リクエスト12
33この船は海軍の軍艦なので、一般的な客船等とは違い利便性や快適さといったものは期待できる構造にはなっていない。軍属である以上は大砲や武器といった物騒な代物もあるのが当たり前である。
そんな艦の責任者であるロシナンテは、自分の寝床に広がっている今の環境には凡そそぐわない光景を、上がる口角を何とか抑えようとしている何とも言えない表情で眺めていた。時刻は深夜。健全な子どもはとっくに寝ている時間であり、そしてまさにハンモックの上でその子どもがすやすやと眠っている。身の丈ほどの大きなシャチのぬいぐるみを抱えて。
先日ロシナンテが買い与えたばかりのその抱き心地をローは大層気に入ったようで、最近の夜の相席といえばもっぱら『彼』である。シロクマとペンギンは大きさと装飾の関係で抱き枕にするにはやや使い勝手が悪かったらしい。夜は部屋にある棚に丁寧に並べて置かれている。妙な無念さが漂っているのはロシナンテの気のせいだろう。シャチの愛くるしいはずの顔が何か勝ち誇ったような顔をしているように見えるのも深夜のデスクワークによる疲れからに違いない。
ロシナンテは自身の両腕をぐるりと回した。先ほどまで書き物をしていた肩から骨が鳴る感覚がしたが、その音が部屋に響くことはない。ローの睡眠の妨げにならないようにと凪をかけて仕事をしていたからである。
手元の明かりを消して、慎重にハンモックに上がる。大きく揺れたがローは身じろぎをしただけで目覚めた様子はない。ほっとしつつ、ローとの間にぬいぐるみを挟むように抱き込んだ。いくらロシナンテの身体が収まる特注のハンモックとはいえ、子どもとぬいぐるみも載っているとなると手狭になるのは否めない。しかし、なんだかんだ他の海兵とも打ち解けてきたとはいえ未だにロシナンテの部屋から離れることを断固拒否してくるローも、それを許しているロシナンテも納得してその狭さを受け入れている。
思ったよりも溜まっていた疲れからかあるいは子ども特有の高体温からか、瞼がどんどん落ちてくるのを感じる。薄れていく意識の中に、自分にかけた凪のことはもうなかった。
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慣れるということは、平気になるということではない。
数えることすら馬鹿らしくなるほど、何度も『みた』この光景も。
降り積もる雪も、箱の中の暗闇も、遠ざかる赤い彼も。
いくら叫んでも届かない己の声も。
少しずつ消えていったのであろう、彼の心音も。
目が覚めたローが最初にしたことは、自分の呼吸と鼓動を落ち着かせることだった。同じ夢を見るたびに起こるこの現象の対応にも慣れて久しい。もう昔のように叫び起きることもなくなった。気を紛らわせるために窓の方をみる。いつもなら暗い海底が広がっていることが多いが、今は海上だ。しかしまだ夜明けには遠いうえに波もひどく凪いでいて、結局いつもの景色とあまり変わらないなとぼんやりとした頭で思う。
頭に鳴り響く鼓動がようやく収まってきたら、次の行動は温まることだ。本当は汗を流したいところだが今はそのわがままを押し通せる状況でもないので、せめて身体を冷やさないようにしなければならない。かかっていたブランケットにくるまり、手元のぬいぐるみに顔をうずめて……
ぬいぐるみの向こうにいる人はその体格に違わず心臓とその鼓動も大きい。それはいつもなら、ぬいぐるみ越しでも微かな心音がローに伝わってくるほどだ。それが、今は全く聞こえない。今夜は不安になるほど静かで、むしろ聞こえやすいはずなのに。
また世界がどくりと脈打った。
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ロシナンテは身体に走る振動で目が覚めた。
「ん……んぅ……んんん!?」
覚醒した頭が揺さぶられているのだと理解する。感覚的にハンモックではなく自分の身体を直接揺さぶっているようだ。まだ暗闇に目が慣れていないが、そんなことをする人物はこの部屋に一人しかいない。暗闇の中動く小さな影におそるおそる呼びかける。
「ロー…?なんだ……?」
「ッ……!…ぅ……!!」
ようやく鮮明になってきた視界に、嗚咽を漏らしながら自分にしがみつくローが映った。何かを訴えるようにロシナンテの左胸を叩いている。大粒の涙が頬と寝間着をどんどん濡らしていく。
「ど、どうした!?どっか痛いのか?怖い夢でもみたか?」
「ッ~~~!」
「落ち着け。あんまり泣くと脱水症状になるぞ?」
泣き止まないローを抱きしめて背中をさすり、なだめるように声をかける。出会ったばかりの不安定な頃によくやっていたことだったが、なぜか今回はなかなか落ち着いてはくれない。それどころか左胸を叩く力が増したような気がして、ロシナンテの困惑が加速する。
気を紛らわせるために話しかけるがローの反応がひどく薄い。そしてここに至ってようやく、ロシナンテは一つの事実を思い出す。
「あ、凪……」
寝る前のドジを思い出したロシナンテが自分に触れる。かかっていた凪が切れたのを感じて、やはりかけっぱなしだったかと得策がいった。つまり、ローには自分の声が一切聞こえていなかったのだと。頻繁にではないがたまにしてしまうドジの一つだった。
「ロー、これで聞こえるか?」
「!?」
抱えたままのローの身体が大きく跳ねる。叩く手がとまり、乱れていた呼吸も徐々に緩慢になっていく。ロシナンテはローを抱えてさすったまま、ローはそんなロシナンテにしがみついたまま、しばらく何も発さずハンモックに揺られていた。
しばらくしてローが口を開いた。
「………………マジふざけんな」
「お、おう…ごめんなドジった」
地を這うような低い声に本気の怒りを感じ、ロシナンテは何もわからないまま咄嗟に謝罪する。まだ顔を上げないローだが、髪の間から覗く耳が心なしか赤いように思えた。いつもの生意気さが戻ってきたと安堵する一方で、しがみつく手の微かな震えはまだ収まりそうもない。
ローの前で自分に凪をかけたことは何度もある。眠る前に切り忘れたのは初めてだが、聡い子なので通常ならば眠っている自分から音が聞こえないのであれば術のせいだとすぐに気づけるはずだ。
「嫌な夢でもみたか…?」
「………それもある……」
ぶっきら棒な回答だったが、それを信じるのであればあれだけ錯乱した理由はそれだけではない、ということだろうか。そしてその一端は自分にあるのだろうが、ロシナンテがいくら考えてもその答えが浮かばなかった。
一つ分かったのは、寝る前に凪を自分にかけるのはよろしくないということだ。ローと共に眠るうちは夜に多用すべきではないのだろう。
「悪かった。もうやらねェよ」
「………あんたが寝るまでおれが起きて」
「それは駄目だ。子どもはちゃんと早めに寝ろ。大きくなれねェぞ」
「じゃああんたも残業はすんな」
「あ~…努力はする」
何故かロシナンテが叱られるような形になった。ローの前で見せた度重なるドジの前科のせいなのかあまり信用されていないようだと苦笑する。それが、かつてローが彼につかれた優しくも残酷な嘘たちによるものだということをロシナンテが知る術はない。
再び二人ともハンモックに横になる。自分にくっついたままのローにまた苦笑しつつ、ロシナンテは乱れていたブランケットを自分とローにかけなおした。
「……眠たくなるまで何か話してくれ」
「え~…おれそういうの苦手なんだよなァ」
「あんたの小さい頃の話がいい」
「話聞いてたか?……じゃあ、初めておつかいに行った話とか」
「どんなドジをやらかしたんだ」
「ドジった前提かよ。その通りだけど!」
潜められた声が楽し気に話をしているのを、いつの間にか床に落とされ哀愁漂うシャチのぬいぐるみが聞いていた。