ヴィムとグエル♀
情けなく震える体をどうにか止めようとしたが無理だった。
無様にガタガタと震えながら、父の前に押し出される。すぐ後ろには人がいて逃げることは出来ない…勿論この期に及んで逃げようとも、思わなかったが。
父の顔を見る勇気もなく、すぐに頭を下げた。
「申し訳、」
言葉を発した途端にがつんと左の頬に衝撃が走る。何かと思った瞬間、カッと熱を帯び、遅れて痛みがやってきた。ぐわんぐわんと頭の中が揺れる。
ああ、そうか。いつもは手加減をしてくれていたのか、とあまりの衝撃に今更ながらそんなことを知ってしまった。
世界が揺れて焦点が定まらない。耳も、平衡感覚がおかしくなった。自分が今まっすぐに立っているのかも分からない。
父が何かを言っているのが分かるが、耳が痛くてはっきりとは聞こえなかった。
じんじんと頬が熱い。視界がぶれる。じわじわとグエルの頭から正常な思考を奪っていく。
謝らなくちゃ。父さんに、ごめんなさい、ってちゃんと言わないと…早く…早く…
もつれる舌をどうにか動かそうとした所で、2発目が飛んできた。麻痺してしまったのか頬の痛みはない代わりに口の中を切った。咥内に鉄の味が広がる。
衝撃で頭の中がぐちゃぐちゃに揺らされる。全身が大きく震えて、は、は、と短くて荒い呼吸が口から零れた。
熱い、と大分思考力が低下した頭で思う。頬が熱くて熱くてどんどん頭の動きが鈍くなった。
立っていられなくなりその場に崩れ落ちると、両脇を持ち上げられて無理やり立たされる。足ががくがくと震えて今にも座り込みそうになるが、腕を掴む男達が許してくれなかった。
いやだ、と身を捩っても解放してくれない。
「誰が座っていいと言った、グエル」
冷たい、温度を感じさせない父の声が浴びせられる。
その時ようやく視線をあげてこの部屋に入って初めて父の顔を見る。怒りの表情を浮かべているかと思いきや、父の顔にはそんなものはなかった。
無表情。氷のように冷たい表情で、だけど鳶色の瞳の奥に確かな憤怒の炎が見える。
我慢していた涙がぼろりと溢れた。怖い。
一筋流れたら栓が壊れたように、次から次へと零れてくる。泣いている場合じゃないのに、さっさと止めたいのに、涙が止まらない。視界が歪む。体の奥底が冷たくなる。
「ご、ごめんなさい」
幼い子供のような謝罪をすれば、もう一度、今度は右の頬をぶたれた。
襲撃に逆らえないまま、横向きになった顔が髪を掴まれて無理やり父の方に向けられる。ぶちぶち、と髪が抜ける嫌な感触がしたが、離してもらえなかった。
「お前、自分が何をしたか分かっているのか。」
じっと至近距離で見つめられて、息が詰まる。
父の瞳の奥に底知れぬ怒りを感じる。
こんなにも父を怒らせたのはほかならぬ自分だというのに、恐ろしくて思わず目を背ける…そんなことは許さないとばかりに、頭を前後にゆるく振られた。平衡感覚を失っている体がぐわんと揺れる。
視界がぐるぐると回り吐き気がしてきて、身を捩っても手は解放してもらえなかった。はなせ、と弱弱しく言っても男たちの力は強くなるばかりだ。
ずっと父親の元で育てられたが、こんな父の顔は初めて見る。ぞわりと背中に悪寒が走った。
「ご、ごめんなさい、父さん、ごめんなさい、ごめんなさい、父さん、ごめんなさい…」
うわ言のように何度も呟くが、父にグエルの声は届かない。
掴んでいた手が髪から離れ、それが合図だったかのように両脇にいる男たちから腕が解放される。べしゃりとみっともなくその場に崩れ落ち、慌ててグエルは頭を垂れた。
本当は立ち上がりたいのに、足に力が入らない。馬鹿みたいにがくがくと震えるだけだ。
「グエル、お前は…」
父が座り込みグエルの顔を覗き込む。男達にまた両腕を掴まれて尻もちをつくような形にさせられた。無防備な腹が、父の前に出される。
「や、やめ…」
拒否権なんてないというのに、グエルの口からは父を拒む言葉が勝手に出てくる。
父の手が腹に伸びる。
嫌だ。それだけは、それだけは。
「い、いやだ……」
力なく首を横に振っても父の手は止まらない。体をずりずりと後退させたくても男達が許してくれない。磨かれた床をがりがりとグエルの美しく整えられた爪が掻く。痛みが走るが今はそんなことに構ってられない。
「はなせ…っ…」
無駄だとわかっても懇願せずにはいられない。勿論グエルの体が解放されることはなかった。
「やめてください、お願いです…父さん…それだけは…」
喉の奥がきゅうと閉まり、絞り出すようなか細い声しかでなかった。
恐怖から壊れたように涙が零れ続ける。父の冷たい目線が、手が、命が宿っているグエルの腹に触れる。
「ひっ、」
口から小さく悲鳴が零れる。身を捩りたいけど、うまく力が入らない。
そこに手を当て、一撫でされるとぞわりと悪寒が全身を巡る。腹がぐるぐるする。涙に滲む視界が揺れて顔をゆがめる。
たすけて、と心の中で小さく叫んだ。誰に。…誰も助けてくれるはずがないのに。
どうしようもなく無様で。情けなくて。こんなのグエル・ジェタークじゃない。ジェターク家の人間じゃない、こんなにもみっともない子供を誰も助けてくれるはずがない。
父の期待に応えたいと思った。女なんて、と。弟こそが跡取り相応しいんじゃないかと陰口を叩かれていたのも知っている。
でも父は、このグエルを跡取りから外すことはなかった。
ジェターク家の名に恥じない人間になりたかった。父さんに認めてほしかった。よくやった、と昔よく見せてくれた笑顔で頭を撫でてほしかった。それだけだったのに。
「父親は」
短い言葉に身が固くなる。父の大きな手のひらは腹から離れず、真っ平らなそこに手は当てられたままだ。
ぐっと唇をかみ、首を横に振った。脳裏にラウダの顔が浮かんだがすぐに振り払う。
自分はどうなっても構わないが、ラウダだけは、弟だけは守らなくてはならない。
「言え」
「い、言いません……」
父の顔が険しくなる。が、こっちの決意が固いと判断したのか、それともふしだらな女を前に相手なんて些細なことだと思ったのか、父の手が腹から離れていく。
両腕も解放され、腹を守るようにまた頭を垂れる。目から溢れた涙が床にぽたぽたとたれていくのが見えた。
「連れて行け」
そんな父の言葉が聞こえる。冷たい。聞いたこともない声だ。
何処に。俺を、どこに連れて行くと言うんですか、父さん。
気持ち悪い手が四方八方から伸びてくる。顔を上げる気力も体力もなかった。
ぎちっと固い床に爪を立てる。短く整えられた爪が嫌な音をたてた。