世界最悪の長男
「君達は、ただその行いを私に捧げるだけでいい。その結果も報いも、何もかもは君達のものではない。それに付随する全ては私のものだ。……いいね? 君達には、何も、与えられない」
それは、いずれ「彼」が語る言葉。
それを掠め取るというのはいかがなものかと思うけれど、この一度くらいは許されたい。
「……今ならやめられるよ。それは不義理ともならない。この私を気が触れた王として扱い、首を切ったっていいよ」
誰かはゆっくりと首を横に振った。誰かは、そんなことを言わないでくださいと諌めた。呆れたように鼻で笑う者がいれば、目を伏せて謝罪する者がいた。
「ああ、無理か。無理だね。最初から無理な話だった。私が君達を愛するように、君達も私を愛しているのだものね。全く愛とは、ひとの目を曇らせる」
どの未来も苦痛が溢れていた。自分達が生き残る側では、どれもこれもが悲惨だった。
弟が嘆き神に成り果てる世界から、戦争がないが故に悲惨な世界、総数が足りずに従兄弟が異形と化す世界、大地を補強したことによる悍ましい成り立ちの世界。どれも、これも、何もかもが痛ましい。
ならば、新たな候補を考えるしかないじゃないか。
何か、何か別の方法を! 世界に溢れる苦しみを少しでも軽減させたい、と願うのは普通のことじゃないか。
────本当に? これで未来が好転するという確証はない。その行いで、更に民が苦しんだらどうするのだろう。何の確信もないのに、どうして踏み切ってしまうんだ?
どうしたって、足掻きたいと思うじゃないか。人間は、そういうものだと思う。
────それは本当に、「足掻き」なのだろうか? 逃げではないか? 最も瞳が曇っているのは、自分なのではないか。
…………。ああ、うるさい。そんなの言われなくとも分かっている。正しいことが何なのかなんてよくわかっている。
それでも、と駄々をこねている自分がいる。一度くらい許されてもいいじゃないか、と喚く愚かしい自分がいる。
結果と報いは私のもの。即ち、生ずる罪は全て私が持っていく。だから、どうか……!
さあ! これから始まるのは、■人きりの反抗だ。
片方が悪として死ぬことが定められているなら、もう片方は善として生きることが定められている。それを無視しようと言うのだから、酷い話だ。
だから、これは全くもって大義ではない。既定路線を外れた大我儘だ。
「じゃあ、始めようか」
ここ最近ずーーっと付き纏ってくる酷い頭痛がある。頭の上から何かが押し潰してくるような、全力で踏みつけられた時のような……そんな痛みだ。
ろくに寝れやしないし、お陰で苛立ちも酷い。下手に武器を持つと、怒りと衝動のまま振り回してしまいそうになる。
あんまり痛いし、ぶっちゃけ開戦までは後ろの方で休んでいたい!
けれども、長が何もしないのは流石に不味かろう。弟達と協力しつつ、なんとか誤魔化し誤魔化しやって来たのだ。
そんな健気な開戦準備中、とある軍勢が皆殺された。近くの街が滅ぼされた、という一報が入った。
恐れ慄き逃げ延びてきた者が王宮に押し寄せ、一帯は大混乱に陥る。
こんなに自分は苦しんでいるのに、更に迷惑事が起きるとはツイていない! 何が起きたのか慌てて探らせる。
まさか謎の第三勢力の台頭か? いいや違う。もっと単純で、もっと信じがたいことらしい。
口々に語られる噂のどれにも、「信じがたいが」と頭についた。絶望に満ちた顔で、そんなうわ言を呟く者がいた。わし様だって信じられん!
五王子が狂った! 軍勢を殺した、街を滅ぼした、なんて!
「貴方がたは、正直どうでも良い。私の弓の前では、その陣も無意味かと」
弓弦を引く。放つ。轟く。
足止めのために敷いた陣の後ろ。安全な場所までこれたのだ、と安堵の息を吐いたばかりの人が死ぬ。ばらばらと肉体が散って、赤い雨が降り注ぐ!
悲鳴をあげる間すらもなく、苦痛を覚える権利もなく。数百数千の民が、ほんの刹那で命を落とした。
それから暴風が吹いたと思えば人が死に、剣が煌めいたと思えば人が死ぬ。
地獄のような光景の中でも、やはりあの五人は英雄然としていて。堂々とその力を振るう姿は、もしやこちらが悪いのかと錯覚してしまうほど眩くて。
「な、何なんだ何なんだ貴様ら気でも違えたか!? おいビーマ、貴様だけなら分からなくもないが兄弟揃ってとは」
「さて、どうだか。テメェに教えてやる義理はねえなぁ」
冷徹な顔のまま、呆然としている老人を殺すな。
「まだ開戦の合図も無いのに! こ、このような、卑怯なっ……そ、そもそもわし様達を狙わんのはどういう」
「でも、一息の方が幸せでしょう? ねえナクラ」
「無駄に命を落としてどうするのかな。ねえサハデーヴァ」
「折角生き延びるのだから喜べばいいのに。ねえ?」
「あんたは逃げてもいいんだよ。逃げてくれてもいいんだよ?」
こちらを無視するな。二人で語り合いながら、夫婦を殺すな!
俺の弟たちが攻撃を防ごうとしては、弾き飛ばされる。吹き飛ばされる。
五王子どもは「お前達は邪魔なのだ」という感情を隠しもせずに追い払って、状況が飲み込めてすらいない民を手にかける。
ろくにこちらを見ていない。戦う相手として認識されていない。
何が起きている? あの五王子が、正しい英雄どもが、一体どうして民を手にかけるというのか。
戦争が起きるのではなかったのか? カウラヴァとパーンダヴァの戦争ではなかったのか。それで見事こちらが勝利して、正当性を掲げる予定のはずだったのに。
まだこちらの弟を殺されるなら分かる。だがこれでは。
……これでは、パーンダヴァによる一般市民の殺戮では無いか。
群れの中にいれば無限の矢に貫かれ、一人で逃げようとすれば剣が煌めく。助けを求めて伸ばした手を、暴風が遮る。
なす術がない。こちらの行動を向こうは完全に無視して(まるで効率を求めるかのように!)民を殺し続けているのだぞ。必死に割って入っても、あっさり引き上げてはまた別のところを殺される!
まずいぞもう殆ど民がいない。俺はどうしたらいい?
それを、ある男が静かに眺めている。ひどく無機質な表情で、眼下に広がる血の海を眺めている。
徳高さのあまり浮遊する戦車に乗る男。パーンダヴァ五兄弟の長男、ダルマ神の子ユディシュティラ!
地上にいる誰も彼もが血塗れな中、あの男だけは汚れひとつない戦車と白装束で君臨しているのに気がついた。
頭痛の波が一度引いたので、視野が広くなったらしい。
「おい!! 貴様は手を汚す気は無いということか!? 弟にやらせて一人高みの見物とは、さぞ楽しい気分なのだろうなあ!!」
「……」
「何とか言ったらどうだ卑怯者! この気狂い! この光景を見て何とも思わんのか!? 民の死は!? 大切な弟共を止めようとも考えられんのか!?」
「そうだね、それについては……」
ユディシュティラは、静かに語りながら戦車を地面に下ろした。彼の車輪が土に触れるのを見たのは初めてだ。
そのまま血に濡れた大地へと足を下ろし、白い装束が泥と黒血に塗れる。躊躇いなく全てを汚しながら、長男は感情の抜け落ちた顔で語る。
「…………別に、何とも思わないかな」
「────は?」
「私の弟達は何ら悪くないのだし。止める必要がどこにあろう?」
余りの言い草に放心した刹那、彼の口から飛び出した激しい号令で無人の戦車が駆け出した。
あっさりと最後の一人を轢き潰し、美しい装飾のそれはどろどろとしたモノでぐちゃぐちゃになる。
「クルクシェートラの大殺戮を始めよう。大丈夫。全ての命を、瞬きのうちに終わらせてみせるとも。苦しむ間もないほど迅速に、ね」
徳の象徴は血と肉片で彩られ、二度と浮くことはなかった。
暴風は全てを薙ぎ払い、弓は全てを貫き、剣は全てを切り捨てた。
彼らにはどんな言葉も届かず、どんな想定も意味を為さないらしい。
一人、また一人と死んでいった。無数の民が。戦士が。弟たちが。五王子が。
この惨劇の「最後の一人」は棍棒で胸を打ち砕かれ、最早避けようのない死を前に穏やかに微笑んでいる。お前の弟四人も御多分に漏れず、最期の時にはそんな顔をしていたっけ。
……全く信じられないことだが。十二億もの人間が命を落とした舞台は、ほんの数日で静かに幕を閉じようとしていた。
「ユディシュティラ、満足か? 弟を死なせ、大勢を殺し。それで最後には、わし様に全て押し付けて死ぬつもりか。度し難い男め、最早責め立てる言葉すら思いつかん。お前に相応しい罵言など存在せんわ」
「そうだよ、私達は君にとても辛い道を押し付けた。いつかの君の言った通り、ここで死んだ方が楽だろうね。でもきっと、状況はいいと思うよ。民の恨みは遥かに軽いし、大地も傷つきすぎていない。君を旗印として皆は纏まるだろう」
「いつかの君……いや待て恨みが軽いだと!? この有様で何を言って」
「ドゥリーヨダナ。私が見た夢の話をしよう。この戦争はね、実は神が望んだものなんだ。大地が命の重みに耐えられないから、命を減らそうって話なんだよ」
絶句するこちらをよそに、ユディシュティラは語る。
避けようのない世界存続の条件の達成。そのために選ばれたのが戦争だった。
争いで無数の命を減らして、残った方は世界を統治していくことになる。
ユディシュティラ曰く、「自分の知る世界」では人々は嘆き悲しみ、強い怒りを抱いていたと言う。
それは、戦争を起こしたカウラヴァに。戦争を終わらせたパーンダヴァに。
憎悪と違反によって両軍の殆どは死に、生き残りはほんの数人。大地は枯れ果て、嘆きが上がるのは当然だった。
夫が死んだ、妻が死んだ、子が死んだ。兄弟が死んだ、親が死んだ。どうしてこんなに死んだのか。どうしてこんな争いは起こらねばならなかったのか。何故、もっと少ない犠牲で終わらせることができなかったのか。彼らを/あなたを信じてついて行ったのに!
「でも大丈夫。今回の君達は明らかに善だった。何せ、半神による義のない大殺戮の後始末だ。多少の恨み言はあれど、きっと許してくれるよ」
「待て、待て! 別の世界というのも意味が分からんがさておいてやる。だが、では何だ? その言い分を通したら……この勝利はハナから、貴様らのお膳立てとでも言うのか」
「規定の人数まで減らせたら、もう私達は要らないからね」
「ふざけるな! あれだけ暴れておいて実は世界のためでしただと!? あれだけ俺の民も兄弟も殺しておいて、死なせておいて、実は俺達のためでしただと!? 恥を知れユディシュティラ、そんな甘言で」
「本当なら百王子は欠けないはずだった。だって欠ける意味がない……でも、君達が予想以上に民を守ろうとするから。何人もごめんね」
「こっ……ンの……どこまで馬鹿にすれば気が済む!? 民を守るのは王の務めだろうがっ!!」
「あー……。あはは、そうだね。駄目だなあ、とっくに忘れてたみたい……」
賢王と持て囃され、民に支持されていた彼の果てがこれか? そんな言葉を口にしてへらへら笑うのは、なんだか複雑だ。
あーあ、と溢れた呟きは自由な子供のようだった。……違う、幼稚だと言いたいのではない。全ての重荷を下ろして、やっと解放されたかのように見えたという話で。
それに毒気を抜かれて、勢いが衰えてしまう。こういうのは勢い任せに喚いたもの勝ちなのは分かっているのに、どうも脱力してしまう。
「お前、なあ……」
そのまま静寂が訪れる。
居心地の悪い数秒を打ち破るように、彼が深く息を吸い込んだ。そろそろ時間だし、と軽く呟いてから言葉を続ける。
「ドゥリーヨダナよ。汝こそが正しい王として、この世界を統治してみせろ。幻如きに狂い果て、世界を巻き込んだ最低の私とは違う……別の未来を掴んで見せたまえ」
微笑を浮かべ、威厳ある語り口。泥と血に塗れ、二度と起き上がること叶わぬ姿で尚その存在感。腐っても、あの兄弟の長男ということか。
だがそのノリを維持したまま格好良く逝かれるとムカつくので、引き摺り下ろしておく。
「いや、貴様少なくとも狂ってはおらんだろう」
「え、……えっ? そうかなあ?」
お前本当にもうちょい威厳頑張れよ!?
「ふん。貴様らに色々あったならわし様にだって色々あったわ! めんどいことも山積みだ、自分たちだけと思うなよ」
「意外だ、信じてくれるんだね。別の世界とかなんとか、狂人って言われるとばかり」
殺戮前はあった頭痛が、日に日に引いていくのは不気味で仕方なかった。普通、あんな状況では更に痛んでいくだろうに。
今思えば、人が死ぬごとに痛みが弱まっていた気もする。神の望みと干渉とやらも、色々と身に覚えがないわけではない。
そもそも、ユディシュティラは嘘をつかない男だったのだから。戦車が地に落ちた後はさておき、それまでは確かに……正しい男だったのだから。
彼の言葉を信じてやる理由の一つにはなろう。
「いいか、貴様は狂ったのではない、正確にはブラコンだ。世界最悪のブラコンだ、書物にはそう書き記しておいてやる」
「ブラコ……!? あはっ、あははっ、はひっ、ぃ゛……骨、折れてるのに! 急に笑わせないで! 突拍子なさすぎるよ。もっと言うことあるでしょ、恨み言とか」
「有りすぎて最早言いようがないわ! 貴様はあれだろう、ユディシュティラ。別の世界とやらを山程見たのだろう? それを参考にすればお前の方が上手く統治できるだろうに、わざわざこのわし様に押し付けるとなると……もう可能性は一つしかない!」
「長男として、苦しむ弟どもに耐えられなかったのだろう?」
「非常に業腹だけど、長男同士通ずるものがあるのかなあ?」
ユディシュティラは、その通りだと笑った。
「……まあ。私は、君たちの事も弟のように思っていたけどね?」
ユディシュティラは、それ以上は何もこたえなかった。