ロサスのある日
54
その日、晴れ渡ったロサスの空におかしなものが現れた。
「蝶?」
港で船の手入れをしていた民の一人が呟く。
海の向こうからやってきたそれは、確かにそれは蝶の形をしていた。赤、青、黄、緑、黒、白、紫……色とりどりの無数の蝶の群れ。しかしただの蝶ではなく、まるで光で出来ているかのように美しい輝きを放ち、何百何千が一つの塊となって虹色の巨大な蝶となっているように見えた。
「あれは……まるで……」
森で魔法の杖を使う練習をしていたアーシャは、かつてこの地に降りてきた星のことを思い出す。その星が撒いた奇跡を起こす光の粉に、その蝶の輝きは似ていた。美しく、何かの力を秘めた輝き。しかし、奔放に巻き起こされる星の光とは違い、蝶には確かな意思のまとまりと方向性があるように思えた。
そんな蝶の群れが向かう先が王城であることに気づいたアーシャは、慌てて王城へと走り出す。とはいえ不思議と不安はなかった。あの光の蝶の群れが悪いものではないと、感じ取っていたから。
森を抜け、蝶の群れを見上げる通行人たちの中を走り抜け、王城の門の前についたとき、蝶の群れは、窓から王城内の執務室へと入っていくところだった。
「王妃様!」
執務室にいるだろう王妃――今は女王と呼ぶべきなのだろうが、『王妃』という呼び方が馴染んでいたため、中々直せないでいた――アマヤに呼びかけながら、アーシャは王城内を飛ぶように走り、執務室のドアを開いた。
「あらアーシャ。ノックをしないといけませんよ?」
駆け込んだアーシャを出迎えたのは、いつもどおりの柔和な表情をしたアマヤと、執務室を飛び交う蝶の群れであった。
「え、えぇっと……ハァハァ……あの……この蝶は……」
走ってきたため荒くなった息を整えながら、アーシャは蝶を見つめる。すると蝶たちは一か所へと集まっていき、人型の塊になったかと思うと、目もくらむような閃光を放った。
「ひゃっ!」
思わず目をつぶったアーシャが、次に目を開いたとき、そこには濃い青のローブと、星と月をあしらったトンガリ帽子を身に着けた老人が立っていた。
「ふむ……『魔法の杖』を使わず、走ってきたのかね?」
長いあご髭を生やした老人に言われ、アーシャはハッとなる。
「あ、いえその、まだ魔法は練習中で、その……気が付きませんでした……」
いくら魔法があまり上手くないとはいえ、走るよりは楽にここまで来る方法は何かあっただろうと思うと、アーシャの頬は熱くなった。
「イェン・シッド様。彼女はアーシャです。星から『魔法の杖』を授かりました」
「話に聞いた女性だな……フェアリーゴッドマザーを目指しているとか」
老人は強い眼光を放つ目でアーシャを見つめる。アーシャはその迫力に若干腰が引けた。
「アーシャ。この方はイェン・シッド様。強い力を持った魔法使いで……」
「……未熟な弟子の後始末に、手を貸すために来た」
イェン・シッドは懐に手を入れると、小さな髑髏を取り出した。それを執務室の机の隅に置くと、手をかざす。すると、髑髏から不思議な白い煙が浮かびあがり、空中で形を変え、鮮明な像を形作っていく。
そして、それは一人の目鼻立ちの整った男性の姿となった。その男性によく見覚えのあったアーシャは驚く。
「マグニフィコ……」
「ああ、儂の二番弟子だ」
イェン・シッドの鋭く強い目に、憂いが浮かんでいた。
「この国を見て、何が起こっていたかはある程度察した」
マグニフィコの姿が様々に移り変わる。書類仕事をしている姿。身だしなみを整えている姿。魔法の薬品を調合している姿。国民の願いを叶えている姿。そして、あの日の、狂える暴君となった姿。
強大な力を持つ杖をかかげ、緑色の悪しきエネルギーが迸るさまが、正確に再現されていた。
「ええっと、その……」
「怒ってはいない。マグニフィコの失敗だ」
弟子をやっつけられたことに怒っているのではないかと思ったアーシャは恐る恐る声をかけるが、イェン・シッドの答えは落ち着いたものだった。
「イェン・シッド様……貴方様から見て、どうですか?」
「一言で言えば難しい。これほど黒魔術に染まっては、善良な心を取り戻すことは」
最後にマグニフィコの姿が鏡に閉じ込められたところで、映像は消えた。
「難しいということは……不可能ではないと?」
「時間が必要だ。そして機会が。必要な手を借りるにしても……年月がかかる。我々魔法使いにとって、時間の流れはそれほど気にすることではないが……常人にとっては越えがたい壁だ」
強い力を持った魔法使いは、未来を予知することも、過去へさかのぼることもできる。無論、なんでもできるわけではない。そこまで万能ならばイェン・シッドとて、弟子をむざむざ不幸にすることもなかった。だが運命が許す限りにおいて、時間に干渉することは可能だ。
「マグニフィコが解放されるのは遠い未来。そなたが今生においてマグニフィコに再会することは、あるまい」
そして運命が許さない場合も、またある。
イェン・シッドは、王妃が生きている間にマグニフィコが解放されることはないと断じた。
「そんな! どうにかならないんですか!」
横からアーシャが叫ぶ。
二人の会話から、多少のことは察することができた。王妃はマグニフィコの師だという魔法使いの力を借りて、マグニフィコ王を良い人間にしたいと考えていたのだ。
そのようなことならアーシャは諸手を挙げて賛同する。アーシャはマグニフィコを悪い人間だと思っていたが、かつては王妃が愛するに相応しい正しく純粋な思いを抱いた人間であったとも聞いていた。
「マグニフィコには酷いこともされたけど……王妃様が望むのなら何でもします!」
かつて敵対した相手といえど、良くなれると言うなら、わだかまりなど一切無く応援できるのがアーシャという娘であった。
「……なるほど、マグニフィコが弟子の候補として選んだのも頷ける」
そしてそんな彼女をイェン・シッドは見抜いていた。良いところも……悪いところも。
「強く硬い意志。目的を定めたら、待つことなく真っすぐに走る傾向。性急。他者から何と言われても、自分を曲げない頑固さ。失敗してもすぐに立ち直る柔軟さ。豊かな感情。歌と会話を好む」
絶句するアーシャに、イェン・シッドは言葉を連ねる。アマヤは見守るように、どこか懐かしさに思いをはせるように、アーシャを見守っていた。
「自分は間違っていないと信じ、やると決めたことは必ず実行する姿勢。情熱。ときに冷静。深い慈悲。優しすぎる。そして、『自分の願い』より『他人の願い』のことを気にしている……」
アーシャの持つ性質を並べ、イェン・シッドは結論を口にする。
「まったく本当に……マグニフィコに、よく似ている」
「えっ」
あまりに予想外のことを聞いたアーシャは目を見開いて驚きを表し、アマヤが小さく頷いたのを見て更に驚く。
「わ、私と……マグニフィコが?」
「そうだ。鏡のようにそっくりだ」
そんな馬鹿なと、自分とマグニフィコを思い浮かべ……今、言われたことが当てはまっているとしか思えないことに愕然とする。
「どうやら思ったより物分かりは悪くないらしい」
少し失礼なことを言われたような気がしたが、アーシャはそれどころではなかった。自分が悪人と思っている人物と自分が似ているという事実に、ショックを受ける。
さすがにマグニフィコの何もかもが絶対的な悪だと思っているわけではないが……。
「落ち着いてアーシャ、イェン・シッド様にお願いしたのは、マグニフィコのことだけじゃない。貴方のことについてもなのよ」
アマヤがアーシャを安らげる優しい声をかける。
「貴方がマグニフィコに似ていると初めから思っていたわ。マグニフィコの良いところがよく似ていた。けれど、マグニフィコの悪いところにも似ていた。だから少し心配で……貴方に先生をつけたかったのよ」
先生?
それはイェン・シッドが先生になるということだろうか?
そう思ったアーシャだったが、
「私が教えるということではない。私はこれからまだ忙しくなる。新しい弟子をとる暇がないゆえに……」
大魔法使いは帽子を頭から外し、アマヤへと差し出した。
「そのためにつくってきたものだ。かぶれば誰にでも使える」
「ありがとうございます。では……」
アマヤは月と星をあしらった青帽子をかぶり、
「なるほど……かぶるだけで使い方がわかります。こう、ですね」
手を振った。キラキラとした輝きが王妃の手から放たれ、渦巻き、一つの形となる。やがて激しい光を伴って、空間から『それ』は現れた。
「ええっと……箒?」
アーシャの言葉通り、それは穂先を下にした一本の箒であった。普通の箒と違うのは、柄の半ばあたりから、一対の腕のような枝が生えていることか。
戸惑うアーシャをよそに、アマヤが更に腕を振るうと、急に箒が飛び上がった。
「ひゃっ」
箒は二股に分かれた穂先を器用に動かし、歩くという行為を行って、アーシャの前に立つ。
「アーシャ、この箒を貴方の魔法で止めてみて。強い魔法を浴びせれば止まる仕組みだから」
「魔法で? なんで急に……」
頭がついていかないアーシャより先に、箒は動いた。機敏にしなり、空気を薙いで箒の柄がアーシャの頭を打ち据える。
「痛いっ! な、何をするのよ!」
いきなりの仕打ちに怒ったアーシャは、白い魔法の杖を振って光の矢を放つ。しかし、箒は矢をスルリと避けてジャンプし、アーシャを蹴っ飛ばした。
「こ、このっ! えいっ! やぁっ!」
光線を乱れ撃つアーシャだったが、ろくに狙いをつけていない攻撃は箒に容易く避けられる。また間合いを詰められ、頭を叩かれた。
「こんにゃろっ!」
アーシャは魔法の杖ではなく、蹴りつける選択をする。穂先に当たった蹴りが、穂を数本ちぎった。
「駄目よアーシャ。魔法を使わなくちゃ」
「そんなこと言ったって……」
「ああ、まだ言っていなかったが」
アマヤに言い返そうとするアーシャに、イェン・シッドが口を出す。
「この魔法の箒は、壊れて折れたり、欠片が散ったりすると」
話しているうちに床に落ちたちぎれた穂が、脈動するように跳ね、キラキラ光り、見る見るうちに膨らんでいき、
「増える」
穂のそれぞれが、元の箒と同じ大きさ、形の新たな箒となる。
「うっそぉ……」
計5本の箒に取り囲まれたアーシャが袋叩きにされたのはその一瞬後だった。
◆
「痛い……うう……」
「まあこのように、箒による訓練を行う魔法を込めた帽子だ」
呻くアーシャをよそに、イェン・シッドがアマヤに解説する。
「運動でも勉学でも、たいていのことは教えられるようになっている。言葉は離せないが、文字を描くことも可能だ。サボるとひっぱたくが、深い傷は負わせないようにしてある。箒の消し方や時間設定も帽子が伝えているはずだ」
「確かに。本当にありがとうございます。これなら国民の訓練も進むでしょう」
マグニフィコが鏡に封じ込められた日、ことさら冷たい態度で夫を地下牢へ運ばせた。
今後のロサスを治めるために、周囲の国民に、自分と王は完全に敵対関係であり、自分は国民の味方であることを見せつけなければならなかったから。
案の定、国民は皆、自分に対して『万歳』を連呼した。誰も、マグニフィコ王が豹変したことに疑問を抱いている様子はなかった。王に何があったのかと質問することもなかった。予想したことではあったが悲しかった。
あまりにも流されやすく、想像力に欠けた民。これは自分とマグニフィコが国民を甘やかしすぎた結果なのだと痛感した。
夫妻はロサスという安住の地に国民を閉じ込め、あらゆる外敵から守ってきたが、結果として自分で判断し、危機を乗り越える力を失わせてしまった。
アーシャを含め、国民たちの多くが外の世界の、現実の恐ろしさと厳しさを忘れているか、または生まれつき知らない。
仮にスターが落ちてこず、アーシャたちが立ち上がらなくても、いつかロサスは崩れていただろう。いや、もっと取り返しがつかないほど腐れ切っていたかもしれない。
だから、マグニフィコを追放してでもその責任をとることに決めたのだ。
(まだやり直せるといいのだけれど)
アーシャや彼女の友人たちはまだ若い。今後の学び次第で、視野を広げ、様々な価値観を知り、自分を顧みて、未来への道を歩いていくこともできよう。しかし他の大多数の大人たちは再び歩き出せるかどうか……わからない。
しかし投げ出せない。これは王の責任だ。
マグニフィコの優しすぎるやり方の負の面に、薄々気づきながら意見しようとしなかった自分の責任だ。
幸い、マグニフィコのかけた魔法の結界はこの島にまだ残っており、この島の中にいる限り、侵略者は襲ってくる心配はない。だが忘れた願いを思い出した民たちは、いずれ願いを叶えるために島から旅立っていくだろう。
その先のことは彼ら次第だが、せめて外の厳しい現実と戦えるだけの準備はさせてやりたい。彼らを弱くしてしまった負い目がある。
そう思い、夫の部屋を探し、話に聞いていたマグニフィコの師イェン・シッドに連絡する魔法を見つけて何とか連絡をとった。外の世界に信頼できる相手がいないアマヤにとって、唯一頼れそうな相手だった。
そして、その頼りがいは予想以上であった。
この箒の魔法を使えば、一人一人を文字通りビシバシと鍛えることができる。
イェン・シッド曰く『箒で尻を叩くからには全力を尽くす』。
今後は自分も箒を使って、より政治の勉強を積まなくては。
(それでも……このロサスは長くは続かないでしょうけれど)
願いを叶えてもらいにくる者はもうおらず、願いを叶えるために旅立つ者が増える。
国民は減り、いずれはロサスという国を維持するだけの人数はなくなるだろう。
それでいい。
もともとマグニフィコが『願いを忘れさせて楽にさせる』ことが目的でつくった国。
マグニフィコがいなくなった以上、役目は終わったと言っていい。この国が出来るのを見てきた自分が、その終わりも看取ろう。
このロサスは、ゆっくりと消え、忘れ去られる国となるだろう。せめて安らかに消え去ることが出来ればそれでいい。
あとは……夫がまたこの世界に戻ってきてくれたなら、それ以上何も望むことはない。たとえ、その時にもう自分がいないとしても。
「では後日また様子を見に来るとしよう」
アーシャに向けて魔法使いの手がかざされると、痛みを訴えていた体が急に楽になる。箒に打ち据えられてできたあざは全て消えていた。
「次は自分の魔法で治すことだ。箒に鍛えてもらうがいい」
自分より遥かに鮮やかで、記憶に残るマグニフィコの魔法と比べてもなお精密なイェン・シッドの腕前に、アーシャは改めて舌を巻いた。
イェン・シッドがローブをひるがえらせてその身に魔力の光を灯すと、その体は次第に来た時と同じように、蝶の群れへと姿を変えていく。
「アーシャ」
「は、はい」
イェン・シッドに初めて名前を呼ばれたアーシャが上ずった声を出す。
「お前はマグニフィコと似ている。だが結局は別人だ。お前はこれから、どのようにだってなれる。マグニフィコのように、なりたいと思ったらそうなればいい。なりたくなかったら、なるな。ただそれだけの話だ。まずは鍛えよ。まだお前は先のことを思い悩めるほど一人前ではない。力が付けば選べる道も増やせる」
「……それは、そうですね」
先ほど大きな悩みになるかと思った新事実は、意外とすんなりと飲み込めた。
「しかし……マグニフィコやお前のような一心不乱に進むような人間が、魔法使いに向いているというのも確かだ。我が一番弟子は楽しいことを見つけると気が散りやすく、あまり向いていなかったが」
アーシャの知らない誰かのことを思い出したらしく、イェン・シッドは一瞬眉をしかめた後、
「大魔法使いは時間をも操れる……だが、一人で操れる時間には限界がある。しかし、それが二人なら……あるいは限界を超えるかもしれない。言っている意味がわかるか?」
「!! はい!」
アーシャが立派な魔法使いになれば、イェン・シッドと力を合わせれば、マグニフィコ王を解放するのが遠い未来でも、時を超えて王妃と再会させることもできるかもしれない。そう言ってくれているのだ。
「ええ、やります。必ず!」
「期待しよう。ああ……それともう一つ」
イェン・シッドがパチリと指を鳴らす。するとアーシャの唇あたりが一瞬ムズムズした。
「?」
「ちょっとしたお仕置きだ。しばらくの間だが。七人の友人たちにもよろしく」
それがその日にイェン・シッドから聞かされた最後の言葉だった。
イェン・シッドが蝶となってまた空に消えていくのを見送った後、その日の晩に最後の言葉の意味は理解できた。
それから一か月の間、アーシャと、サイモンを除く友人たちは、何か食べるたびに『踏みにじられて土にまみれた』ような、味と匂いと食感に苦しむこととなった。
以上が、ロサスが箒の闊歩し、時に悲鳴が響く国となる、その始まりの日のことである。
Fin.
あとがき
最後の『イェン・シッドのかけたお仕置きの呪い』の文章を最初に思いついて、そこから肉付けしていった作品です。
マグニフィコがいなくなったロサス。ロサスが惨い終わり方をしてもマグニフィコ(禁書に蝕まれる前)が悲しむと思われたので、なるべく良い未来にしたいと思いました。
しかし、このままロサスの民が外に出て行っても、平和ボケの日本人が紛争地帯に行くようなものなので、誰かに鍛えなおしてもらうしかない。
イェン・シッドにばかり負担をかけるのも考えものだし、『美女と野獣』の魔女に呪いと試練を与えてもらうことも考えたのですが、あの方の試練をクリアできるとは思えない。
試行錯誤の結果、魔法の箒のご登場となりました。