ユダの誓願

ユダの誓願







あの人は、酷い。



熱を帯びる思考がまるで星の核のように溶け出し、頭蓋の中で渦巻いている。他方で腹は底が抜け落ちたようで、臓腑を無くした伽藍堂が冷え冷えとした隙間風に凍えていた。


喉を掻きむしりたくなるほどの苛立ちに任せ、穏和で真面目なはずの副隊長は余りに荒々しく私室の扉を開ける。


踏み鳴らす足音も厭わず部屋の奥へ進めば、文机の正面まで来たところで丁度限界が来たようで、わなわなと震える体が頽れた。



平子真子。


彼を苛むのは、忌々しく、浮薄で、憎たらしいほど清潔で。今まで出会ったどんなものより侵しがたい人の名前。


あの人の意地の悪さを思い出すだけで目の前が赤く染まるようだった。我慢ならない、殺す。殺してしまおう、あの人を生かしてはおけない。

まるで正気じゃない自分の有り様を知って尚、募る衝動は死神の本性というよりもはや獣に近く。しかし軋みをあげる心は何より、悲劇の渦中にある人間に似ていた。


眼鏡と副官証を乱暴に打ち捨てれば先刻飲んだ酒が胸を焼いて、それが自分をより一層惨めな気持ちへ駆り立てる。





ーーー なんや、寂しい男やなぁ



宵が染み渡る部屋の中、こだまする記憶の幻聴が、あの人に似た残酷さでもってさらっていくのは、未だ数刻も経たぬ当夜の出来事。






日没から始まった宴会は、それが特別な目的の一つ持たないにも関わらず見事に殷賑を極めていた。


折しも連日の多忙に区切りがついた事もあり、珍しく宴席に残っていた藍染惣右介は久々の飲酒に少しばかり気分を上向かせ、そのなんて事のない、つまらない催しを俯瞰する。


時折向けられる好意的な視線を涼しげに流して、彼が唯一人意識を割くのは自身の属する五番隊、その隊長で在るところの平子真子、彼女だけだった。


騒々しい場を好む割にその輪に加わるかどうかは気分次第なその人は、今日この場においては隅で黙としていることを選んだらしい。普段の締まりない顔を引っ込めていかにも気掛かりですといった思案顔。


連日同隊を騒がせた自身の研究成果、それこそが彼の人をここまで窮させているに違いない。安易だが凡そ確からしいその推測は我ながら愉快で、手元の酒がさらに美味くなるような心地がする。

飄々としたあの人を困らせるのは自身にとって、何であれ胸のすくことだった。


宴もたけなわというには未熟な時間に、やがて一連の思案に終止符を打った平子隊長が幹事を務める四席に中座を伝えるのが分かった。詫びる隊長はしかし直接出口には向かわずに、やをら徳利を机から取りあげた自分の元へとやって来る。


「惣右介、帰るで」


有無を言わさぬ目、隊長は時々そういう目をする。如何やらこの人の中で自身の帰路に私を随行させることは既に決定事項らしい。どんな意図かは分からない、実際大した理由もないのだろう。傍に立つ彼女はただ私を見ている。


私の魂胆というものを言外に咎めるような、透徹した温度のない瞳。それを何食わぬ顔で見つめ返す瞬間が私は存外好ましかった。


無言の牽制が私の何を貫くものか、どんなに賢しい格好をしたってあの人に謀計を止めることなど出来はしない。私はその滑稽を心の底から慈しんでいたし、道化の瞳が後悔と怒りに染まる瞬間を思う感情は正しく快楽というべき類のもので。



意図的に目を見開いて、それを即座に苦笑で塗り替える。たったそれだけで周囲は勝手に「放埒な隊長と苦労性な副官」の、お決まりの一幕を見出してくれるから。それが私の計画にどれだけ都合の良い誤想であることか。私に利する事をしてばかりのこの人が矢張り愉快で堪らなくて、半ば無理矢理退席を強いられる立場になろうと恨みに思わなかった。


立ち上がった私に隊長は顎をしゃくって付いて来るよう促す、素面であろうその足元に覚束ないところはない。


場の空気を損なわぬよう露骨な倦怠を表に出すことを慎んでいた隊長は、賑やかな会場を後にするなり眉を寄せ、此方を気にかけることもなく大路へとつかつか歩み出てしまう。


相手がどんなに性急な歩調でも、体格の違いから悠々と追い付けてしまうために問題ないのだが、そんな些細な事柄がいちいち優越感を刺激して困った。


この人の焦燥が手に取るように分かるのだ。


目撃回数を増す異常な虚。その結果押し寄せる隊務。何より一時も気を許すことの出来ない副官。

それらが平子真子を消耗させている事は明らかで。


軽薄さのヴェールを取り去って、その心の偽らざる素顔を拝むことを許された。いや、むしろ私こそがそれを余儀なくさせたのだと思えば、繕うことすらできなくなった素っ気ない態度も、心の底から可愛らしく憎らしいものと思えた。


何処かから陽気な俚び歌が聴こえる。路に軒を連ねる店店から溢れ出す喧騒と、不思議なほど人気のない大路が対照的で、目の前を歩く人物との間に降りる沈黙の帷が俄かに耐え難いもののように感ぜられてくる。


平子隊長が歩く。歩調に合わせて長い金糸が羽織の五の字を撫でる。しゃしゃらと音がするようだった。ふと懐かしいものが胸を掴む。



「隊長」


思わず呼び止めた。




「好きです」


ひょいと、飛び出た言葉だった。



真っ先に慌てたのは口に出した当人だったが、無防備な心から発せられた言葉は妙に腑に落ちて、成る程私はこの人に少なからぬ情を抱いているのだろうと認めざるを得ない。


思わぬところで自身の本心と対面してしまったことに肝が冷える。全く酒というものは侮れない、浮ついた気持ちを戒め戒め、それでも制しきれない好奇心がむらむら湧き立つのを感じる。今の言葉に相手がどんな反応を示すのか知りたがったのだ。


櫨の並木に沿って流れる川。その両岸を渡す橋に足を掛けたまま静止した隊長の顔は、影と髪とで伺うことができない。


真っ当に考えるのなら。

ただでさえ疲弊した状況の中、全く予期せぬ方向から食らった一撃のせいで更なる混乱へ突き落とされることとなったそも心境は、察するに余りある。


色も恋も煩わしいと切って捨てるような人だ。このような戯れを間に受けるとも思わないが、もし振り返ったこの人の顔面が動揺に彩られていたら、それはどんなに愉しい事だろう。



私から再度何か言って差し上げるべきだろうか、今ならどんな甘言も平然と吐けると思った。ただこの人を困らせたいという嗜虐心がいつも以上に顕著に、思考の表層へ引き摺り出されているようだった。



「惣右介」



口を開きかけたその時、固い声で名前を呼ばれハッとする。


いつの間にか此方へ向き直っていた隊長は、随分と剣呑な様子で私を睥睨して。




「しょーもない嘘吐くの、やめ」


「何がオモロくてそないなこと言うか知らんけどな、人の心はお前の玩具やない。次その趣味悪い遊びに付き合わそうとしてみぃ、はっ飛ばすで」



そう言ってまた、あの瞳で私を見る。そこに私が期待したような動揺はない。


「は、」


浮き立っていた心が墜落する。失態を演じた事実が眼前に突きつけられ、冷たく重く、じわじわと喉を下っていった。


嘘と断じられた告白は、確かに唐突で真剣味に欠けていただろう。でも、違うのだ。私の心にまるで真摯な部分がなかったというのは。

それが一から十まで私の悪意から出たものであると思われることが耐え難いほど苦痛で、だがどう否定していいのかも分からず心臓が跳ねる。


息を詰めた私に何を思ったか、眼光を緩めぬまま平時の酷薄な笑みを口元に貼り付けて隊長は。腰に挿した斬魄刀の柄を、まるで子供の頭に施すようにゆるゆると撫でている。





「なんや、寂しい男やなぁ」






それがどんな意味かなんて聞きたくなかった。








あの人は酷い人だ。


共に街を歩く時、副隊長として尽くす時間、レコードの流れる部屋でお茶を飲んだあの日。私は幾度となくあの人の前に真心というものを晒してみたことがある。私自身が信じきれない私の善性というものを、あの人が見出してくれることに期待して。


あの人は聡い。無数の偽りの中から、たった一つの誠を見つけることに、誰より長けた人だった。更に言うならば、疑うということより寧ろ、信じるということにその人品の根拠を置いているような人だった。だのにそれなのに、私にだけはいつも、悪意に生えたしっぽが現れるのを今かいまかと待っているような、残酷極まる態度を選ぶ。そのことに私が何度、失意の中人知れず傷ついたことか。あの人にどうして理解できよう。


今日の夜にしたって、あの人は私の告白に含まれた多大な好意を取り合う価値の無いものと断じた上で、そこに隠れたほんの少しの愉悦を殊更に取りあげ、それを私の本質だと罵った。

こんなに厭な人が他にいるだろうか。あの人の仕打ちは私が行なってきた数々の悪行より、よほど惨いものに思えた。しかしあの人を裁く法はない。世界はどこまでも歪で、私にはこの虐待から逃れ駆け込む場所も、訴え出る気勢すら、もはや無い。



殺そう。

あの人は死ななくてはいけない。


必死で堪えてきたのだ。歔欷の心を抑えて、今日まで忠実な副官のふりを、それこそ血の滲むような思いでやり遂げたのだ。もう我慢できない。二度と立ち上がれぬほどの傷痕が、もはや誰を信じることも敵わない、そんな裏切りが必要だった。


あの人を組み敷く自分を想像する。

それは吐き気を催す程の嫌悪感を伴いながら、藍染惣右介の矜持その一切を捩じ伏せて顧みない、暴力的な劣情そのものだった。身体の下であの人が身体を捩る、その眼はあの澄み切った節穴では無く、憎悪の激る生きた目だった。

私はきっとこの光景を現実のものにするだろう。確信は絶望の黒い染みになって胸中を汚す。




「惣右介」



しきりに降ってくる幻聴は、いつかあの人が親しみをこめて私を呼んだ時の響きを真似ていた。果たしてそんなことが実際にあったのかは、もうどうでもいい。




「惣右介」




私はあの人を殺すだろう、あの人の行いの報いとしてでなく、私がなすべき事を成す、それだけのために。




「惣右介」




あの人を消し、私が正した世界ではじめて、あの人を愛してなどいなかったと、なんの感慨もなく言えるようになるに違いないから。




「惣右介」




あの人は嘘つきだ。愚かで、取るに足らない存在だ。










ーーー そうすけ。






あゝ耳鳴りがうるさい。




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