人間の条件:上
おれが初めて捕えた海賊は、血の繋がった実の父親だった。
身を切るような冷たさに支配された、ある雪の日のことだ。
「殺すか?」
当時おれが所属していたバレルズ海賊団の船員を瞬く間に物言わぬ死体の山へと変えた男は、腰が抜けたままのおれにそう言った。
特徴的な形状のサングラスに薄紅のファーコート。悪名高いあの海賊だと一目で判る出で立ちのその手には、四肢を折られて呻く父から取り上げられた短銃が逆さに握られていた。
「どうだ?」
促されてやっと、銃はおれのために差し出されたものであったのだと認識する。
殺す。父を、この手で。
そんなこと、考えたことも無かった。
ずっと、途方もなく大きく見えていた父よりよほど長身の男、ドンキホーテ・ドフラミンゴは不気味なほど血汚れのない床板の上に立ち、口元を歪めたままにこちらを見下ろしている。
差し出された短銃はちょうど、へたり込んだままでは届かない高さだ。
割られた窓から、夜の凍てつく雪が絶え間なく舞い込んでいる。寒さと恐怖から来る震えに耐えながら、おれは精一杯両足に力を込めて立ち上がった。
「……ドリィ」
身を捩る父が、おれの名を呼ぶ。
父が"正しい海兵"であった頃から変わらないその名で。
かつては父と共に正義を背負ったフリントロックは、今は持ち主の手を離れて静かにおれの選択を待っている。
答えはもう、初めから決まっていた。
「殺しません」
こちらを見下ろす男の口元から、笑みが消えた。
冷え切った体に反して、汗が首筋を伝う。いつでもおれ達を殺してしまえるこの男にとって、こんなもの単なる遊びにすぎない。機嫌を損ねればおれもすぐに死体の仲間入りとなるだろう。
だが退けなかった。どうしても首を縦には振れぬ理由がおれにはあった。
「なぜ?」
父に殴られ蹴られ、敵襲があろうとなかろうと常にボロボロのおれを眺める男は、圧倒的な優位の中からひどく慎重にそう問うた。
本当は、沢山の理由があって然るべきだろう。心折れて人の道を外れ、非道の限りを尽くした父を擁護することなど誰にもできはしない。それにおれが手を下さずとも、この男が父を殺せばこの選択に意味などないのかもしれない。
しかしその夜、おれの心に在った想いは、ただの一つきりだった。
「おれが憧れた父なら―きっとそうしたと思うから」
父の息を吞む音が、しんと静まり返った部屋に響く。
永遠にも感じる沈黙の中で、おれは男を真っ直ぐに見上げていた。
それが当時の、父が求めた富も名声も力も何一つ持たない俺の手元に残された、人としての最後の矜持だった。
「……そうか」
あ、笑った。
ずっと笑みを貼り付けていた口元が再びゆるく弧を描いたその時のことを、何故だかおれは今も、奇妙なほどよく覚えている。
四肢が潰されたままの父を背に負い、雪の深く積もる道をひたすらに歩く。目的地は、海軍の船が来ているという港だ。
おれの答えを聞いたあの男は短銃を死体の間に放り投げ、ただ父と共に港へ向かえとそう言った。
世界政府と海賊の、それも50億にもなる実の取引など当然違法だが、"そう"決定が為された以上目立たぬ程度の海兵は必ず警護につく。取引が無事に終わりさえすりゃその場で捕縛もできるイイ立ち位置だ。そいつらに合流して事情を伝えろ。連中も、50億の行き先には興味があるだろうさ。
理路整然と進む説明と指示には手慣れが滲んでおり、男を覆う狂気的な噂とのあまりの差に夢でも見ているかのようだった。
なぜ、と呆けた問いを投げかけたおれに男は、お前を部下にする気はなくなったからと律儀に答えを返して立ち去った。はっと、眠りから醒めた心地で暗い夜空から目を離す。よく目立つ色のコートが闇の奥に消えてようやく、おれは倒れたままの父に手を伸ばすことができた。
父の体は相応に重たいものだったが、背負って歩くのに難儀するほどではなかった。かつて小さな己を抱き上げた頼もしい腕は半ばで折られて垂れ下がり、歩みに合わせてゆらゆらと揺れている。海兵のもとを目指すおれを、父は黙って受け入れていた。
港までの距離は決して短いものではない。雑用として物資の補給も受け持っていたおれはそのことをよく理解していたが、不安はなかった。宴のための荷を背負う労働も父を背負う負担も、本当は大して変わりはしないのだと気付いたためだ。
いつも暴力に怯え震えていたおれは、いつの間にかただ父を見上げるだけの子供ではなくなっていた。
「君!その男は……いや、一体何があった?」
その人に出会ったのは、港に続く街道の半ばだった。
街灯りの間に海軍支給ランタンの光の群れが見えた時から止まらなくなった涙を、父を引き取られて空いた腕で乱暴に拭う。
涙の故は悲しみか安堵かそれとも別の何かなのか、自分でも分からなかった。
ただただ、おれの生きていく未来にもまだ希望があるのだということだけが分かっていた。
「オペオペは奪われました。それで……父を、連れて、港を目指していました」
「海兵が港にいることを知っていたのか?」
教えてもらったのだとは言えず、青くなっているのだろう唇を噛んで小さく頷く。
「…そうか。詳しいことは、船で聴かせてくれ」
軍艦に招かれ元からついていた傷を丁寧に手当されて、温かいスープを渡される。艦内の保存食から作られた質素なスープは、記憶の中にしまい込まれていた味がした。
部隊を率いていた海兵は、ヴェルゴという名だった。
ヴェルゴさんは疲れ切って要領を得ないおれの話を辛抱強く聴いてくれた。オペオペを奪った男の名を告げることをためらうおれの肩に手を置いて、仕方がないなという風に小さく笑っていた。
「心配ない。君が何を言わずとも、殺しのやり口で犯人は十分に分かる。気まぐれで有名な男だが、生かす相手は選ぶ性質らしい」
「おれは…彼に救われたんでしょうか」
「それは君にしか決められないことだ」
また、おれが決めるのか。
己の意志による選択というものにどうも不慣れなおれは、しばし沈黙を返してから小さく口を開いた。
「…なら、救われたんだって思っておきます。おれはずっと…昔の父のような海兵になりたかったから」
幼いおれが憧れた、正義の二文字を真白いコートに背負う未来。いつしか幻のように遠のいていたその夢は、恐ろしいやり方で、しかし間違いなくあの男によっておれの手に戻されたものだった。
「だが、君を救った男は海賊だ。こちらに来れば道は交わらない。それでも君は海兵を志すのか?」
「はい」
今度は迷いなく答えたおれに、ヴェルゴさんは顎に手を当て考える素振りを見せた。暗い色のサングラス越しに、視線が合わさる。
「決心が固いのであれば、おれが本部に君を推薦しよう。まずは身元保証人を見つける所からにはなるが」
「え?」
そんな都合の良い話があってよいものだろうか。父に連れられる形とはいえ、おれはもう長いこと海賊団に属していたというのに。
目を白黒させているおれを見て、ヴェルゴさんは温かな笑顔で言った。
「君は今日、正義の心をもって海賊を捕えた。初手柄としては十分以上だろう」
これからよろしく頼む。
差し出された手に、熱い雫が再び景色を濡らす。暴力を伴わない誰かの掌というものすら、おれは長いこと忘れていたようだった。
そうだ、ここからだ。
今日ここから、おれは始まるんだ。
大きな手に、19になっても未だ頼りない己の手が重なる。掌に伝わる確かな熱を逃がさぬようにおれは、その手をしっかりと握り返した。