ヴァーガンディの追憶
不審者X号(犬に転生したCEOがいます注意)
父さんが犬を拾ってきたのは、ある嵐の日だった。
ずぶ濡れで項垂れていた大きな犬。ぽたぽたと雫を垂らしながら、じっと青い目が床を見つめていたのを覚えている。実は意外としっかりしていた体つきをしていたので、元は誰かに大切に飼われていたのかもしれない、と父さんが話していた。
この辺りは駐留基地も近くて、時折航空機やMSが通過する。飼うには向かないから元の飼い主か貰い手を探すまでの間預かるだけのはずが、上空で唸る轟音に全く平気な顔をしていたその犬は、そのままボブと呼ばれてうちの家族になった。
ボブはとにかくおとなしくて手のかからない犬で、悪戯も無駄吠えもすることなく、母さんは時々本当に犬なのかしらと首を捻っていた。ただ唯一例外だったのは大好きな父さんが宇宙での仕事から帰ってくる時で、毎回父さんの周りを跳ね回って尻尾を振って大はしゃぎした。父さんがまた出張に行ってしまうとしばらくは玄関のドアを見つめていて、「あなたのご飯を毎日用意しているのは私なんだけど?」と母さんがぼやくとちょっと申し訳なさそうに視線を逸らすのだった。
自分ももちろんこの大きくてふさふさの家族が大好きだった。ボブは成長期の子供の無限にも思える体力にもどこまでもついてきたし(駆けっこなんかはボブの方がいつも速かった)、弟が生まれる前、まだ甘えたい一人っ子と兄になろうと思う意志の間でぐちゃぐちゃになっていた自分の側に、ただ何も言わずにいてくれたりもした。そういう時のボブの澄んだ青い目はとても思慮深く優しくて、時々長い鼻面を寄せて湿った鼻を自分の頬に押し当てられるのは、ささくれだった心にとてもよく効いた。
一度、自分が家の裏手の池で溺れかけたことがある。自分は全くの間抜けで、その時もやはり仕事だった父さんを呼んで泣きわめくしかできなかったのに、どこから聞きつけたのか誰より早くすっ飛んできて助けてくれたのはボブだった。母さんは普段静かな犬が一声泣いて駆け出したのを見て慌てて後を追い、池の中の自分目掛けてまっしぐらに飛び込むボブの目撃者になった。この一件から、家族からのボブの信頼は絶大になった。
うちは基地が近かったと書いたけれど、ボブはMSを全く怖がらなかった。むしろ好きだったかもしれない。家の中にいてたとえ人間には聞こえなくとも、ボブが耳をピンと立てて様子を伺い始めると、それはまもなくMSが通り過ぎる合図だった。駆動音を聞き分けているらしく、「ボブはJ社のMSが好きみたいだな」と父さんが教えてくれた。そこから興味を持った自分は、MSの動画を色々と見るようになった。ボブももちろん隣で一緒にタブレットを覗き込んでいた。
近くに小高い丘があって、散歩の時はそこによく行った。ボブが耳を立てると、やがて彼方から小さな機影が現れる。雲を引きながら通過するMSを、二人で何度も見上げていた。
その日は少し時間が遅くて、空が夕焼けで真っ赤だった。いつものように丘に登って、ボブと一緒に、MSが通りすがるのを待っていた。なかなか来なくて、今日はもう来ないんじゃないか、帰ろうかと思い始めていた。
空も、ススキに覆われた丘も、ボブも、真っ赤だった。黒い大きな耳が、ぴん、と小さく跳ねた。
遠く空が鳴って、点だった機影が大気を震わせながら近くなる。夕陽に照らされた、ただ一機も赤だった。
ボブはそれをじっと首を上げて見つめていた。青かったはずの目の色は、夕の光と混じってわからなくなっていた。
「ボブ」
なぜだか──なぜだかたまらなくなって、自分はボブに声をかけた。
「ボブ。帰ろう」
柔らかそうな耳が震えて、ちらりと不可思議な色の目がこちらを見る。けれど犬の視線は結局、山の端に消えてゆく機影を追いかけていた。
小さい頃に追いかけていたふさふさの背中が、自分の目線よりずっと低くなっていたことに気づく。あと何度、同じ季節を過ごすことができるのだろう。
もう一度、ボブ、と強く呼んだ。
ゆっくりと顔を向けながら、しかし心はまだ消えた影に残したままのように、ボブは横顔を見せた。瞳の色が、日が落ちて色を失う空と共に深い青に戻ってゆく。
彼にこちらを向いて欲しくて、引き止めたくて、自分はそれまでぼんやりと描いていた夢を初めて誰かに話した。その時は、それが真に意味することも、その重さも、何もわからないままに。
「ボブ。中学を卒業したら、アスティカシアに行きたいんだ」
ただ、まともにボブを見ることもできず、彼の右目の下の小さな斑をずっと見ていたことを覚えている。
「MSのパイロットになりたい。パイロットになって、──そしたら」
そしたら、なんだというのだろう。先が言葉にならなくて息を止めた、その視界の先に黒い大きな耳が、深く青い瞳が、黒い鼻先が、こちらを向いていた。
そうして、ススキの上を渡る風を越えて、聞いた。
『待ってる』
確かに、その声を。
end.