マグニフィコのそれから
54
「出せ! 出せ! ここから出せ! 恩知らずども!」
閉じ込められてから、一体何年経ったのだろう。
薄暗く、狭く、埃っぽい地下牢の中、しかしそれは問題ではない。
問題なのは鏡だ。現実世界と隔てられた、どうにもならない牢獄。
ここに入れられてしばらくの間は牢番もおり、延々と文句を吐き続けていたが、いつしか牢番もいなくなった。
まず逃げられる心配はなく、どういう仕組みか食事も排泄も必要としない囚人に、人をつけておく必要性がないという判断だろう。
誰もいない中で、それでも叫び続けているのは、何か喋りでもしていないと次第に自分という存在が消えてしまいそうだったからだ。昼か夜かもわからないこの地下牢でたった一人、自我の消滅を待つのはごめんだった。
「出せ! 無礼者め! 私を誰だと思っている!」
外の世界はどうなっているのか。王妃はどうなったか。国民はどうしているのか。あの小生意気な小娘は何をやっているのか。
正直、期待などもうしていなかった。
カツン
実際のところ……どんなに出せと言ったところで、外側の人間の意思にかかわらず『鏡の中から出す方法』などないということを、囚人も悟らざるを得なかった。
カツン
世界有数の大魔法使いから魔法を学んだ彼だからこそ、この鏡の封印を凡人に解くことなどできないと、よく理解できてしまった。
それでも出せと叫ぶのは、ただ他にやることが無いからでしかない。
「私は……ロサスの王、マグニフィコだぞ!」
「知っているよ。マグニフィコ」
………。
………?
!?
「誰だ!?」
何も期待していなかったから、まったく気づきもしなかった。
先ほどから鳴っていたのは、足音ではなかったか?
そして今の声は、自分のものではない!
「誰、とはな。よもやこの儂まで忘れたわけではあるまいな」
「………あ、ああ、貴方は!」
「ようやく気が付いたか……我が弟子よ」
マグニフィコの鏡の前に立っていた者の名は、イェン・シッド。
マグニフィコの魔法の師に他ならなかった。
「まったく、哀れな姿になったものだ。かつて教えたであろうに、『魔法でつくったものは脆く壊れやすい』と。魔法に頼った国は、どこかで無理がくる」
「ああ……ああ……師よ……」
ため息をつくイェン・シッドに対し、マグニフィコは様々な疑問を抱く。
いつ自分の現状を知ったのか。なぜここに来たのか。なぜ今来たのか。
だが何よりマグニフィコは自分にとって重大なことを口にした。
「だ、出してください! 我が師よ! 貴方の力なら出せるでしょう! 私をこの鏡から出してください!」
海を割り、世界を創り上げるほどの最高最大の魔法使いであれば、自分を解放できる。
歓喜と共に願ったマグニフィコに、
「……残念ながら、できない」
絶望の返答がなされた。
「なっ……?」
「お前をその鏡に封印しているのは、お前自身の魔法だ。お前の他者を己の手中に閉じ込めたいという支配欲が、お前自身に跳ね返され、お前自身を閉じ込めている。お前の魔法を無理に破れば……お前自身が破壊されてしまう」
その無情な言葉に、最も信頼できる人物の言葉に、マグニフィコの頭は真っ白になる。
「そんな……う……嘘だ」
「もし、お前が鏡から解放されるとしたら、お前が支配欲を捨てたとき。お前が新しいお前に生まれ変わったときだ」
「嘘だ……嘘だ! 嘘だ! 嘘を言っている! 貴方は、貴方も私を裏切るんだ! 奴らと同じように、私を見捨てるんだ!」
マグニフィコは激昂して叫び散らす。悪夢の真実から目をそらすために。
そんなかつての弟子を、イェン・シッドは哀しく見つめ、
「お前をそこから出せるのはお前自身だけだ。お前を縛っているのは、ロサスの民でも、願い星でもない。お前が、人々を助ける中でいつしか抱いてしまった『他人を助ける力を持った自分は、他人より偉大である』という傲慢、『偉大な自分は、他人より正しい』という独善……。ある意味、最も恐ろしいのはそれなのだ。善人が悪に堕ちるときの速さは、ときに光よりも速い……」
マグニフィコは悪人ではなかった。他人を見下すところはあったが、傷つけてやろうなどという邪気はなかったはずだ。だが、ほんの一時、良心の歯止めが効かなくなったがゆえに、悪に囚われてしまった。
「世に生きる他の悪人たちと比べれば、ごく小さな……しかし、お前の人生にとって最も大きな障害となった、その悪感情を乗り越えることができた時……お前は解放されるだろう」
「黙れ! 黙れ! 老いぼれめ! 裏切者め!」
イェン・シッドはマグニフィコの悪態に怒ることもなく、腕を振るった。
すると、鏡の中のマグニフィコの首がかすかに光り、今までになかった首飾りが現れる。
「? な、なんだ、これは?」
「わからんのか?」
イェン・シッドは深くため息をついた。
「幸運のお守りだ。儂からお前にできるのは、『お前を変える幸運な出会い』を祈ることだけだ」
人を変えるには、誰か他の人間と触れ合ったときが最も効果があることを、イェン・シッドは知っていた。
「ふ、ふざけるな! こんなものが何になると……! わかったぞ、貴様は魔法使いとして、私が貴様を超えるのが怖いのだろう! 私に嫉妬しているのだ! この老害め! 無能め!」
「あまりそういうことを言うものではない……心を入れ替えた時、恥じ入ることになるのはお前自身だぞ?」
邪悪な緑色の魔力光を迸らせるマグニフィコに対し、イェン・シッドはそんな言葉をかけて地下牢から去っていった。
「クソ! クソ! なにがお守りだ! ボケ老人め! くっ、外れない……!」
金色の細い鎖には魔法がかかっているのか、ちぎれもしないし、首から外すこともできない。マグニフィコは、鎖につながった『フワフワした幸運のお守り』を憎々し気に睨みつけるしかできなかった。
お守りが、かすかに暖かく、小さく脈打っていることに気づくこともなく。
◆
「……どうでしたか、先生」
帰りを待っていた、イェン・シッドのもう一人の弟子が、弟弟子のことを聞こうとする。
「大分まいってしまっているようだ。あやつの良かったところが見る影もない。まったく、手を焼かせる」
「……なんとかなりますか?」
心配でたまらない様子の小さなネズミに、偉大な魔法使いは答える。
「あやつだけでは無理だが……幸運に恵まれれば、な」
そんな言葉にネズミは、
「ああ……じゃあ安心だ!」
笑顔になった。
イェン・シッドもまったく同感だった。
「そうとも、心配することはない」
マグニフィコの首にかけてやった『幸運のお守り』のことを想う。
黒い『ウサギの足』。
幸運を呼ぶ有名なラッキーアイテム。
中でもあれは『とびきり』だ。
「『どんなときも最高にツイてる』のがあいつだからな」
いつか時が流れ、地下牢の鏡のもとに誰かがやってくるだろう。そのとき、マグニフィコの時間は再び動き始める。それが運命というものだ。
どれだけ時間がかかるかはわからないが、必ず戻ってくる。
いつか取り返せる。
マグニフィコはまだ気づいていないが、ヒーローがすでに傍についているのだ。
「さて、いつまでも話はしていられない。待っている間も、するべきことは山ほどあるのだ」
「はい!」
まったく元気よく返事をするが、このネズミだって放っておいたらどんな失敗をしでかすかわからないのだ。しばらくリーダー不在のウェイストランドの世話も、してやらなくてはいけない。
「まったく誰も彼も……手を焼かせる」
イェン・シッドは珍しく、その厳めしい顔に笑顔をつくった。
いつか二番弟子が、今日の醜態を謝るときの情けない顔を想像しながら。
きっとラッキー。
ずっとハッピー。
fin.