モラトリアムの終点

モラトリアムの終点


橙子さんのこと死に戻りすら選択出来ないレベルの危機に陥れられる奴ってなんだよ

たぶんこの敵は例の輪っかの同郷のやつだと思います



意味がわからなかった。

こんなにも道理の通らない存在を見たのは初めてだった。

この星のものでは無い、さりとてこの宙のものとも言えない。

『どこか全く別の世界』から来たとしか思えないものがその一帯を支配していた。

逃げられない。離脱できない。この身体を捨てることすら出来ない。

ありとあらゆる手段を使いきった。

内にある切り札は封じられた。

魔力はもうとっくのとうに空だ。

そしておそらくこの身体を殺したとて、工房の人形が目覚めることは二度と無い。

目の前にあるものはそういうもので、絶望の具現化なぞと言われたら今の精神状態であれば納得してしまうだろう。

そしてなにより。

どうにかして自分は『逃げられた』として。

後ろにいる馬鹿は逃げられないだろう。

しくじった、と思う。こんなものと縁が出来てしまったことも。ここまでこの馬鹿に肩入れしていたことに今更ながら気づいたことも。

軋む顔面で自嘲する。さすがにここで終わりかもしれないとすら思う。


「なー、赤味噌ー」


……いつものように。本当に。ごく自然体な声が耳朶を打った。


「……なんだこんな時に!」

「おう。俺の名前さ、██████ってんだ」


今日の夕飯でも告げるように。

明日の予定でも告げるように。


なんでもないことのように、その馬鹿はそう言った。


「……は?」


さすがに呆気に取られて振り向く。

そいつは酷く穏やかな顔をしてそこにいた。

なんと言ったらいいか。慈悲、というものを人の顔の形に成型したならこんなかたちになるだろうと、そんな顔を。


とす、とす、と朝の道でも歩くように自然に。そいつは私の前に出た。


「おい、まて、何をする気だ」

「……『蒼崎橙子』!」


「『走れ!こいつの手が届かないようなところまで!こいつの目で見れないようなところまで!俺の姿が分からなくなるほど遠くまで一歩も止まらず走って逃げろ!』」


脳がその言葉の意味を認識する前に、身体がその神託に従う。

やめろ、と声をあげる意識を無視してくるりと反転した。

頭から命令が下される前に回路は勝手にもう無いはずの魔力を使い足を強化して走り出す。

『それ』に背を向けて。

あの大馬鹿者からも背を向けて。


遠く遠く。雷鳴が轟いて。それに紛れて、『じゃあな』と笑う声がした。



身体は走る。足がどこまでも動く。限界を超えて。腱は切れかけている。それでも止まらない。呼吸は浅いを通り越している。心臓が破れそうだ。それでも止まらない。

景色が変わる。

あんなにも変わらなかった景色が。

飛び越えられないはずの境界を超えて、『あれ』の領域から離れていく。

景色が変わる。

真っ暗な、何も見えない場所から。

元の、森へ。

そして。

急に足が止まって反動で派手に地面に激突した。


「はっ……はぁっ……は……はっ……」


息を整えることすら忘れて振り返る。


「っ……」


さっきまでいた空間は遥か遠く、最早見えず。

どうしたって出ることが適わなかったはずだったのに、事実自分だけはその場所から逃げおおせた。


「ぐ、っ……!」


今度は自分の意思で魔力を使う。

とっくに限界を超えている回路が悲鳴をあげるが知ったことか。


走る。走る。走る。

その場所まで。

もう何がしたいかすら分からないまま走る。

置いてきた。置いてきてしまったのだ。

あの大馬鹿を、あんな場所に。

息せき切って走る。

あの場所へ。

無理をしすぎて血管がちぎれた。目やら口やらから血を垂れ流していることすらどうでもいい。

早く。早く。

『あれ』と出会ってしまったところまで。

そうして。



そうして辿り着いたそこにはもう、『あれ』はいなかった。

空間は閉じられた。得体の知れない魔力の欠片だけを残して。

辺り一面に雷の跡、名残がぱちぱちと木を燃やしていた。

全てが燃やされたその中心に。

身に余る権能を使いすぎた代償、崩れかけの塩の柱が鎮座していた。




「あ………………」


呼ぼうとした。


「っ……!」


呼ぼうとした。名前を。最後に手渡されたその名前を。


「どうして……」


出てこなかった。名前が出てこなかった。とても、とても、きっとなにより大事にしなければいけないもののはずだったのに。塗りつぶされて、焼き焦がされて、もうわからなくなっていた。

代償は強く。対価は迅速に。

気づけば顔すらもうわからない。

消えて。消えて。そうしてただ一つ。

自分のことをふざけた渾名で呼ぶ、楽しげな声音だけが赦された。


「馬鹿。馬鹿じゃないのか」

「これじゃお前を、ただの『馬鹿』としか呼べないじゃないか……」




酷く泣きそうな声で言った彼女の顔を見るものは無く。

崩れかけの塩の柱は風に晒され光に照らされ流され溶けて消えてしまった。



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