一節〈咲き誇る緋、広がる蒼〉
黒い何かが降ってきた。
ぐちゃり。ばきばき。どろり。
男の視界に映るのは一面の緋《あか》。撒き散らされた脳漿と臓物。砕かれた脊髄と幾千もの骨。右手に遺ったのは、握ったままの左手だけ。
黒に何かが潰されている。薄紫だったスカート、白かったブラウス、散らばった長い髪。黒とアスファルトの隙間から僅かに見えるそれらは、どう考えたって彼女のもの。
男にとって世界よりも大切な女は一瞬にして骸、否それ以下の肉片と成り果ててしまったのだ。
空から落ちてきた何か。太く黒い円柱に厚い板のようなものが付いており、そこから更に十の細い円柱が伸びている。表皮はぼこぼこと泡立ち、どろりと液体が滲む。霊長類の腕に酷似したそれは、人知を超えた悍ましさを醸し出していた。
ケトンによる悪臭が辺りに立ち込む。封じた記憶の奥底から掻き回すような臭いにより、男は吐き気を催した。喉に詰まる吐瀉物と饐えた臭い。この異物を今にでも吐き出してやりたい。だが、その行為は理性が許さなかった。
この場所は危険だ。早く逃げなければいけない。それなのに、身体は一歩も動けずにいた。無惨に殺された女の死体の前から。
何度も何度も女の名前を呼ぶ。しかし、返答が帰ってくることはない。既に女の喉も肺も、他の部位と見分けが付かないほど乱雑に肉片と化しているからだ。呼吸もしていないそれが、声を発することなんてできやしない。
名を呼び続けていた男は、未だ女を潰したままの巨大な手から肉片を引き摺り出してどこかを目指す。右手には彼女の左手、左手には赤黒い肉片を抱えて、宛もなく歩き始める。脳と通じていない口から、一緒に逃げようなどと吐《ぬ》かしながら。
頭では女が息絶えていることを理解していた。しかし、男は信じたかったのだ。こんな形になっても尚、女は生きているのだと。
冷たく靭やかな左手に嵌められた、銀のリングと青の宝石が厭に輝いていた。
当然、女を殺したものが彼らを逃がすわけがない。再びその純黒の手を上げて、今度は男諸共圧し潰そうとする。
男もそれに気付いてはいた。気付いてはいたのだ。だが、必死に逃げようとはしなかった。できなかった。今の男には走る気力も、生きようとする意思もない。ただひたすらに、愛する人と同じ世界に居たい。それだけだった。
影が濃くなっていく。怪物が女と同じように、男を潰そうとする。本能がけたたましい警鐘を鳴らし、心臓が急激に脈打っている。
死を覚悟した瞬間、彼の身体は横に吹き飛んだ。あと数十センチメートル。刹那の時を経て、男は不幸にも助かってしまったのだ。
衝撃でばらばらになった女の肉片が掌から零れ落ちた。男は拾い上げようと藻掻くが、何故か拾い上げられない。どうしても零れ落ちてしまう。掻き集めて、掬い上げて、零れ落として。
そんなことを繰り返す男を誰かが乱暴に抱き上げた。虚ろな瞳で視線を寄越せば、そこに居たのは黒ずくめの見知らぬ人だった。
男は閉じていた目蓋を開ける。約一時間前の話だ。目の前で愛する者は殺され、自身も殺されようとしていたところを間一髪で助けられた。
黒ずくめが男を助けたのは、女の仇である怪物を殺すためだという。
割れた空から覗く黒。宇宙とは違う深淵から、それらは襲来した。巨大な怪物と、その子どもたちだ。
天空から大地に向けて次々と突き立てられていく脚は、国内最大規模の都市を破壊していく。子の怪物も鳥獣を不完全に模したなりで、破壊の限りを尽くす。これらは日本だけではなく、世界全土で巻き起こっていた。
頑丈なはずのビルはいとも容易く薙ぎ倒され、轟音が響く。地を走り逃げ惑う人々は虫のように圧し潰され、彼女と同じように鮮血を撒き散らした。
未だ生き続ける者の悲鳴と怒号が鳴り止むことはない。彼らの脳を埋め尽くすのは、恐怖と怒りだった。歯向かうものもいるが、ただの人間が怪物に勝てる理由もなく、無惨に殺されていく。
男はそんな阿鼻叫喚の地獄を、空からただ見ていることしかできなかった。男が死ねば、それこそ全ての終わりだからだ。人類も、世界そのものも。
焦燥感に駆られる中、両手を握り締める。右手には相も変わらず女の左手、左手には短剣が繋がれていた。
突然空から耳を劈くような破砕音が聞こえる。発生源に目を向ければ、十指に余るほどの眼球が赤光を宿していた。
赤の瞳孔は焦点が合わず、視線を彷徨わせる。目の隙間から生える触手は蠢き、人の腕のような形の脚は卵の殻のように空を粉砕していく。凶悪で強靭なその脚は、女を殺し世界を混沌へと導いたものと同じだった。
蜘蛛のようだ、と男は直感的に考える。それは正しい感性だったのだろう。あれは《緋《あか》き瞳の大蜘蛛》と呼称されているのだから。
緋き瞳の大蜘蛛。千年以上前も一度襲来し、世界を滅ぼそうとした終焉の化身。《世界《World》喰らい《Eater》》と呼ばれる怪物たちの王であり母。世界を地獄へと変容させた元凶は直ぐ近くにいた。
男が立っているのは地上約六三四メートルの塔だ。日本一高く、空に近い建造物。東京の象徴たる天空の塔は、あれを狙い打つには丁度良い。
左耳に着けたインカムに通信が入る。黒ずくめの所属する組織、その管制室からだ。綴られる言葉は事前説明通りのもの、そして作戦実行の合図だった。
冷静を装って、了解と口に出す。上手く取り繕えていただろうか。端が釣り上がって弧を描き、歪んでいく口角を男は自覚していた。
やっと殺せる。あれを消せる。あの緋い瞳をぐちゃぐちゃに掻き混ぜてやりたい。脚をもぎ取ってやりたい。彼女にやったように踏み潰してやりたい。
世界を守るという大義名分を持って、復讐が正当化される。問題なんてものはなく、寧ろ賞賛される。なんて素晴らしいことなのだろう。
男の欲求は留まることを知らなかった。早く殺そう。消してしまおう。待ち侘びた瞬間はもう直ぐそこにあるのだ、と。
左手に持った短剣を、女のものも絡めて三手で握る。純白の刀身が指し示すのは自身の心臓。際限なく高鳴り続ける鼓動そのままに、一直線に突き立てた。躊躇いなどというものは端から存在していない。男の中にあるのは女への愛と復讐心のみだ。
ケーキでも切るように簡単に貫通した刀身は、純白を覆い尽くすように赤に染まり出す。
時を数える隙もなく、決壊したダムのように粘度の高い血液が溢れ出した。女の鮮血で染められた衣服が更に緋に染め上げられていく。二人の血が混ざり合っていく。
通常ならば痛みに喘ぎ、力なく横たわってしまうのだろう。だが、既に狂った男にとって、そんな些細な痛みなど蟻の一噛みにも満たなかった。それ以上の痛みを彼女は味わったのだから。
胸に突き刺された短剣が輝き始める。男の身体が動力源として運用され始めたのだ。全身から光の粒子が宙に舞い、それらが短剣に吸収されていく。短剣はまるで成長しているかのように大きくなり、瞬く間に八十センチメートルほどの直剣へと新生した。
身体に剣が刺さっているならば重量を感じるものだが、男は感じることができなかった。普通の剣ではないからだろうか。
直剣を眺めている内に、それは独りでに動き始めた。血を撒き散らしながら男の胸から刀身を抜き、赤に濡れたまま宙に浮かぶ。
男の眼前で浮遊する剣は鮮明に輝きを放っていた。その太陽の如き光を持って、怪物に牙を剥く。切先を真紅の目に番え、ありもしない殺意を抱いているように。闇夜よりも深い黒を宿す悍ましい怪物と相反する白は、男にとってはあれを討ち滅ぼす英雄そのものだった。
剣は一直線に飛翔する。軌跡を描きいて空を斬り、行く先を阻む障害なんて目もくれず、ただ殺すためだけに飛び続ける。
死んでしまえ、消えてしまえ。世界の果て、星の彼方まで塵一つ遺さず。
ありったけの呪《まじな》いを込めた言葉。叶えろと、剣と世界に祈り願った言葉。音として響かせなくてもきっと聞き届けてくれたのだろう。
時間にして三秒。それは、剣が怪物を貫くまでの時間。
一段強く光が輝き、同時に耳にしたことのないような絶叫が木霊した。絶叫と言っても、口なんてどこにも付いているようには見えない。そもそも、これが本当にあれの声なのかも分からない。しかし、男は確信していた。あれは怪物の断末魔だと。
ぼろぼろと怪物の身体が崩れ落ちる。腐った木のように蠢く黒腕は目から切り離され、瞳もばらばらになっていく。欠片は空中で光に分解されて、零れ落ちる体液諸共、塵も残さずすべて消えていった。
終わった。女を殺したあの怪物は滅びた。男の願い通り、塵一つ遺さずに。
乾いた笑いが口から漏れ、同時に大量の血液を吐き出した。脳に分泌されていたアドレナリンの興奮作用が切れたのだろう。激痛と倦怠感、目眩に襲われる。
足から力が抜け、前方に倒れてしまった。足場が殆どないここで体制を崩すということは、つまり────地に向けて落下することと同義だ。
男の身体は重力に従い、天を衝く塔から大地へと真っ逆さまに落ちていく。人間が高度六三四メートルから落ちた場合、地面に到達するまでの時間は約十一秒。激突の衝撃に耐えることはできず、死に絶えることは明白だ。
だが、その前に男は死ぬ。その死因は失血死でも落下死でも他のどれでもなく、肉体の消滅だ。
男は世界を救う対価として、肉体を捧げた。世界を救う兵器であった短剣。それを刺した際に発生した光の粒子は、男の身体を分解してできたものだ。全身を光に分解され、その光をエネルギーとして剣は怪物を討つ。
差し出された生贄は生存することはできない。そういう仕様で作られている。機械仕掛けの神《Deus ex machina》として、絶望が包む物語《せかい》に終止符《ピリオド》を打つために。
どこにでもいるような────本当にどこにでもいるわけではないのだが────人間一人犠牲にして世界を救えるなんて、対価にしては軽過ぎる。あの剣を作り出したという千年前の魔術師とやらは、とても有能な人物だったのだろう。
男の体が消滅していないのは、まだ完全に怪物の討伐が完了していないからだ。つまり、怪物の消失が男の生命の終わり。
目蓋を閉じる。過るのは大切な人たちとの思い出。たった一人の肉親である可愛い妹、親代わりになってくれた心優しき男、こんな自分でも親しくしてくれた友人たち。そして、世界の何よりも誰よりも愛している彼女。
もう会うことはできない、大切な人たち。守りたかったもの。
視界に色が戻る。割れた空は継ぎ接ぎの玩具のように修復され、黒は影も残されていない。雲一つない蒼が足先に広がっている。
男はこの世界を守った。世界は守れた。しかし、一番守りたかったものは壊れてしまった。
あの時、彼女の手を引いていなければ。隣で走っていれば。一緒に死ぬことも逃げることもできたかもしれないのに。後悔は底を知らず、男の心に沈んでいく。
きらきら輝く光の粒子。頭の天辺から爪先まで、全て光に変わっていく。世界に溶けていく。
次があるならば、絶対に守ってみせる。この空に誓おう、生命を全て賭けてでも君だけは救ってみせると。
空へ流れる血と正反対な蒼穹は、泣きたいほどに美しかった。
二〇二〇年四月一日午後十二時〇〇分。世界はある一人の人間によって救われた。壊れた世界は狭間に揺蕩う破片から修繕され、新しい世界へと生まれ変わる。数百、数千、数万年。永劫と続く世界へ。
その礎となった名も無き英雄の勇姿は誰にも知られることなく、徐々に存在を忘れられていく。それこそが本当の死であるとでも言うように。
肉体無き魂は天に上る。薄汚れた魂を漂白し、新たな生命として生まれ変われるようにする。
だが一つ、想定外のことが起こった。とある魂の漂白が正常に行われず、記憶の大半を残したまま次の生命へと移り変わってしまったのだ。
稀にあるという事例、俗に言う《転生者》。その強き意志で世界の法則を超えた者たち。人の枠を超えて尚、人としてあり続けようとする者たち。名も無き英雄もまた、その一人だった。
魂が送り込まれたのは、とある箱庭世界。既に終焉を迎え、残された破片を繋ぎ合わせただけの歪な世界。その中の一国家、永遠に続く理想郷とも言われる《アリステラ王国》。
■■■はレイフォード・アーデルヴァイトとして生まれ変わった。いや、レイフォードに記憶を継承したと言う方が正しいだろう。もう、■■■という名を持つ人間はどの世界にも存在しないのだから。