メルゴーの乳母

メルゴーの乳母


「もうずっとここに居たらいいんじゃないか」

そう言ったローにおれは、馬鹿なこと言うもんじゃねえとか、そんな風に返した気がする。たしか、丁度あの湖の中の湖面で白い蜘蛛を狩る少し前の話だ。

あの夢で留守番を続けるローはそれきり一度も同じことを言わなかったが、おれは、ほんの一瞬、二人で一緒に歩む未来を夢に見た。


ガスコインの娘さんから渡されたあのオルゴールと同じ子守歌が、悪夢の塔の天辺に響いている。

砕かれた骨の上を音もなく駆けまわり、姿の見えない相手を追う。歪んだ隕鉄の刃がその背に広がる鴉羽を捉えて切り裂き、鳥葬の塔に黒い羽根が舞い散った。

赤子を守るかのように現れたその上位者は、悲しいほどにドジなおれを見かねてあれこれと世話を焼いてくれたあの鴉羽の師を思い起こさせる姿をしている。おれの動きが異邦人にしてはやけに狩人らしいと首を傾げたあの人は、最初にガスコインに狩りを教わったと伝えると少しの沈黙の後しっかりと頷いていた。

この手が振るう慈悲の刃も、兄にもらったファーコートにも似た鴉羽の装束も、おれが彼女から勝手に継いだものだ。

まず強く、血に酔わず、また仲間を狩るに尊厳を忘れない。

そんな狩人だけに託される鴉の証を、あの人はどうしたって自由だと言いながらおれに手渡してくれた。

そうしておれは、自分の意志で彼女の狩りを継いだのだ。

だから、今のおれは狩人だ。この悪夢を、惨劇の哀しい主を狩りに来た。

それなのに。

ここに来てからずっと、吐き気がやまない。

優しげな子守歌の隙間に、時折赤子の泣き声が漏れ出していた。

眩暈がするほどの悪寒の中で、狩人としてのおれはひたすらに消える姿を追い、鴉羽の上位者の腕に握られた三対の刃を避けてはその背を裂いた。

ぐるぐると脳の裏側を声が満たす。

どうして、どうして。この子を愛しているのに。

こんなに、こんなに愛しているのに。どうして奪うの?

「その子は、あんたの子じゃないだろ」

子守歌を遮る己の声に、能力が解けてるなと、他人事みたいに思った。

慈悲の名を持つ刃に胸を貫かれた腕がだらりと垂れ下がり、見えない首が天を仰ぐ。

脳を震わせる嘆きと共に、人ならぬ彼女はその遺志を残して消え去った。

温かいはずの遺志に包まれながら、止まらない震えにたまらずその場に蹲る。北の海の雪に覆われた日ですら寒さを感じない体は、血が全て凍り付いたようにひどく冷えきっていた。

あれは、おれだった。

おれも、あの有様だったんだ。

安心して愛せる誰かを、最初から存在するはずもない何者かを探し求めて縛り付け、その結果がこのザマだ。

夢でおれの帰りを待つあいつの家族は、政府に見捨てられとうに死んでいる。

ロー、おれはお前と出会うずっと前から海兵だった。

世間様の言う所の政府の犬だ。でもこの夜までは、それがおれの生き方だった。

この街では治す手立てのない獣の病にかかった人たちを、火で炙って、銃で撃って、刃物で切り裂いてきた。

おまえの故郷を滅ぼした者たちと同じように。

沢山の嘘の上でだけ、おれはローの隣にいることができた。

嘘を積み重ねる度に、優しげな悪夢の夜は長く長く延びていった。

あいつを、自由にしてやらなければ。

死の宿痾から、終わりのない夢から、そして、このおれから。

病気を治すやり方には、一つだけ心当たりがある。

"進化"をもたらす3本目の2本目を、おれはたった今手にした。

あと、一本。その間だけ、どうかおれに足掻かせてくれ。

撒かれた遺骨の上に手をつき、悲鳴を上げる頭を起こす。手袋の下で、軽い骨が小さく音を立てて砕けた。

母を見つけた赤子の笑い声で、優しげな子守歌はもう途切れていた。





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