亡霊

亡霊



『今日はどうする?』


『もちろん、やる。そろそろアンタの鼻っ柱、へし折らないと気が済まないし』


『俺はもう、柳に負けるつもりないぞ』


『上等。今日も夜まで付き合ってやるから、覚悟しな』


『望むところだぜ』


修也が柳と練習を始めてから暫く経った。

修也は休み時間に自身の携帯でメッセージを送る。

相手は勿論、あの柳だ。


柳は隣のクラスだが、わざわざあって話すより、こっちの方がなんだか2人らしかった。

強気な、だがリスペクトもある、そんなたわいもないやりとり。

アキラと違う、支える事に充実感を感じる様な幼馴染ではなく、純粋に高めあう…競い合う仲間。

あの発作は…最近めっきり起きなくなった。

……正直、毎日が楽しい。


あいつらの事を考えずに、思うがままにバスケができる。

なんでもっと早く、こういう事が出来なかったんだろう?

修也は自分自身に疑問を持った。

答えは簡単だった。

柳が自分を誘ってくれたからだ。

あいつが誘ってくれなければ、ずっとバスケに未練を残したまま、屈辱の発作に苦しめられていただろう。


……柳と、夜までかぁ……


最近はごく普通に柳と一緒練習する事が、当たり前の日常になってきている。

柳は凄く、……いい奴だ。燻っていた俺をもう一度、そして新しいバスケの世界に連れて行ってくれたんだから。本当に感謝しかない。


……でも何故柳はあの日、俺を誘ったんだろうか?

俺をストリートバスケの仲間に入れたかったから?

友人が欲しかったからか?


そうかもしれない。俺はそれなりにバスケ部では活躍してたし、学校で心おぎなくバスケの話ができる、バスケ部じゃない奴を探してた、とか?

それとも、他の何かがあるのだろうか。

柳の気持ち、

そして俺の、気持ち……

それ以上考えると、なんだが胸の鼓動がおかしくなる。

ドキドキと、そして同じくらいの不安。

いやいや、バカな事は考えるな。

唯の、純粋な好意かもしれないだろ?


……でも……キスとか……してるんだよなぁ……


修也の中で柳への感謝と好意がぐるぐると渦を巻く。自分は柳とずっと友人で居たいのだろうか?

いいや、多分違う。

もっと深く、柳を知りたい。

でもその気持ちの先にある……深く刻まれた傷が、自身の不安を煽る。

自分がもう一度、ちゃんと人を好きになる事ができるのだろうか?

柳を好きになる事がなければ、もう心を壊される事はないのではないのではないか?


……もう裏切られるのは、嫌だった……


修也を別の世界に連れて行ってくれたあの少女に惹かれていても、修也の心に刻まれたその傷が、修也の踏み出す足を留めてしまっていた。


“ねぇ、しゅーや、居る!?”


そんな思考から現実に意識を引っ張り上げたのは、聞き慣れた、聞き慣れ切った少女の声だった。

振り向くと、そこに居たのは長身で、ショートカットの、元気があり余って、周りに振り撒いてる様な、そんな女の子。


「あ……アキラ……」

「しゅーや、バスケもっかいはじめるの!?」


少女の視界が修也を捉えると、ぱっと明るい笑顔が咲き、開口一番、もの凄い勢いで修也の机に……いや修也自身に飛びつく。

彼の戸惑いなど、お構い無しに。

相手の懐に飛び込んで、いつの間にか相手をペースに巻き込む。

榊アキラという少女は、そういう少女であった。

アキラは抱きつくなり、いやー、よかったよかった。と修也の頭を撫でる。

いつもと……いや、半年前と変わらないやりとり。

クラスのみんなは、久々にこの2人のいつもの光景見たなくらいの反応で、あまり驚く様子はない。

……そうだ。これが普通だったんだ……ごく普通の、俺たちのやりとり。


“しゅーや、夏休み用の新しいメニュー組んでよー”

“向こうの選手に競り負けた〜っ、くやしぃーっ!!”

“今回のMVPはしゅーやでーす!!”

“しゅーやがいると、あたし負ける気しないんだ“


そう、

何も変わらない。

……まるであの日見たものが、幻だったかの様に……


「お母さんが、おばさん経由で教えてくれたんだ。しゅーやまた、バスケの本とか買い始めて、おばさん安心したって……」

それ聞いて、あたし嬉しくなっちゃって!!

すこぶる上機嫌なアキラはぴょんぴょんと飛び跳ねる。

……ああ、そういうことか、俺が最近帰るのが遅くなっても、母さんがあまり心配しなかったのは……、俺がもう一度バスケを始めた事に気づいたからだったのか……

半年間、あんなに口うるさかった母が、口を出さなくなった理由に、今更ながら気づく。


「また、しゅーやと一緒にバスケできるの、凄い嬉しいよ!!」

「まぁな……」


身体が勝手に、自然に相槌を打つ。

…おかしい。

思考が今の自分の意思から離れていく感覚がする。


「修也がまたバスケ部戻りたいっていうなら、コーチにの言うし、あたし応援するよ」

「ああ……、そっか」


俺はバスケ部に、戻りたいのか?

そんな筈はない。そんな筈は……無い筈だ。

思考が彼女に…アキラに引っ張られているのだ。


「やっぱさ、しゅーやが応援してくれないと、あたし全力でないなぁー……なんちて」

「お前いつもそんな感じじゃん?負けた時俺のせいにしたいだけだろ?」

「なによぉ〜!?」


……おかしい。

なぜこんなに俺は安心している?

何故こんな会話が出来る?

コイツは……栗山を選んだんだぞ?

学校であんな事までして、


『……じゃあさ、いつもみたいに練習メニュー、考えてあげようよ。アキラ、きっと喜ぶと思うよ?』


心のどこかで誰かが囁く

やめろ…

修也はその囁きを振り払おうとする。

しかしその声は消える事はない。

それは他ならぬ、自分自身から出ているのだから。


『頼ってくれてるのは、いい事だろ?断るなよ……そうすればさ……』


俺は…そんな事、望んでない……


『……嘘だね』


それは修也の心の中に居る、十数年共にしたアキラへの気持ち。

アキラと2人で過ごした思い出。

アキラを信じたい気持ち。

アキラを好きだった時の気持ち。

…その消せない想い達。

それが修也を、過去の暖かかった2人の世界に連れ戻そうとしていた。

……喩え、それが幻影だったとしても。


「しゅーや、あたし、ほんと頼りにしてるんだから……」


アキラは小さく呟き、俺を背中から抱きしめる。…ずっと昔から感じていた。暖かくて慣れ親しんだ感覚。

でも、どこかに、ほんの少しだけ。

違和感を感じる。

アキラは、香水なんかつけていたか?

抱きしめ方が近すぎて、どこか変じゃないか?

修也の浮かんだその違和感を、過去の思い出達が鎖で縛り上げ、表に出さない様に閉じ込めようとする。


『アキラを傷つけるな……』


…頼む、早く、早く終わってくれ……

アキラの語る言葉全てに、暖かく優しい気持ちが灯る。

だがその苦しみに、修也は今の時間が拷問の様に感じる。

アキラとのふれあいと現実の違和感の矛盾が、その疑念の正しさを証明していた。

記憶が、思い出が、修也に牙を向く。

決して消えないそれが、修也の心を、引き裂いていく……

胸に湧き上がる暖かな感情が、ひどく恐ろしく、グロテスクなものに感じた。


「アキちゃん、コーチが呼んでるよー?」


……教室から顔を出すバスケ部員がアキラを呼ぶ。その声に晄は、ぱっと弾かれた様に修也を顔放する。


「もー、コーチってばほんと、人使い…荒いんだから♡……」

そう言いながらも、どこか期待する様な声色に、修也の背筋が凍る……

「ア、アキラ……その……っ、」

じゃあね、修也。また今度、話そ。

そう言って、修也から離れると、こちらを振り返りもせず、そのまま教室を出て行った。


今までのどんな言葉より、どんな疑念より……アキラのその振る舞いに、……心が打ちのめされた。


叫び出さなかったのは奇跡に近かった。

修也はちょっとトイレに、と言って教室を出る。

トイレで変な事すんなよーと、囃し立てる友人達の声が遠くに聞こえた……


『……栗岡のところに行って、何するか、童貞のお前でもわかるよね?でも、アキラを諦めたくないよね?……だから、許せるよね?』


うるさい!!黙れ!!

心が滅多刺しにされる。他ならぬ、過去の自分に。

どこかに行かなくては……あいつから、アキラから離れなくては……

修也は壁に手をつきながら、ふらついた足取りで、必死で廊下を進み、階段を登る。修也の世界が平衡を崩していく。

どこでもいい、誰もいない場所へ……どこかへ……


『……誰かのものになったからってアキラを愛せなくなるのは、おかしいんじゃないかな?』


違う……


『……今までだって仲直りできたじゃないか?』


違うっ、そうじゃない!!

そういう話じゃないんだ!!


『……きっと大丈夫だよ。だって今までアキラと一緒だったんだから。それが続くって、信じてたんでしょ?だったら』


……違う……そうじゃないんだ…


時に責め立て、時に優しく……そんな囁きに必死で抵抗しながら、屋上まで続く階段の踊り場までなんとか辿りつくと、修也は手すりを両手で握り、息を整えようと足掻く。


あいつは俺の気持ちを……

『……もしそうだったとしても、それはお前が至らなかったせいだろ?アキラを悪く言う必要は、ないんじゃないか?』

呟きは、アキラを庇い、修也を責める。

こうなったのは、お前のせいだと。

それでもだ!!

……相手はあの栗岡だぞ!?あいつがみんなに何をしたか、それを忘れるなんて…

『…そうだよな、栗岡が憎いよな?……でも、お前が許せば、アキラは帰ってくるかもよ?』

囁きは修也が心のどこかで考えていた、最悪のアイディアを浮かび上がらせる。

何言ってんだよ……やめろ!!そんな事望んでない!!

『……本当は気づいてるんだろ?“気付かないフリしてれば……アキラはいつか、帰ってきてくれるかもしれない“って』

そんな……馬鹿な事……

彼等の最低の選択肢が、ひどく暖かく、魅力的に見えた……

『……お前がちょっとだけ我慢すれば、全部、うまくいくんだよ』

囁きは優しく修也を包み、引き込もうとする。過去へと……何も知らなかった愚鈍な自分へと……


違う……アイツは俺を……裏切って……知ってたのに……

俺に……何も言わず……

俺の気持ち……ずっと、知ってたはずなのに……


心の中の修也が崩れ落ちる。

もうこれ以上は、ダメだ。

苦しい……息ができない。

呼吸をしようとしても、吸ってばっかりで、息が吐けない……

胸を掻きむしる。このまま死んでしまうのだろうか?

でも、こんな辛いなら、もう死んでも…


「橘くん」


聞き覚えのある声が、遠くに響く……

もはや意識が朦朧として、それが幻聴なのか、現実なのか、よく分からなくなる。


「やなぎ……やなぎっ……」


呼んだのか、求めたのか、

修也にはもうわからなかった。

修也は不意に抱き寄せられ、顔が何かに覆われる。

何か柔らかくて、暖かくて、良い匂いがするもの……

それが柳の胸元だということに気付くまで、しばらく時間がかかった。

「はい。吸ってー……吐いてー」

幼い子供の様に、柳の指示通りに息を吸って、吐く。彼女も同じ呼吸のリズムで、柔らかな胸が上下する。暖かく、安心する体温に修也は少しづつ呼吸と落ち着きを取り戻す。

ようやく息ができる様になって、なけなしの虚勢を張って

修也は小さく、ありがとな……と呟く。

彼女の前では、こういう姿を見せたくなかった。

……失望させたく、なかった。

「……なんか、俺、カッコ悪いとこ見せちまったな」

「………………いいよ?泣いても。」

泣いて、いいんだよ。精一杯の修也の強がりに、驚きでも、嘲りでもない、純粋で優しい、花梨の声色が、修也の空元気の壁を溶かしていく。


……うっ、ううっ、うあぁぁ……


嗚咽を漏らし、膝を屈して少女の胸の中で啜り泣く少年。花梨の胸元を修也の涙と涎が濡らす。

修也はしばらく泣き続けた。だが、ブラウスの胸元が彼の涙と涎でぐっしょりと濡れても、花梨は構わず彼を優しく抱きしめ続けた。

「……やなぎ……っ、ごめんな……っ、こっ、こんな……っ、ところ……お、お前には見せたく…なかった……」

柳の前では、こんなボロボロな自分を、見せたくなかった。せめて、彼女の前では……強い男でいたかった。

…多分、好きだから。本当はこんなに弱い自分を隠したかったから。

花梨は優しく首を振ると、ぎゅっと強く抱きしめる

どこか、寂しげに。

「……男の子でしょ?……1回の失恋くらいで……榊さんより良い女なんて……ほら、沢山居るよ……」

そんな修也を胸に抱いて、少し冗談めかした口調で、しかし幼子をあやす様に優しくその頭を撫でる。

「……違うんだ……」

「……橘くん?」

「……怖いんだ……」

花梨の胸の中の修也の囁き。

それは悔しさと、後悔と、……そして恐怖に震えていた。

強くなった筈だった。

もう、怖くない筈だった。

だが、アキラと対面して、同じ空気を吸った瞬間、自分があの頃に引き戻される様な感覚が、修也を襲った。

弱く、鈍感な自分……

そして何より、暖かく、居心地の良い、アイツの隣……

十数年、ずっと一緒だったのだ。

たった数週間、数ヶ月でこの感覚を、幸せだった記憶を消し去る事など、出来るはずが無かったのだ。

「こんな事、お前に話して、ごめんな……でも、誰かに言わないと、俺、壊れちまいそうで……」

胸の中で恐怖に必死に抗う修也。花梨は何も応えずに、ただ修也を強く抱きしめる。

……橘くん……顔、見せて

震える声で、胸に埋まる修也の耳に囁き、修也がぐしゃぐしゃになった顔を上げる。

フレームレスの丸眼鏡越しに映る、切れ長で美しい、そして何かの決意を秘めた瞳……

「柳……?」

花梨は抱きしめるのをやめて、修也の顎をぐいと掴むと、彼を引き上げる様に……


そのまま唇を重ねた。


……突然の柔らかい感触。

そして修也の口内に、柔らかく、暖かい何かが滑り込んでくる。それは修也の舌に絡み、ぐちゃぐちゃとかき回す。

「……ふむっ……んっ……」

熱に浮かれた様に修也への口付けを貪る花梨。

修也の口内を隅々まで蹂躙していく柳の舌に、突然の事に驚きながらも、修也は不思議と抵抗感も拒否感も感じなかった。

柳の体温を、もっともっと感じたかったのかもしれない。心がほどけ、じんわりと暖かい感覚が、ようやく修也の世界を取り戻す。

唇を離すと、2人の舌を白い糸が通じて、屋上に続く扉の窓から通じた光できらきらと輝く。

柳の優しい瞳と修也の瞳が涙に染まった瞳が絡みあう。

「…どう?あたしの…本気のキス……」

「……柳……なんで……」

なんでだろ?私もよくわかんない。

でも……と続ける。

「今しないと、橘くん、ぶっ壊れちゃいそうだったから……」

冗談でも無く、至極真剣な顔で花梨は応える。

身体が勝手に動いていた。

彼を救うにはこれしか無いと……

そして、これからする事が、多分、たった一つの方法だという確信があった。


「ねぇ、橘くん。あたしの勇気…アンタにあげる」

……だからアンタの勇気、あたしにちょうだい。



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