないかも確認する。
「お見舞いに来たんだよ。そしたら花寺のお母さんに上がってけって言われて」
グッジョブ!と叫びたい気持ちと何で説明してくれなかったの!と叫びたい気持ちが同時に湧き上がってくる。
拓海を引き止めてくれたのは嬉しいけど、それならせめて一言欲しかった。そうしたら心だけじゃなくて色々準備出来たのに。
は、と遅れて気付く。先程体を拭いたがベッドのシーツは変えていない。もしかしたら汗臭いかも。というか軽く拭いただけで全身の汗が拭えたとも思えない。
――もしかして、今のわたしって女の子として良くない状況なんじゃ……!?
「花寺!?大丈夫か、顔赤いぞ!」
どこまでも純粋な、のどかを心配する声。それが何だかとっても近くから聞こえた気がして、同じ所をぐるぐる回り続けていたのどかの思考力が回復する。
結果、かなり近い位置にある拓海の顔を直視することになった。
「ふわぁ!?」
「うぉ!?」
思わず叫び声を上げてしまう。その声に驚いて拓海も後退った。
二人共すぐに居住まいを正すものの、どこかぎこちない空気が流れる。何とか軌道修正しないと、と考えて改めて彼が持ってきたお盆を見た。
「もしかして、拓海くんがお昼ご飯作ってくれたの?」
のどかの問いかけは場の空気を換える為のもの。
すぐにそう気付いた拓海は彼女の言葉に頷き返す。
「ああ。花寺のお母さんが忙しいから自分の代わりに作ってほしいって頼まれてさ」
本当に忙しかったのかは甚だ疑問である。だが、結果的に彼女がのどかへアシストしてくれたことは変わらない。
拓海のお料理が食べられるとなれば勝手に元気が湧いてくるというもの。おかげで、少し回復した体はなんとも正直な反応を示した。
きゅるるる、と響いた音はのどかの腹の音である。
「〜〜〜〜っ!!」
顔が真っ赤になるのを自分でも理解した。拓海の顔が見ていられなくなって、布団で顔を隠す。
恥ずかしい。まさかこんな音を聞かれるなんて。その思いで僅かに体が震えだす。
だけど、その音を気にしているのはのどかだけだった。何せ拓海の幼馴染はあの和実ゆいである。腹の音なんて人生で何度聞いたことか。
むしろのどかに食欲があることがちゃんと分かって安心しているくらいだ。
だから彼女の心の内は分からないまま、拓海は口を開く。
「花寺、自分で食べられそうか?」
少しだけ布団をズラしてのどかは拓海を見る。その眼差しは真剣でのどかを笑う様子なんて欠片も無い。
気にしてるのは自分だけなのかな、と彼女が考え始めたところで、遅れて気付く。
今自分は拓海に問われているのだ。無意識に大丈夫と頷こうとして、しかしそれより拓海の方が早かった。
どうやら自分で思っていた以上に拓海の言葉を聞いてから止まっていたらしい。その間に拓海は結論を出したようで、ベッド脇のテーブルに乗せていたお盆からお椀を手に取った。
スプーンで一口分を掬うとのどかの方へ差し出す。
「……ふわぁ!?」
所謂『あーん』というやつだと気付いて驚きの声が漏れた。
それをどう解釈したのか分からないが、言い訳でもするかのような早口で弁明する。
「花寺のお母さんにさ、もし花寺が自分で食べられなさそうだったら食べさせてあげて頼まれたんだ」
本当に彼女はどこまで読んでいるのだろう。それとも娘のことなんて全部筒抜けなんだろうか。
そっちも気になるけれど、今は目の前のことに集中しなければならない。拓海は手を差し出したままだ。それをずっとそのまま放置するわけにはいかない。
だけど差し出されたスプーンを咥えるということは、だ。喉や歯に当たらないように大きく口を開けて、自分か拓海のどちらかが位置をある程度調整しなければならないということである。
……大きく口を開ける?大好きな男の子の前で?
それは、とってもはしたないことではなかろうか。でも他に有効な手はないし、このままでは拓海も辛いだろう。
数回深呼吸を挟んで、意を決してから口を開ける。ゆっくりと顔を近付けると拓海も合わせてくれて、スプーンの底が舌に触れた。そのタイミングで口を閉じてお粥を頬張る。
「美味いか?」
こくこく、と頷き返すけれども本当は味なんて分かっていない。彼に食べさせてもらっている、というだけでも心臓がはち切れそうなのに、味わう余裕なんてあるわけがない。
しかし、のどかの返答に満足したらしく、拓海は更に続けて一口分を差し出す。
分かってはいたけども、一口で終わりになるわけがない。拓海からすればのどかは自分で食事することもままならないわけだから、彼は全部を食べさせようとするだろう。
一回だけでも恥ずかしかった今の『あーん』を、後何回も。鼓動はどんどん速くなり頭は真っ白になっていく。
だがそれを彼に悟られたら、この心臓に悪くも嬉しい時間は露と消えてしまう。
だから懸命に平静を繕って彼に差し出される卵粥を口にする。きっと本来なら優しくも奥深い味わいが口いっぱいに広がる筈だ。今は気にする余裕なんて欠片もないけど。
もし、のどかに少しでも周囲を見る余裕があったら彼の頬が朱に染まっているのが分かったことだろう。だけど彼女にそんなものはないので、二人共平静を装ったまま、食事を続ける。
食べやすいお粥と言えども、のどかは不調の身。ゆっくり時間をかけて拓海の料理を完食した。
途中ゆい達の食べる量が基準になっていたことに気が付いた拓海が量を減らしたり、なんてこともあったもののそれでも完食は完食である。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様」
両手を揃えるのどかに拓海は笑って応じる。誰かの為にお料理を作るというのはやはり楽しく嬉しいものだ。
食事を終えたのどかは再びベッドに横になる。拓海は食器を片付けようとしたが、どこからともなく現れたやすこが掻っ攫っていった。去り際にのどかへウィンクをしていたので狙っていたのだろう。
やることのなくなった拓海は改めてベッドの隣の椅子に腰掛けた。彼が一息ついたところで、のどかが口を開く。
「今日はありがとう。……それと、ごめんね」
「どういたしまして」
優しく微笑んで、拓海は続ける。
「体調が悪くなるのは仕方ないだろ。花寺の所為じゃないよ」
本当は自業自得なのだが。それを説明しようとすると今度は『何故そこまで気合を入れようとしたのか』を説明しなければならない。
それはつまるところ告白と同義なので、のどかは言葉を詰まらせた。その沈黙を罪悪感と捉えたのか、拓海は明るい調子で尚も続ける。
「もしオレが体調崩したとして、花寺は文句言ったりなんてしないだろうし。オレも一緒だよ」
のどかのことを思って彼は言葉を紡いでいる。それが分かるから、のどかもそれ以上は何も言わなかった。
ただ彼の優しさを甘んじて受け入れる。
「お見舞いに来たのも同じ。もし逆だったら花寺もきっと来てくれるだろ?」
拓海の言葉にのどかは頷きを返す。もしもそうなったら迷わずお見舞いに向かうだろう。
ただ、そこにある根本的な理由はきっと異なる。拓海が純然たる優しさであるのに対して、のどかは下心を含む。勿論、心配する気持ちも大いにあるけれど、少しでも拓海にアピールしたいというような思いも、きっと少なからずある。
それを思うと純粋な思いでやって来てくれている拓海に申し訳なくなって、何となく視線を合わせ辛くて布団をもう少し持ち上げた。
そんなのどかの動きが訴えに見えたのだろう。一層優しい声で拓海は問いかけた。
「オレに何かして欲しいこと、あるか?」
思わず彼の方を見る。純粋で真っ直ぐな心配の色。それが嬉しくて胸の奥が温かくなる。
して欲しいことなんてたくさんあるけれど、それを全部求めるわけにはいかない。
けど、これは千載一遇のチャンスだ。きっと今の拓海はのどかの願いを出来る限り叶えようとしてくれる筈だから。彼の優しさに付け込んでいるような気もするけれど、それでも。
のどかは布団から手を出して拓海の方へ向けた。
「手、握ってくれないかな」
女の子の手を取ることに抵抗があったのかもしれない。それでも最後には手を握ってくれた。
武張った感じの大きな手。のどかのものとはまるで違う男の子の手だ。
それがのどかの手を包み込むように、優しく握っている。
「昔、入院してた頃ね。よくこうしてお父さんやお母さんに手を握ってもらってたんだ」
「……オレの手で、その代わりになれば良いけど」
「なるよ。拓海くんの手、すごく安心する」
ベッドの上で相貌を緩ませる彼女はどこか儚く消え入りそうな切なさがあった。
拓海は握る手に力を込める。彼女が消えたりしないように。
彼の表情と手の感触を確かめながらのどかは薄く笑む。あの頃は一度眠りについたらもう目覚めないんじゃないか、という恐怖が常に付き纏っていた。
でも今は違う。繋ぐ手がそれを感じさせてくれる。
それで満足出来れば良かったのに、一つを求めてしまったからワガママな自分はもっと、もっと欲しくなる。
拓海の思いが、温もりが、優しさが。
欲しくてたまらなくなってしまう。
「――――――しい」
漏れ出た声はあまりにも小さかった。拓海も聞こえなかったのか、小さく首を傾げている。
このまま有耶無耶にするわけにはいかない。勇気を出すべきタイミングは、きっと今。
「わたしのこと名前で呼んでほしいな」
拓海が女の子の名前を呼ぶ理由は三つに大別される。
一つ目はその子が外国の名前を持つ場合。ソラ・ハレワタール等が該当する。言い易さなのか語感なのか、とにかく名前が外国のものである場合彼は名字ではなく名前で呼んでいる。
二つ目は本人が頼んだ場合。のどかの知る所では風鈴アスミ辺り。のどか達が付けた名前を彼女は大層気に入ってくれている。なので、彼女は拓海に自己紹介した時に流れで名前呼びを求めていた。以来、彼女は名前で呼ばれている。
最後はそれら二つに該当しない場合。このパターンに当て嵌まるのは唯一人、和実ゆいだけだ。外国の名前でもなく、名前呼びを求めたわけでもない、心の近さを感じさせるもの。
端的に言って羨ましかった。彼女達が名前で呼ばれているのを見ると、どうしようもないくらい憧れた。
だけど一歩を踏み出す勇気もなくて今までずっと言えずにいたのだ。
だけど今なら言える。もし拓海が嫌がったなら、後で『熱で変なことを言ってしまったから忘れて欲しい』とでも言えばどうにでも誤魔化せる。
だから、今なのだ。
「えっと……」
頭を掻く拓海。困らせてしまっただろうか、と嫌な汗が吹き出してくる。
今からでも修正しようと口を開きかけて、
「――のどか」
大きな声ではなかったけど、彼は名前を呼んでくれた。
一瞬だった所為で、待ち焦がれた自分の幻聴じゃないかという思いが湧いてくる。そんな思いを払拭するかのように、拓海の言葉が続いた。
「これでいいのか、のどか?」
とくん、と胸が跳ねる。たったの三文字を呼ばれただけなのに、心も体も舞い上がりそうな程に嬉しい。
拓海の顔には僅かな赤色があって、照れているのが分かる。だけど彼は呼んでくれたわけで、それもまた嬉しい。
たくさんの『嬉しい』が重なって心臓がどんどん速くなっていく。
ああ、と聞かれないように呟いた。
生きてるって感じがこの上なく湧き上がっていく。
「拓海くん」
「どうした、のどか」
「えへへ、何でもない」
「何だよ、それ」
「………………」
「のどか」
「なぁに?」
「何でもない」
「何それ」
他愛ないやり取りがおかしくて、つい笑ってしまう。まるで初めて名前で呼び合う恋人同士のようだ。
嬉しくて、ドキドキして、自分が抑えられなくなっていく。
だけど調子の良くない体で無茶するわけにもいかない。何度も深呼吸を繰り返して心身共に落ち着かせていく。
しばらく経てば何とか平常に戻ることが出来た。落ち着いた状態で改めて拓海の手を握っていると、だんだん眠気が押し寄せてくる。
お腹いっぱいになって、薬も飲んで、これ以上ないくらい安心して。
これならきっとぐっすり眠れることだろう。
「元気になったら今日の分も合わせて遊ぼうな」
「……遊んでくれる?今日、台無しにしちゃったのに」
「当たり前だろ。思いっきり楽しもうぜ」
言葉を交わしているうちに眠気が強くなって、意識がぼんやりし始めた。交わす言葉もどこか曖昧になっていく。
「……拓海くんは優しいね」
「誰にでもそうしてるわけじゃねぇよ」
でもそれはきっとのどかが特別だから、ではないのだろう。ある程度親しくなった者全員に見せる優しさだ。
それは彼の魅力でもあり、欠点でもある。特にその優しさに振り回される側からすれば。
だけど今は彼の優しさに甘えることにしよう。
握りしめた手の感触を確かめながら、意識が夢の中へ旅立ち始める。
「……拓海、くん……」
『――――』
続けそうになった四文字は意識と共に溶けて消える。
でもその方が良い。大事な四文字は意識がはっきりしている時に、面と向かって言うべきだから。
「……おやすみ、のどか」
完全に眠りにつくその寸前で、彼の声が聞こえた気がした。
最悪だと思っていた日は一転して最高の日に早変わり。
神様というヤツは随分と遠回りに恋する乙女を応援してくれているらしい。