三千世界の烏は鳴けない
物心ついてからずっと、嘘の中で暮らしているような奇妙な感覚があった。
全てが作り物で、いつか自分以外の全てが誰かの作った紛い物だと明かされるのではないかという漠然とした恐怖が足元の影のようにまとわりつくのだ。
母はどこも病気になんてなっておらず、とても元気だったのに周りの大人は皆「体を壊して外に出られない」と思い込んでいるようだった。
それがおかしいと周囲に訴えてみても、誰もが「子供には弱った姿を見せない気丈な母親」だと認識していたようで、困ったように笑って受け流すのだ。
アタシは見えている世界が本当じゃないようでひどく怖くなって母に泣きついた。いつもならそうすれば優しく慰めてくれるはずだった。
それなのにその日はとても怖い顔をして「お父さんにだけはそれを言うな」ときつく言いつけられたのだ。後にも先にも、あんなに怖い顔をされたのはあの時だけなのでよく覚えている。
父はとても優しくて、母を深く愛している。そのはずなのにまとわりつくような奇妙な違和感がどうしても拭えずに、アタシは家を飛び出すようにして霊術院に通い出した。
そこでも父は評判のいい隊長で、あんな父親がいるなんて羨ましいと言われるのに笑顔で対応するたびになにか嘘をついているような微かなひっかかりは蓄積するばかりだった。
それでも母と離れた寂しさはあったものの、少しだけ息をするのが楽になったようなそんな心地はしたのだ。
それも卒業するまでのほんの僅かな期間だったけれど、これから先どうにかなるんじゃないかという希望もあって悪くはない日々だった。飛び級で卒業することになるまでは。
「さすが僕たちの娘だ、父さんも誇らしいよ」
隊長の娘であると期待されて飛び級で死神になったときに言われた言葉と撫でてきた手は本物だったはずなのに、素直に嬉しいと笑顔で返せなかったのはなぜだろうか。
いつから優しいはずの父の笑顔に違和感を感じて、周囲の評判と出所すら自分でも不明の疑念の間で息が苦しくなるようになったんだろうか。
だからアタシが卒業した次の年に霊術院での巨大虚による犠牲者を助けたのが父だと聞いたときに、最初に浮かんだ感情を言葉で言い表す事ができなかった。
すごいと、さすが父だと思えれば良かったのに。どうして「アタシが飛び級なんてしなければ」と思ってしまったのか。
虚の被害にあって複数の欠員が出た十三番隊に移動になった時には父の下にいなくてもいいことに安堵したけれど、それだってなにか作為的なものを感じなかったわけではない。
全くそんなことはなく、父は普通に微笑んでいたじゃないか。自分の側から離れられたと思っているアタシを嘲笑うような、そんな幻をアタシが見ただけだと心の中の不安を黙らせた。
十三番隊での日々はそれなりに穏やかで、少し訳ありらしいルキアちゃんともお互い似たようなものだと少しだけ親しくなった。
だから現世に任務で赴くと聞いたときは寂しくなるな、と思っただけでなんの心配もしてはいなかった。まさかこんなことになるなんて少しも思っていなかった。
「お願いお父さん、ルキアちゃんをたすけて……」
久しぶりに会った父に、産まれてはじめての我が儘を言った。小さい頃から母にべったりで、あまり家に帰れない父にそれほど懐いていたわけでもなかったから。
それでも、どうしても、隊長なのだからなにかできるかもしれないと例えこんな時ばかり頼ってと言われてもいいと縋りついた。心のどこかで助けてなんてくれないとわかっていたのに。
「大丈夫、僕も今回のことはおかしいとは思っているんだ」
縋るアタシを抱きしめる温かさも撫でる手の優しさも安心するように言う声も本物なのに、なに一つ安心する事ができなかった。
大きな声で「嘘つき」とわめき散らしたいような気分で、アタシを抱きしめる父の胸に顔を押し付けて声を殺した。
そんなやり取りをしたのが、昨日の話だ。
今アタシは落ち着くように言われて、父の身内として隊長や副隊長に混じって惨事の舞台を眺めている。
人の声が反響してぐわんと頭に響いた。幼い頃からの恐怖がついに形を成したような、影に追いつかれたようなそんな絶望を感じる。
父が死んだそうだ。そう聞こえる、そうだと皆が言っている。惨劇を見上げてあれが殺された藍染隊長だと指を指して。
ふらつくアタシに落ち着くようにと、父があんなことになってショックなのはわかると優しく語りかけるのだ。
うまく息ができない、胃の中身がせり上がってくるような言い知れない不快感と足下が底無しの孔になって落ちていくような恐怖が喉をつめる。
それは目の前で父が死んでいたからではない。いっそそうであったなら、アタシはごく普通の娘のように泣き崩れることだってできただろう。でもそうではない。そうではないのだ。
皆が父の死体だと話すものは、アタシの目には全くそう見えなかった。