人間宣言
「お前、本当は人を殺したくてここに居るんじゃないのか」
海賊たちの手から救出した後抱えたままでいた子どもをおれの腕からもぎ取った同僚は、そんなことを口にした。
何を言われているのか、本気で分からなかった。乗り込んだ甲板では敵味方入り乱れて戦い、本部勤務と相成ったばかりのおれなんかよりもこの同僚の方がずっとずっと多くのにんげんを殺していた。おれにできたことと言えば、せいぜい母親を殺されて泣き崩れる子どもへと迫ったちょっと厄介な敵を仕留めることくらいだ。
それだって、仕方なくのことだった。東の海でおれを鍛えてくれたガープ中将からは極力相手を殺さずに捕縛するよう教わったし、支部でもそう実践していた。今回あの海賊たちを殺したのは、相手が思いのほか手強く、また背後の子どもを守らなければならなかったから。
この海に君臨する正義を守り抜くためには、常に選択を迷わぬ覚悟が必要だ。
おれはできる限りのことをしたつもりだった。
正義が取りこぼした彼ら彼女らの命に、弔いの祈りを捧げることも。
せめてどうか、その魂に安寧があるようにと。
「…なんでお前みたいなのが、センゴク大将の養子なんだ」
ひぐ、と喉が奇妙な音を立てた。
おれを睨めつけるその顔は、その目はいやだ。
仲間であるはずのにんげんたちの視線がおれを捕えている。どうして、どうして。
焼けつく石壁と、足先から舐め上げていく炎。
同じ高さから、子どもの悲鳴が聞こえてくる。
あにうえ、兄上。
隣に立つ気配に飛び起き、腕をすり抜けナイフを構えて臨戦態勢を取る。
ここまで接近されて気付かないなんて。
「……すまない。驚かせてしまった」
コラソンか。息を整え、CPから拝借した上物のナイフをシースに戻した。
この男を傷つけていたら、本当にまずいことになるところだった。
「じきに皆が揃うが…体調が優れないのなら自室に戻って構わない」
ノックを二回。ノーの合図だけを返し、仮眠に使っていたソファーに座り直す。
今日は兄に加えて最高幹部たちが揃う日だ。部屋に籠ってなどいられるか。
まだ何か言いたげなコラソンは、おれがさっさと本に目を落とすと観念したように立ち去った。その態度はいつも通りで、疑いが増したわけではなさそうだ。裏を返せば常に疑われているとも言えるのだが。
それにしても今更あんな夢を見るなんて。海兵になり任務をこなすようになってからは昔の夢なんて見たこともなかったのに。それにちょっとばかし切り取り方に悪意を感じる。
あの後彼らは騒ぎに気付いたサカズキ中将にこってり絞られたらしく、さらに一年が経つ頃にはどこぞの戦場を経験したとかでおれへの対応も良好なものに変わった。
だから、本当の本当に今更なのだ。
サカズキさんは、おれだって生きていてもいいのだと教えてくれた人だった。
徹底的な正義には、海兵として"正しい"おれなら肯定される隙間があったから。あの人の部隊は息がしやすくて、功績を積んだ頃にはおつるさんとの連名でセンゴクさん直属の新設部隊へと推薦までしてもらった。
この手に正義がある限り"おれみたいなの"だって息をしていてもよいのだと、それは今も確かにおれのよすがになっている。
映像、盗聴用の電伝虫はチェック済み。毒等薬物の仕込みは無し。敵対生物は全て駆除済み。アジトに出入りしている範囲で炙り出した"ネズミ"たちも始末した。
半年ほど前兄と共に戦ったこの大部屋に、いくつもの足音が迫ってくる。読みかけの本をサイドテーブルに置いて、北の軽い煙草に火をつけた。仕事も自由も与えられずアジトの中で無為に過ごす日々には、このくらいの重さが丁度いい。
煙を吐き出し、兄に渡されたサングラス越しに扉を見やる。
「ウハハハ!相変わらず懐かねえな!」
「んーんー!コラソンもちっとも仲良くなれてねえ!べっへっへ!!」
「そうでもない。今日は隣に立てたからな」
「…驚かせてナイフを抜かれたと、言っていなかったか」
開いた扉からぞろぞろと、二ヶ月ぶりに顔を揃える最高幹部たちが入ってくる。
連中を従えた兄は立ち上がったおれのサングラスをするりと取り上げ、じっと瞳を覗き込んだ。
「変わりはないようだな、ロシナンテ」
肯定のノックを3回。相も変わらず愛想のないやり取りだけを済ませて、上座へついた兄の後ろに控える。
いつ誰が兄に牙を向いても、違わず脳天を撃ち抜けるように。
想定外も想定外の状況で合流してすぐ、兄が絶え間なく刺客を送り込まれていることは分かった。おれと兄とで始末したCPたちは大掛かりかつ慎重で確実な部類に属していたが、それを除いてもいっそ異常な数の敵対者があらゆる手段で常に兄の命を狙っていた。
そんな訳で、ただの"ボスの弟"という役職どころか仕事すら与えられない最悪の立ち位置でスタートを切った潜入任務は、悲しいかな目につく範囲の敵対者を丁寧に丁寧に排除しそれなりに現れる刺客を始末するところから始まったのだった。
海賊稼業でアジトを空けることも多い兄の留守を預かるコラソンが、その状況に慣れきっていると知った時には頭を抱えたものだ。なんでだよ。こんな状況じゃボスの命がいくつあっても足りないだろ。
軟禁状態に近いおれが勝手にネズミを釣り上げ始めたことに奴が驚いているのを見た時なんか、思わずタバコで服を焦がしてしまった。驚きたいのはこちらの方である。
その経緯もあり、また組織内で利権が分散しているシステムもあり、おれはこいつら最高幹部を全くもって信用していなかった。
「へえ!コラソンを長期任務に!!」
「ああ。少し先の話になるが、新たに席を埋める者も見繕う」
「じゃあ呼び名も戻すのか?んねーんねー、ただのヴェルゴに戻るのか?」
ヴェルゴ。警戒につぎ込んでいた意識に、聞き覚えのある名が引っかかる。
それは、兄の"友人"だった子どもの名だ。
「その予定だ。問題はおれの後釜に誰を据えるかだが…」
「ウハハ!!そこのそいつも始末とネズミ捕りの腕なら十分なんだがな!」
「待て、お前たち…おい、どうした?」
まさか。
”ヴェルゴ?"
「そうだ。お前にも昔会わせたことがある…覚えてるか?」
覚えて、いる。覚えてる。
言われてみれば面影があった。頬によく食べ物を貼り付けているところとか。
「こっちはよく覚えてるぜ!おれたちゃ遠目に見るだけだったが…ドフィの後ろでだんまりな所なんて全然変わってねえ」
愉快げなディアマンテにトレーボルも頷く。
「前髪は少し短くなった」
「たしかに」
少し考え込んだピーカが続き、コラソンも同意した。
なるほどそれなら、全て辻褄が合う。
刺客の存在に慣れきって半ば放置気味だったコラソンも、顔を合わせることもそう多くはない最高幹部たちが、組織のボスである兄に気安い態度をとることも。
あの非加盟国に居たならば、兄が何であるかなんて最初から知っているはずだ。けれどその血が敵を持つことを知ってなお、それとは何の関係もないところで兄を自分たちの王と定めた。
彼らにとってこの状況は長い間、いや、始めからずっと当たり前のことだったのだ。だって皆、子どもと呼ばれる年頃であった兄と共に今まで生きてきたのだから。
おれの居ない14年を、そうやって生き抜いてきたのだから。
そうか、こいつらは"家族"なんだ。
存在そのものの肯定と共にあるそれは、きっとそういう名前を持つ。
この世界に、正しく"にんげん"のふりなんかしていなくたって受け入れてくれる場所があるなんて。心にバケモノを飼っている、おそろしい血のおれたちを。
その衝撃を、なんと名付ければいいだろう。
彼らにとって、兄が兄であるだけで、それだけで十分肯定する理由になり得るのだ。修羅でも鬼でも夜叉でも、今ここに集うにんげん達にはなんの関係もないことだ。
露骨に警戒を解いたおれの様子を、兄と最高幹部たちが窺っている。もういいんだ。あんたらが兄を害することなどないのだと、おれは信じることにした。
ああ、よかった。
兄にはちゃんと家族がいたんだ。
きっと、おれじゃ兄の居場所にはなれなかった。たった、それだけのこと。
それだけのことが、こんなにもうらやましい、なんて。
なんて、悍ましく、あさましい。
おれはずっと、兄を裏切るためにここにいるのに。
あの日父を殺した兄の、新しい"家族"を、今度はおれが引き離す。そのために。
それでも、それでも正しくなければ、祈りを知らなければおれたちは本当のバケモノになってしまうから。おれたちを焼いたにんげんたちみたいに、ずっとあの地獄に繋がれ囚われたままになってしまうから。
普段からよく使っている部屋の隅のソファーに寝転がって、読みかけの本を顔の上に伏せて目を閉じる。緊張から解放された体が、柔らかなクッションと睡魔に埋もれて沈んでいく。
ああ、ああ、ああ。
兄上、あにうえ。
どうしてぼくを置いていったの?
とうにこの世のどこにもいない子どもの声を、真っ白な正義で絞め殺す。
他愛ない話が交わされる彼ら"家族"の団欒を閉め出した意識は、すぐに壊れて泥のような眠りに溶けていった。