世界のどこにも居場所なく
へその緒探しを始めた頃、おれは兄に調査報告書を残すことを決めた。
そして決めてから、安全地帯の狩人の夢では書けないということに気が付いたのだ。
万が一にもローの目に触れる可能性がある場所では、報告書は纏められない。そんな時に思い出したのが、アルフレート以外には襲われることのなかったあの廃城の存在だった。
聖堂街で自決していた彼の弔いは、おれのあずかり知らぬところで終わっていた。
ならばもう、あの城は安全と考えてもいいだろう。その程度の認識で、おれは再び融けない雪に覆われたままの城に足を踏み入れた。
謁見の間の見るも無残な肉塊の、悲願と遺志とを託されるとは夢にも思わずに。
”血の女王"の名も願いも、おれは書庫を調べて初めて知った。"血の赤子"を抱くこと。それはおれには望むべくもないことのように思えたが、城の住人たちはなぜだか皆、ローの為にと奔走するおれを祝福し、あれこれと手を貸してくれたのだ。
それからというもの、この城はまるで本当の故郷のような顔をして、いつでもおれを迎えてくれた。
いつもやたらと凝った食事を、旧市街で獣を守る古狩人の元に持っていく分まで用意してくれた。血族の歴史を辿るおれのために、伝記や歴史書、神話に紋章学の本まで探し出してくれた。処刑隊に騎士たちを殺され、教会に子どたちを連れ去られて女性ばかりになった貴族の亡霊たちは、時に厳しく、時に優しかった。人よりも熱を帯びるこの血は、暖房設備も見当たらない、雪に覆われたこの城にも寒さを感じたことがなかった。
でももう、それも終わる。
おれに美しい銃と、鍔がぐるりと毛皮で覆われた変わった装飾の刀とを託してくれたご夫人に、海兵時代の思い出を聞きたがった少女と呼べるほどの背格好の娘。皆その召使たちと共に、少しずつ姿を消していった。
どこか、満たされたように。
「……なあ、今回で報告書、全部書き終わった」
向かい側に座る首のない彼女が、思わずといった風に立ち上がる。
目が合った。と、そう感じた。
「それに次の狩りが終わったら…もう、戻ってこれねェと思う」
夢はいつか覚める。夜はいずれ明ける。
あの時計塔のマリアのように女性にしては随分背の高い彼女は、椅子に腰かけたままのおれをじっと見下ろしていた。血の濃さを窺わせる容姿とは裏腹に狩りを好まない彼女は、誰も居なくなった城で何を思ったのだろうか。
沈黙が支配する中、ややあって召使が恭しく書庫の入り口を示した。堅苦しい作法を嫌い石像たちの影に隠れて教育係から逃げ回っていた彼女は、その背をすっと伸ばし、両手をゆったりとスカートの上に揃えて立っていた。失われゆく気高さを、故郷への手向けとするように。
この城で叩き込まれたお作法通りに手を取って、タバコの残り香だけが漂う食堂を抜け、召使のいなくなった広間へ向かう。
柔らかな絨毯の上で狩人の一礼よりも馴染んでしまったお辞儀をすれば、彼女は夢で人形ちゃんが見せてくれたのとそっくり同じお辞儀を返した。
間違っても床に置かれた蝋燭に足を引っかけないようにと細心の注意を払いながら、教わった通りにステップを踏んでいく。がらんどうの広間に、ひとり分の靴音がワルツの拍子を刻んでいる。首を刎ねられたその時から凍り付いていた彼女の時間が、終わりに向かってゆっくりと動き出していた。
しかし悲しいかな、ドジッ子は何度死んでも治っていなかった。
もうじき終わるとちょっとばかし気が緩んだところで、磨き上げられた床で滑ってお手本のようにすっ転んだのだ。
この城では義務教育の範囲らしい礼儀作法をあれほど叩き込まれたのに、ひどい話もあったものである。信じられるか兄上?おれさ、これでも城に居た時間の何割かはお作法のお勉強をさせられてたんだぜ。
不貞腐れて床とお友達になったままのおれを、首のない彼女が覗き込む。
その気配は、蜃気楼のように揺らいでいた。
「おれ、置いてかれんの嫌いだって、前言ったっけ?」
やたらと高い天井を見上げながら、独り言のように呟く。
「ガキの頃、兄上がおれを置いてったことがあって。絶対動くなって言われたから、食料が底をついてもただ待ってた。ドジで足手まといだったから捨てられたなんて、思いたくなかったからさ」
父上の首を切り取った兄上は、それはもう恐ろしかった。でも同じくらい、捨てられるのが怖かった。独りぼっちで生きていくなんて到底考えられなくて、兄上がもしも戻ってこなかったら、そのまま死んでしまってもいいと思っていた。
おれと違って兄は昔から一人でなんだってできたし、その頃にはヴェルゴたちだって居た。それならもう、おれが死んで困る人間なんて、誰もいない。
「でも、そん時手を差し伸べてくれた人がいて、おれはもう一度兄上に会えた。今はただ、生きることを諦めないで、その人の手を取って良かったと思ってる」
戻らぬ兄を待ち続けるおれを拾い上げてくれたあの人の背中を追う日々は、もう二度と戻りはしない。それでも、無かったことにはならないから。
「だから……ありがとうな、最後まで一緒にいてくれて」
ずっとずっと前に終わってしまったこの城は、それでも、嘘ばかり吐いて生きてきたおれにとって代えがたい居場所だった。
「また兄上に会えるかは分かんねェけど…お陰であともうちょっと、頑張れるよ」
彼女に首があったなら、別れの言葉を聞けたのだろうか。
静かにおれを見つめていた彼女が、そっとおれの手を握る。それを最後に、体温を感じさせない指先は、幸せだった家族の白昼夢のように霞んで消えていった。
いつか召使たちと一緒に集めてお焚き上げした車輪の山を横目に、弓なりに歪んだ石段を降りていく。
涙は流れなかった。
雪を融かすほどに熱いこの血の中に、たしかに流れる遺志を感じていたから。
束ねた報告書を小脇に抱え、変わらず静かな白い月を湛える廃城を後にする。
ずっと寒くて、暗くて、とても優しげな、"穢れた"おれたちの居場所を。