ラチの向こうの同期のはなし
薄荷とブルーアワー
夏になれば矢鱈と目立つ純白のスカートのポケットを弄る。
右、左、もう一度右。そこに在る感覚が無いのだから、当然お目当ては見つからない。
メープル材の天板の下、教科書やらが詰められる物入れに手を突っ込んだ。机脇のフックに掛けたスクバにも手をかけた。予備のハンカチを入れたポケットにも、貴重品入れの内ポケットにも見当たらないのは、入れた記憶がないからだ。
カードケース、幾つかのダイス、手に馴染んだコイン。黒ひげ危機一髪の本体はゴルシからの貰い物。鞄の中で散らばるプラスチックの短剣の中に希望を見出すが、ま、当然あるわきゃねぇ。
どうしてかって? 幾ら私がヒリつく勝負が好きだからって、徒労を賭けた勝負をしてたい訳じゃない。ゴチャつくスクバの中を都度早探りをするなんざ面倒な事はしたくねぇ。
つまるところ、いつもの場所になければない。そんなこた解っちゃいるが、一縷の望みに賭けてみたい。
勝敗? 教室の窓辺に降り注ぐお天道様に笑われてるようだと言や察しはつくか?
「……クソが」
「どうたんじゃ〜? ナカヤマちゃん」
トレセン学園の可憐な制服には似つかわしくない私の悪態を拾い上げたのは、後ろの席のワンダーアキュート。
すみれ色のラインの入った大襟も、花の蕾のような提灯袖も似合う、夢見る瞳のウマ娘。周囲からは老婦人のように扱われがちだが、その白皙には皺一つ肝斑一つありゃしない。
私のような博徒と違い、純真無垢のお嬢さん。
最も、治安の悪い言動をしがちな同期に対し怯む事も躊躇う事もない度胸はあるが。
手紡ぎの真綿の柔らかな声音。椅子の背凭れに腕をかけ上半身だけ振り返れば、アキュートは英語の教科書を閉じたところだった。
「飴を切らしちまった」
「おやまぁ……ナカヤマちゃん、お手手を出して?」
言うや否や、飾り気のない小さな爪の指先が、机の下、崩れ一つないプリーツスカートに伸びる。導かれるみたく取り出されたのは掌にも満たない巾着袋。蝶結びされた紐が解かれる。
どうしたのとばかりに首を傾げられるものだから、渋々出した掌の上、小さな透明パッケージがそっと着地した。
「ナカヤマちゃんの好きなろりぽっぷじゃないけれど、薄荷の飴ちゃん、召し上がれ?」
夜の帳が落ち切る前、微かに残るブルーアワー。
ワンダーアキュートの瞳の色はそんな空の色に似ている。打算なき無邪のそれは、時として、私をいたく掻き乱す。
……ああ、どうしようもなく厄介な事にな。
それは夜明けの色をしている
ラチのむこうの同期さんは、すみれ色の瞳をしている。
清楚でかわいらしい、春の花。
そう言われるのはあまり好きじゃなさそうだけれど、でも、拒絶するほどでもないみたい。
でもね、あたしはこっそり、それを朝焼け色みたいって思うことがあるんじゃよ。
目覚まし時計よりも早く目覚めてしまったとき。カーテンを開いて、暗がりから生まれるむらさき色。
朝のはじまり。明けの明星も嫉妬する、世界のはじまりの色だって。
あたしよりもすこしだけ大きな手の上に、飴ちゃん用の巾着袋から取り出した薄荷飴をそっと置いたら、ナカヤマちゃんはほんの少しだけ表情をくもらせた。眉がきゅっと寄った、みたいなのじゃないの。言うなれば、その朝焼け色の瞳に、雲がかかったような。
困惑、よりも、戸惑い、と表現したほうがしっくりくるかしら。ごきげんななめとか不満とかじゃない、なにかに迷っているような。
でもそれもほんの数コマのこと。器用な指先が透明なパッケージを切り裂いて、平べったい楕円のかたちの薄荷飴を取り出すの。
「さっき、後輩の子にあげていたのが最後だったんじゃねぇ」
仕草も印象も乱暴に見えるナカヤマちゃんは、その人となりを知らない子からは遠巻きにされがちでねぇ。怖い子たちがうろうろしてる裏路地によく出入りしてるのもあるんじゃろうね。でも、本当は優しいところがたくさんあって。それを知ってる後輩さんたちに慕われているのを、ちょこちょこ見たことがあったりするわ。
さっきだって。明日の選抜レースのことかしら、泣きそうな顔をていた後輩さんに、なにか声をかけていたの、視界の端に見えていたんじゃよ。
薄荷飴をお口に放り込んだナカヤマちゃんは今度こそその瞳をぐっとすがめてみせる。怒ってはないけど、……よけいなことは言ってくれるな、みたいなお顔。
そんな態度を取ったって、あたしにはもう隠しきれないの。
ラチの向こう、緑の燃えるターフの上、誰かに光を見せるその背中。
そんなあなたの姿を、あたしはそっと追いかけているんだもの。
ブルーアワーは慈しむ
宵の明星が寂しく灯る、夕と夜の境目は、かつての私を自由にした。
まるでお天道様に見張られてるかのような白昼は大層居心地が悪くてね。真面目に走って真面目に伸びて、まさに『生きてる』お嬢さんたちの姿は、かつての私にとって目を焼かれてしまうほどの眩さだったから。
けれど、夜の帳に包まれきってしまうのも抵抗があるにはあった。星一つない昏い夜の底に落ちきってしまわないよう、差し伸べられている白魚の手の存在を、私は知っていたから。
だからブルーアワーが心地よい。日が暮れた後、お天道様が完全に眠りにつくまでの、夜と夕、僅かな時間の空模様。
私の本能と私の良心が軋んだ悲鳴を上げない、暗がりと残光の狭間。
ワンダーアキュートの瞳は、そんな色をしている。
ラチの向こう、ダートウマ娘たちが土を掻くようにして駆けていく。天候によっては砂埃が舞って、一団が走り去った後は暫く視界がとざされるほど。蹄鉄の踏み込みは土塊を跳ね上げて、いとも簡単にトレーニングウェアを汚す。
からり、と、口の中で転がすのは、いつかみたく与えられたキャンディタイプの薄荷飴だ。流石にトレーニング中、スティックタイプの飴を舐めるような危険な真似はしないさ。スティックタイプじゃなくても喉に詰まると危険? まぁそりゃそうだが、走るとなればさっさと噛み砕くに決まってるだろ。
ラチの向こう、ゴール板のあたりで模擬競争は終わる。呼吸を整えるためにクールダウンする走者の中、芦毛のようで芦毛ではない、『おばあちゃん』と呼ばれがちな理由となっている鹿毛頭を探す。
次走は川崎記念だったか。年始からアキュートは厳しいトレーニングを続けている。これまでとは比べ物にならないくらいの闘志を滾らせて。限界のその先を見据えるみたく。時にぶっ倒れそうになるほどに。
それでも今日は、おかしな無茶をしてらいないらしい。誰にでも向けられる穏やかな微笑みを見つけたと思えば、夕青の瞳がこちらをとらえた。胸の前でささやかに手が振られる。
なんとも心地が悪い。手持ち無沙汰の両手をジャージのポケットに突っ込んだ。いつものように用意していたスティックタイプの薄荷キャンディのビニル包装が、まるで私を試すかのように指先を刺した。
光は夜に落ちていく
ウマ娘は、走ることが何よりも大好き、という子が多いんじゃよね。
ご飯だとか、お昼寝だとかが大好きな子もいるけれど。ひとの三大欲求、というやつかしら。でも、走ることを億劫に思う子はいないんじゃないかしら。
ラチの向こう、緑の芝の上、速さを身にまとって、芝ウマ娘さんたちが駆け抜ける。尻尾をなびかせて、腕を振って、脚を上げて、息を止めて息を吸って、風にとけこんでしまうみたいにして。
あたしも走ることが好き。走っているときはね、ふだんよりいっそう、生きている感じがするの。走るのが楽しくて、嬉しくて、気持よくって。
芝を走るのはそこまで得意じゃあないから、みどりの風にはなれないけれど。
もうすっかり春は遠く、青葉の芝を踏みしめて、夏を通り過ぎ、迎えた秋。菊が舞って、あたしたちの世代のクラシック戦線は終わりを告げたんじゃよ。そうして訪れた冬、ラチの向こうの同期さんは、その夜明けの瞳を翳らせることが多くなっていたわ。
とっても演技が上手な子だもの。たくさんのひとを欺いて、感情を載せないお耳や尻尾は平気そうに遊ばせて。気づいていたひとは気づいていたと思うけれど、触れないでくれと首を振る。
眠れていないのかしら、授業中もうつらうつらと船を漕ぐことが多くなったわ。そうしたら当然、薄荷キャンディだって、あっというまにたりなくなってしまう。
「ナカヤマちゃん、移動教室じゃよ、起きてちょうだい?」
移動先が少し遠いから、すっかりクラスメイトがいなくなってしまった教室で、あたしは突っ伏して眠るナカヤマちゃんを揺すり起こす。あたしもあたしで、年が明けてから次のレース――川崎記念に向けての調整の関係で、ほんの少しだけぼんやりすることが多くなってしまうことが増えたから、ポケットの中の巾着袋に残っていた薄荷飴を口に含んでいたわ。ここが踏ん張りどころ、じゃもの。弱音なんて吐いていられない。
重く身体を起こしたナカヤマちゃんは、小さく頭を振って、スカートのポケットに手を入れて、……気付けがわりの薄荷飴がないことに気づいたみたい。すこし視線を泳がせて、あきらめたようにうなだれて。
あたしの前で、夜明けの瞳を翳らせる。無防備に、無警戒に、虚勢を張るのを忘れたみたいに。
「……ナカヤマちゃん、お口、開けて?」
「……あ?」
それが獣の衝動だったかはわからない。隙だらけに開かれた薄い唇を塞ぐようにして──あたしはそっと、薄荷の香りを、渡したの。
あなたが星のない夜に落ちてしまわないように。
「君は舞台に向いている」
己の弱さを完全に押し殺せる程、私は不器用じゃなかった。
越えるべき目標、その先の凱旋門賞へ向けてのトレーニングで不安がありゃ己のトレーナーに相談する手間は惜しまねぇ。昨秋なんとか一命を取り留めた『先生』を生かした状態で凱旋門賞を勝つために、余裕なんざ1ミリもないからな。
フラストレーションが溜まりゃ憂さ晴らしの舵取りを同室や友人に求めた。くだらなくもヒリつく勝負に興じりゃ気合が入る。
途方もなく勝ち筋のない勝負の重さに折れそうな時は『先生』の手紙をなぞり直した。辛く苦しい茨の道をただひたすら生き抜くために進むのは私だけではないのだと。
これから私がすべての勝負に勝つために。私は私に『勝負師』であることを求め続ける。見せられる弱さは曝け出して、走り続けられることを『演じ』られている。
──そんなつもりだったんだよ。
授業の開始を告げるチャイムが、意識の向こうで遠く響いているようだった。身動ぎすれば椅子の脚が教室の床タイルに擦れ、耳障りな悲鳴を上げる。
舌の上でまろぶ薄荷飴が溶けるのが先か、砕かれるのが先か。私を射抜くブルーアワーの瞳に屈するのが先か、頬に添えられた小さな掌を撥ねのけるのが先か。
アクシデントには慣れているつもりだった。真剣勝負中に横槍が入ったり、クソみてぇなイカサマが始まったり。状況に応じて最善を手繰り寄せなきゃ裏路地で生きてはいけない。幾ら浅く質の悪い眠りから目覚めたばかりで頭がまともに働かなくても、次の一手を指さなければならない。今すぐに。
薄荷飴が舌先を伝って行き来する。呼吸の合わせ方はすぐ覚えられた。1月の終わり、真冬の冷えきった窓の外、白昼の光が疎ましくて、私はとうとう瞳を閉じる。脳に、心に立ち込めていた深い霧を吹き散らすかのような刺激に酔いしれて。
けれど。程無くして薄荷の香りは、溶けきることなく砕け散ることなく、私の舌の上に落ち着いた。
「──ごめんねぇ」
先手を取ったのはアキュートだった。私の頬に添えていた両手を引けば、一息で呼吸を整えて、その両耳を力なく垂らす。先程までの攻勢を忘れてしまったかのような、純真無垢めいたお嬢さんがそこにいた。
「どうしても、ナカヤマちゃんの心に……触れたくなってしまったの」
あぁ、私は……こいつの前で、勝負師の私でいられていたか?
見せたくなかった弱さを、取り繕うことが、出来ていただろうか。
求められれば光に
駆けて、駆けて、まっすぐ駆けて。
ただひたすらに先頭で駆け抜けて。
そんな、誰かの憧れになれるファル子さんのような輝きを宿したい、と、あたしが思ったのは、昨年末、東京大賞典が終わったころのことだった。
あたしは誰かの添え木になりたい。
くじけてしまったり、転んでしまったり、倒れてしまったり、あきらめてしまったり。そうなってしまったひとも、そうなってしまいそうなひとも、そっとそばで支えて、伸びやかに、ふたたび歩き出せるように。
誰かが一歩踏み出すための、輝きになりたいの。
あたしを見てくれるのなら。
あたしに心を許してくれるのなら。
あたしは、そんなひとたちの添え木になりたい。
黎明はまだ遠い。そんな風に翳りがちになってしまったあなたの瞳が、ふたたび夜明けの美しさを湛えられるように。
「どういう、ことだよ……」
あたしたち以外、誰もいない教室。天井に取り付けられた暖房器具の稼働音にかき消されてしまいそうなくらい小さな声で。ナカヤマちゃんはようやく、自問自答みたいに、言葉を絞り出したみたいだったわ。
瞳が揺れて、口を開いて、閉じて、それからハの字になっていた眉が、いつものようにぴんと跳ねる。
怒るのも当然なのよ。あたしが何を思っていようと、現実は、丸腰のあなたに、騙し討ちをしてしまったようなものじゃもの。
三大欲求のひとつ、その衝動そのままに。
あなたを弱らせる小さな悲しみを、拭い去ってしまいたくて。
「おかしなことして、ごめんねぇ」
「そうじゃねぇ。……謝られたいんじゃ、ない」
ナカヤマちゃんは首を振る。表情を隠すようにして目元を掌で覆って、そのお耳は絞られることもなく、弱々しく伏せていたわ。……良心をかなぐり捨てて、本能の衝動そのままに踏み込んでしまったあたしから、距離を取ることもしない。
できないのかしら。しないのかしら。それはわからないけれど。
まるで、どんな感情を吐き出せばいいのか戸惑う迷子さんみたいに、途方に暮れる──ひとりの女の子。
「……私の心に触れたい、ってのは、……どういう意味だって、聞きてぇんだよ」
私のブルーアワー
アキュートが私の問いに答えられなかったのは、黙秘されたわけじゃない。単純に、そのタイミングで見回りの先公に見つかっちまっただけの話だ。
普段それなりに優等生のアキュートがでっち上げた適当な言い訳がなんとか通り、私たちは授業に行けと急き立てられた。途中までは素直に廊下を進み、上がるはずの階段を下りる。授業を受けるものだと思ってたんだろう、戸惑い立ち止まったアキュートの細い手首を引いて。
校舎を出て向かったのは温室だった。花に対してだけはモグリの美化委員化している私は、春の鮮やかさに欠ける植物の間をすり抜けて、奥の作業スペースに足を踏み入れる。古びたソファに座るようアキュートを促した。
「ここなら暫く誰も来ねぇ」
教室からここまでの移動の間、私の頭はそれなりの冷静さを取り戻せていた。ソファの端にちょこんと座るアキュートの隣、幾ばくかの距離を取って私も腰を掛け、ため息をつく。
ラチの向こうの同期は、教室での積極性はどこへやら。口を噤んで俯くばかり。白昼夢の類だったかもしれねぇなとも思うが、舌先の甘さがそれを否定する。あの時、私は間違いなく、この薄荷とともに溶かされて──結果的に、浅い眠りの谷間に垣間見た悪夢を、散らされた。
「……クソが」
「ナカヤマちゃん?」
口汚い悪態。空けていた距離を取り払う。そのまま身体を倒すついでに、靴を履いたまま腰下もソファに乗り上げる。アキュートの腿の上に預けた頭から、ニット帽を引っこ抜いて胸に抱いた。
私の視界に映るのは、温室の天井と、こぼれそうなくらい見開かれたブルーアワーの瞳のアキュートだけだ。心地のよい、夕方の色。
「あんな無茶苦茶な情欲も許しちまったんだ。……心には触れるななんて、言えるわけがねぇだろ」
私には――トレーナーにも、同室にも、友人にも、『先生』にも、……どうしても見せられない『弱さ』があった。
凱旋門賞へ向かうために、強くあるために。
駆け抜ける私の背中に、希望を宿すために。
けれど、どうしてだろうな。気づけば私は、誰にも曝け出したくなかった『弱さ』を、このラチの向こうの同期だけには、見せちまっている。『勝負師』じゃない私を、見せちまっている。
本当ならあの時、溶け落ちてしまう前に、振り払うべきだった。されるがままになっちゃいけなかったんだ。引き剥がして、ご挨拶じゃねぇかと笑って、なんならやり返してやって。──行為自体は厭うもんじゃあなかったから。情を抱く相手なのには間違いない。……じゃなきゃ、唇どころか舌先も許しゃしねぇよ。
それなのに、私は。
「……あたしはね、ナカヤマちゃん」
おずおずといった風に、アキュートの指先が髪に触れた。
最初はそろそろとクセの強い髪を梳り、やがて、額に、耳に触れていく。
「あなたの添え木に、なりたいの」
あなたの光になれたなら
「おかしな夢を見ちまうんだよ」
あたしの膝に頭を預けて、ナカヤマちゃんは重たげな瞼を伏せるのよ。取り繕う気持ちは脇に置くことにしてしまったみたいでね。鹿毛のお耳が、まるで撫でてくれと言わんばかりに、あたしの手を誘う。
「……最近ずうっと眠そうにしていたのは、そのせい?」
「どんなに早く眠ろうが、どんなに疲れて眠ろうが、……ほぼ毎日さ。二度寝したって夢を見る。さっきだって」
ナカヤマちゃんが誰かのために走り続けていることは知っていたんじゃよ。あたしが誰かの添え木になるために走るように。けれど、詳しい話は聞いたことがなかったの。話したくなければ話してくれると思っていたし、……本当だったら、いつものあたしだったら、これまでのあたしだったら、『あんな無茶苦茶な』踏み込み方、しないもの。
時間をかけてゆっくりと、段階を踏んでじっくりと。それが、あたしのやりかた。あたしに合っているやりかた。たとえ心に触れたくても、拒絶されかねない触れかたなんて、するつもりはなかったの。
ナカヤマちゃんがそうであるように、──あたしも、追い詰められていたからかしら。ゆっくり歩いて良い結果を得るんじゃなくて、今すぐ勝ちたいという獰猛な欲望そのままに、あたしは川崎記念に向かう途中。
獣の心を解き放って、誰かのまばゆさになるために。
ナカヤマちゃんの話は続く。あたしが知らないことについてはその都度補足して。
自分が走りたいだけじゃなくて、大切な恩師に生きてもらいたいから走っていること。そのすべてを、凱旋門賞に賭けていること。
けれど、夢を見てしまう。夢だなんて思えないくらいの手触りで、アタマ差届かず負けてしまう夢。……連れてきたはずの『先生』がどこにもいない夢。
走っても走っても走っても走っても、生きてる心地がしない夢。勝てない。届かない。誰かの希望になれない。……そんな夢。
夢に蝕まれていることだけは誰にも言わないようにして、静かに耐えて、耐えて、朝を迎える。大切なひとが、明日も夜明けを迎えられるように。その瞳に朝焼けの色を灯して。
いつのまにか語りは途絶えて、静かな寝息があたしの耳に届いている。
夢を見ているのかはわからない。たとえばそれが悪い夢だったとして、あたしにはらえるかなんて、わからない。
あなたの瞳の翳りを払う、光になれるかはわからない。
前髪が崩れて乱れた無防備な額に、そうっと手を添える。
どうか目覚めたとき、あなたがあなたの望む夜明けでいられますように。
光よどうか、もういちど
ブルーアワー。
それは、日没後の約40分で見られる、夜の青と、地平線の強い光が織りなす空模様だ。
夜のようで夜ではない。日が暮れたその先、刹那の色合い。それが過ぎれば宵の明星はあかく燃え、世界は夜の帳に包まれる。
いつしか悪夢は消え失せ、迎えた初夏。
私はひとつの決断をした。凱旋門賞挑戦の延期。一命をとりとめた『先生』だが、来年まで保つかはわからない。けれど、勝つために。夢で見たような負け姿を見せるためじゃない。勝つために、私はもう一度運命を越える。『先生』に、世界に、夜明けを見せつけてみせる。
──幾度も翳りそうになった私の瞳が、ブルーアワーの残光にも救われたことは、揺らぎようのない事実だった。
ラチの向こう。
ワンダーアキュートは、力なく走っている。明らかにこれまでとは違う。精彩を欠く、その表現がしっくりするぐらいしっくりきていた。
けど、本格化の終わりを予感させるものとはちと違う。間違いなく走れてはいるんだよ。──川崎記念でね、がんばって走ったのよぉ、と、いつか、私の肩に甘えるようにもたれかかって、ぽつりと溢したことを思い出す。
『あたしは、誰かの添え木になれたみたい。光り輝けたみたい。だからねぇ、そろそろ、おしまいにしても、いいんじゃないかねぇ、って』
川崎記念までの限界を越えた調整からの疲労が抜けないまま、なんとか駆け切ったかしわ記念──ワンダーアキュートは進退を決めた。
添え木になりたかったひとたちがふたたび歩き出せたからと、私の背をも押した同期は、ブルーアワーを越えて、燃え尽き、夜に飲み込まれようとしている。
「アキュート」呼びかければいつかのように微笑まれる。あの日と違うのは、ささやかに手を振られるだけじゃなく、なんとも可愛らしく駆け寄ってくるようになったことだろう。「なあに?」と、闘志の消えた穏やかすぎる声音に、ポケットの中に入れていたスティックタイプ薄荷飴を突き出した。
これは、宣戦布告だ。
本格化が終わっただとかならまだしも。
心の底から走りたくねぇだとか思ってんならまだしも。
ワンダーアキュートはここにいる。
ラチの向こう。蹄鉄で大地を踏んで、──走るのだけは、止めちゃいない。
「併走するぞ」
「あら。ダートで? それともターフで?」
「このラチ沿いに、だ」
いつか、ラチの向こうから私が支えられたように。そのブルーアワーに救われたように。
支えるなんて私の柄じゃないからな。何度日が暮れたって、また夜明けを見せてやる。……たとえそれがささやかな光にしかならなかったとしても。
私もアンタも、まだ、走り足りないし、生き足りないだろ?
蹄鉄が芝を、砂を蹴る。
初夏の光が、ふたつの影を踊らせた。
終