ミオリネとスレッタと三人の話
ふにゃふにゃしている。温かくって柔らかくって、骨がある生き物とはとても思えない。まるで軟体動物のようだ。力を入れれば壊れてしまいそうだし、力を入れなければするりと自分の腕から滑り落ちそうな気がする。
……というのが第一にミオリネが抱いた感想である。腕の中の赤子は居心地が悪いのかぐにぐに動き、泣きはしないものの、眉を顰めてう、と小さく声をあげ、その不満を訴えるかのように小さな手で掴んでいる音が鳴る玩具をシャカシャカと鳴らしている。それと一緒に足を忙しなくバタバタとさせており、将来活発な子になる予感しかしない。
あまりにもグエルが簡単に抱っこしているから、こんなの楽勝よ、と思っていたのが間違いだった。怖い。壊しそう。さっさと返したい…と思うが、こんなに早くこの子供を返すわけにもいかず、恐る恐る手の位置を変えてみたり、抱え方を変えてみたり落とさないように細心の注意を払いながら試行錯誤を重ねる。
いや、実際の所は「落としたら殺す。何かあっても殺す」といった表情を浮かべたラウダが、ミオリネの目の前に立ち、何かあったら早急に対処できるよう、ミオリネの手に触れそうなほど近くに手の平を広げてスタンバイしているので、落とすことはない。落とすことはないのだが、腕の中にいる小さな命に何かあるのが怖い。ミオリネの体に緊張が走る。
ラウダのせいで顔は見えなくとも体が強張っているのが分かるのか、そんなに緊張しなくても大丈夫だぞ、とグエルの笑い声が聞こえてくるが、こっちはこの小さな命と、自分の命が掛かっているわけで緊張しないわけがない。たぶんラウダが背を向けているせいで、グエルとしては「ラウダは心配性だなぁ」と軽く捉えている可能性があるが、この冷たい顔を見て欲しい。抱っこ紐を身に付け、大きな荷物を肩に掛けているラウダの表情には、赤子に向ける慈しみの愛情と、確かな殺意が満ちている。何かあったら間違いなく殺される気がする。
「ああ~~か、可愛いです~!」
こちらもラウダの表情に気付いていないのか、隣にいるスレッタが呑気な声をあげる。ミオリネの腕の中にいる赤子の体みたいに、ふにゃふにゃと芯のない声をだして、ち、ち、小さいです!わわっ、手、手が………!あ、あ~か、可愛い………!と何度も何度も飽きることなく「小さい」「可愛い」を繰り返している…が、ミオリネにもその気持ちは痛いほど分かる。
弟や妹、周囲に小さな子供がいなかったせいで、こんなに間近に赤子を見るのは初めてだが、如何せんめちゃくちゃ可愛い。抱っこさえしてなければ、スレッタのように気の抜けた声を出している。
ふくふくとした丸くて柔らかそうなピンク色の頬。小さな手。足。母親の前髪とお揃いの薄いピンク色の服から覗く、ぎゅっと拳を握っている手は同じ人間とは思えない愛らしさがあり、視界に入る度に心がときめく。むぐむぐと動かしている唇は体から力が抜けそうなほど可愛い。長い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳は目に見える全てが面白いらしくきょろきょろと忙しなく動いており、時たま親を探すように小さな手が宙を掻くのはちょっと心が痛い。
我慢出来なかったのか、角度を変えて赤子の顔を覗き込んだり、手を見て、はわわ…と感じ入った声をあげていたスレッタの指が、つん、とピンクに色づいた赤子の頬に触れる。
ず、ずるい…!私だってしたいのに…!我慢してんのよ、こっちは!と声をあげそうになったのをぐっと堪えて、頬を触られた赤子を見ると、きょとんとした表情を浮かべてじっとスレッタを見ている。
や、ややわらかいです!可愛いです、本当に可愛い………さすがグエルさんのお子さんですね、と目を細めて笑うスレッタが、赤子の頭を優しくなでる。すると居心地が悪そうにしていた赤子が目を細めて笑い、手に持っていた玩具を、うっ!と小さく声をあげながらスレッタのほうに差し出した。
実際のところ、ただ手を伸ばしただけなのだろうが、スレッタは「あっ、くれるんですか?ありがとうございます!」と受け取り、ラウダの眉間には深い谷がびきっと刻まれ、ミオリネはスレッタばかりずるい、とちょっと嫉妬した。
水星女ァ…勝手に触るな、と注意すべきか、赤子が喜んでいるのでそもままほっとくか悩んでいるらしく、ちらりとミオリネが見上げたラウダの顔は色んな表情が渦巻いている。
嫌そうに顔を歪めたかと思えば、赤子の顔を見て頬を綻ばせ、目を細めて柔らかい表情を浮かべる。愛しくて愛しくてたまらないって顔だ。見ているこっちがくすぐったい気持ちになってくる。
こんな顔出来たのね、と余りにも穏やかな顔に感心したが、その視線がスレッタの方を向くと、グルル…と威嚇する犬を思わせる表情を浮かべているので、ちょっと安心した。たぶん玩具を渡されたスレッタに嫉妬している気がする。
そんなラウダの表情に気付くことなく、玩具を小さく振りながら、スレッタはミオリネに抱かれている赤子を顔をじっと見て、あ、と声をあげた。
「瞳の色、グ、グエルさんとは違うんですね。薄い茶で…琥珀色、って言うんですか?綺麗な色ですね」
スレッタ以外の三人にぎくっと衝撃が走る。三人の表情が強張ったことにも、ミオリネが赤子を抱く力が強まったことも分からないスレッタは、あれ、と声をあげながら顔を近づける。
「グエルさんにも勿論似ていますけど……この瞳の色とこの顔……私、何処かで……」
スレッタがそう言って首を傾げた瞬間、素早く、そして勢いよくラウダが顔を背け、同時にグエルとミオリネが、あーーーっ!!と、今気付きました!と言った白々しい声をあげた。
「ス、スス、スレッタ!ほら、あれ!あれよ!あれ持ってきて!トマト!渡そうと思ってたトマトよ!」
「ス、スレッタ・マーキュリー!ミオリネ!紅茶は好きか!?皆が来るまでお茶でも飲まないか!?」
明らかに様子のおかしい三人ではあったが、うまくスレッタの頭の中を誘導出来たらしく、スレッタの背筋がぴんと伸びて、玩具を近くに置く。
一瞬スレッタの脳裏に「あれ?トマトはサプライズってミオリネさんさっき言ってたような…?」という考えが瞬いたが、そんな考えが焦ったミオリネの頭からは消えているなんてことは勿論知らない。まぁ、ミオリネさんが言うなら、もう良いってことなのかな、と結論付けて、「す、すぐに取ってきます!」と走り出す……視界の端で、ぎこちない顔をしたミオリネが、こちらもまたぎこちない顔をしたグエルに赤子を渡して、グエルがさっと赤子の顔を隠すように抱えたことも、なぜだか顔を逸らして頑なに顔を見せないラウダに首を傾げたが、些細な話である。トマトを取るべく数メートル走り出したところで、無事スレッタの頭からはそんなことは消えた…
そんなスレッタの後ろ姿を三人で眺め、ふーっと揃って息を吐く。心からの安堵の息だった。
「もうちょっとグエルに似た方が良かったんじゃない」
両親の顔の特徴をちょうど半々受け継いだ顔だと思ったが、少しばかり父親の方を強く受け継いでいる気がする。
ミオリネだって可愛らしい子供の顔に意見なんて言いたくはないし、別に父似でまずいことはないのだが、この子供の場合は如何せん出生があまりに特殊すぎる……夫婦とまだ名乗れない今、父が誰なのかは勘づかれない方が良いに決まっている。
グエルもそんなことは分かっているだろうが、気にした様子はなかった。良いだろ?と一度ミオリネに向かって誇らしげに微笑んだ後、抱えた赤子を頬ずりするように顔を近づけた。きゃぁ、と嬉しそうな声をあげて、小さな赤子の手がグエルの顔に触れる。
ぺたぺたと小さな手が母親の存在を確かめるよう撫で、きゃっきゃと楽しそうな声をあげて笑っている。ミオリネに抱っこされて良かったなぁ、また抱っこしてもらおうな、と優しくて甘やかな声で赤子に話しかけて、理解はしてないだろうが赤子が笑い、手と足とをばたばたさせて反応している…とにかくお母さんと話せて楽しいといった感情が伝わってきて、思わずミオリネの頬が綻んだ。やはり愛してくれる親の腕の中が一番良いに決まっている。
赤子に向ける慈しみの表情も、穏やかな声も、ミオリネの中にあるグエル・ジェタークとは結びつかなくて、ラウダの時と同じくこんな顔も出来たのね、と素直に驚いた。二人が赤子に向ける表情の柔らかさ、触れる手の優しさ、慈しみに溢れた眼差しといい、この空間は幸せに充ちていてミオリネの方がほんわかと暖かな気持ちになってくる。
ゆらゆらと赤子を揺らして子供をあやし、関係がばれているミオリネの前だからか、遠慮無くラウダはグエルにぴったりと寄り添って二人で子供の顔を眺めている。赤子の手が親を求めるように宙に伸びて、差し出されたラウダの指を掴んだ。
ラウダがその指を揺らすと、赤子が甲高い声をあげる。赤子とお揃いの琥珀色の瞳が柔くて優しい色を灯しているのが見え、赤子の楽しそうな声が聞こえる。
たぶんこの3人が行く先は決して楽ではないだろう。片親の違うきょうだい達の結婚を可能とする制度を作る動きはある。けど、まだだ。出生の複雑さ故に、世間からこの赤子を隠す必要もあるし、勿論ラウダとグエルの関係が漏れるようなことがあってはいけない。
あんな厄介極まりないものを押し付けられ、今も保管しているミオリネとしては、今日1回くらい小言を言ってやろうと思っていた。
あの謎の贈り物から二人が無事に何処かのフロントに辿り着けたのは分かる。それは心底安堵したのだが、それでもめちゃくちゃ心配したのだ。いつジェターク社によって捕まって連れ戻されるか気が気ではなく、この数ヶ月とてもはらはらしていた……そして全く何の報せもなく、学園でラウダを見つけて叫びそうな位驚いた。いや、叫びまではしなかったけど、横にいるスレッタがちょっとびっくりする位には大きな声を出した…何でここにいるのよ!と声をあげるミオリネを見て一言。帰ってきた。姉さんも一緒に…そんなことをさらりと言われたのだ。
結果として共犯者に近い存在になったのだから、もっと早めに知らせてくれても良かったんじゃないか、こっちはすごく心配してたのよ、一応……と胸にモヤモヤを抱え、次に声が掛かったのが今日である。少し位文句を言っても許されるんじゃないだろうか…と思っていたのだが、今日この風景を見て怒る気も失せた。
子を愛す親がいて、親に愛されている子供がいる。二人の赤子を眺める穏やかな目と、親を求める赤子を見れば胸にあった靄もすっかりと消えてしまった。
静かに目を伏せ、息を吐く。この3人の行く先が少しでも幸せであるように、と小さくミオリネは祈った。
三人に近づき、さっきは頑張って必死に耐えていた欲求に抗えずグエルに抱っこされている赤子のふくふくと丸い頬をつん、と突っつく。さっきと同じくきょとんとした表情で、琥珀色の瞳がミオリネに向けられて、か、可愛い………と心の底から思った。
スレッタが置いていった玩具を手にとって音を鳴らすと、機嫌が良さそうに目を細めて笑っている。
それ、今一番気に入っている玩具なんだ、とグエルに言われ、そう言えば玩具やら服の手土産があった方がいいんじゃないかと今更気付いた…何せ赤ん坊に触れる機会も、赤ん坊を持つ人間に会う機会もなかった為、そんな所まで気が回らなかった。
素直にそのことを告げれば、グエルが慌てたように首を振る。大丈夫だ、もう十分にあるんだ。本当に、と本気で焦っているように見えて思わず首を傾げた。
「玩具も服も、1ヶ月毎日新しいものをおろせる位にはある」
今日は偶然母親とお揃いの薄いピンク色の服を着ているだけで、青、黄色、緑、白、マゼンタ…等々様々な服の色と種類が揃っているらしい。玩具も気分で選び、最近はこの玩具が特にお気に入りなんだそうだ。
グエルが少し照れくさそうに笑っているのを見て、ああ、そういうこと、とミオリネは納得すると共に、安心した。どうやらこの子供は、親だけじゃなくて祖父にも愛されているらしい。
ラウダの威嚇する視線を感じつつ、ぷに、ともう一度子の頬を突っつく。幸せ者ね、と小さく囁けば、声をあげて赤子が笑った。