今夜は眠れない
不審者X号視力を取り戻すための手術に同意したものの。
塞ぎ込んで病室に引きこもっていた自分は、「まずは術中を耐えうる体力が必要」ということでリハビリに励むことになった。元ジェターク寮生としてはちょっと恥ずかしい。
そんな折、「頑張ってるからいいもの買ってきたわよ〜」と妙に浮かれた母が持ってきたのは、箱に入った小瓶だった。
「グエル先輩の香水?」
「そうそう。今回メーカーとタイアップしたんですって。いつも使っていらっしゃるものをベースに、CEOをイメージしたブレンドのオリジナル」
お母さんケレスさんのファンだからそっち買っちゃったわ〜、とるんるんの母は置いておいて少し香りを嗅いでみる。ややスパイシーな柑橘系の香りの奥に、どこか覚えのある複雑な匂いがある。
「ううん…。いい匂いだけど、ちょっと自分が使うには男性的すぎるかも…」
「そうねえ、それは思ったわ。あなたが使いにくいならお父さんに使ってもらう?」
「それは嫌」
ごめんねお父さん、お父さんは悪くないけどそれはちょっと嫌です。
正直手放したくはないけれどと悩む私に、枕とかにかける使い方もあるわよ〜、ところころと笑ってその日母は帰って行った。
結局その日、夕食後まで私は香水の処遇に悩むことになった。
それでうっかり壁にぶつかって看護師には心配され。こう言う時に割と思い詰める性格が出てしまうな、などと反省しつつ。
思い切って入浴前に、ええいままよ、と手探りでベッドサイドの小瓶を手に取ってワンプッシュした。今考えると軽率である。
今日は先輩の夢でも見れるかな?と呑気に考えつつベッドに転がった私を、ふわりと深い香りが包んだ。
瞬間、少し硬くて大きな手の感覚が脳裏に閃く。心臓がばくん、と鳴った。
この香り。滑らかな頬。柔らかな唇。通った鼻筋。高めの体温。
至近で聞いた低い声。
『どうした』
「う、うああああ…!」
寝床で一人硬直して呻く自分は、側から見ればさぞ滑稽だっただろう。
正直告白しよう。時々先輩がお見舞いに来てくれた時のことを思い出しては、頭に血が昇っていた。ただそこに嗅覚方向から別の威力が加わることなんて想定外だった。
指の先で触れた泣き黒子と、そこに重なる先輩の指まで思い出してしまったらもうダメだった。動悸と頬の熱が止まらない。
(私の、私のアホ…!)
勇気を振り絞って枕をそーっとベッドの端にやる。距離は少し空いたものの、グエル先輩の匂いがすることには変わりない。
明日絶対枕カバーを替えよう。
そう決意しながら、私は枕なしで一晩悶々として過ごしたのだった。