マグニフィコのいつか
54私、マグニフィコにも若く未熟な時代はあった。
あの頃、私の人生に影響を与えた人物を数えてみると、第一にあがるのはやはり偉大なる魔法使い、イェン・シッド師である。圧倒的な魔法力、天にも届く知識、底無き思慮深さ。今でも学べば学ぶほど、師との差を思い知らされる。
次に、我が兄弟子。名はミッキー・マウス。正直に言えば、失礼ながら魔法の腕や才能はそれほどではなかった。魔法において私が彼を追い抜くのに、それほど時間はかからなかった。
しかし彼は、弟弟子に追い抜かれても、さほど嫉妬することなく賞賛してくれた。短慮や注意散漫など欠点は多くあったが、それ以上に勇敢で、優しく、朗らかで、失敗にもめげることなく、常に前を向いていた。小さな体に多くの美徳をギュウギュウに詰め込んだ、尊敬できる兄弟子だった。
そして……もう一人。決して長い付き合いではない、短い時間話した程度の相手であったが、忘れられない人物がいる。
それは、師に私の願いを話した時のこと。
『願いを叶えられずに苦しんでいる人を救う』という願い。弟子であることを卒業したら、いつかその願いを叶えると。
私は師から褒められることを期待していたが、師はいつもの厳しい顔を更にしかめて言った。
「他人の願いに手を出すことは、とても難しいことだぞ。確実な正解というものは、無い道だ。どれほど魔法の腕を磨いても……叶えられない願いはある。そのとき、どうする?」
その難点は私も考えていたので、すぐに答えられた。
『忘れさせる』と。『叶えられない辛い願いなら、忘れた方が心軽くなる』と。
そう、私の心の奥底に眠る、願いのように。決して叶わない、優しき故郷に帰る願いのように。
「……なるほどな」
師はそう言ったものの、納得したようには見えなかった。少なからず失望した私に、師は立ち上がって言った。
「ついてくるがいい」
歩く師についていくと、師は、自分の部屋の鏡の前で立ち止まった。
そこで師は魔力を込めて腕を振るった後、鏡に手を触れる。すると手は鏡にはじかれることなく、水に沈むように突き抜けていった。
「行くぞ」
驚いたものの、冷静な師の声に促され、私は師の後について、自分の体を鏡に突っ込ませた。そして私が見たのは、『鏡の向こう側の世界』だった。
『鏡の世界』。
上位の魔法現象の一つとして話は聞いていたが、体感するのは初めてだった。
唖然とする私に、師はあるものを指し示した。鏡のこちら側の師の部屋には、あちら側には無いものがあった。
大きなテーブルの上に置かれた模型。ミニチュアの町。細部まで作り込まれた、小さな建物が並ぶ、見事なジオラマ。まるで本物をそのまま縮めたような。
師は、惚れ惚れと見つめる私の手を握ると、その模型に手を伸ばした。
次の瞬間、私は魔法の流れに包まれ――気が付いた時には、『町の中』にいた。
町の建物には見覚えがあった。先ほど見ていたジオラマそっくりだ。
「ここは『ウェイストランド』。私が創り出した世界だ」
師の言葉が耳に入ったが、頭で理解するのには数秒を必要とした。
『ウェイストランド』
『私が創り出した世界』
『創り出した世界』!
なんと、師は世界を創ったというのだ!
魔法とはそこまでのことができるのか!
我が師はそれほどのことができるのか!
驚愕と、感嘆と、師への尊敬の念で打ちのめされた私に、師は何事でもない風に言った。
「そこまで便利なものではない。魔法でつくったものは繊細で、壊れやすい。少しのことで大きな影響を受ける、ガラスのような脆い世界だ。現実に根差したものの方が、本来は良い。しかし……創る必要があったのでな」
師は歩き始めた。慌ててついていく私は、街並みを見ると共に、そこに人が住んでいることを知った。
師の姿を見つけて、嬉し気に挨拶をしてくる人々。現実世界と変わらない、いやもっと平和に過ごしているように見えた。
「ここは……『もう見てもらえない、もう愛されない、出番を終えた者たちの世界』だ。私たちの世界に、いられなくなった者たちのための世界だ」
しかし、師の説明は酷く悲しいものだった。
見てもらえない?
愛されない?
あんなにも生き生きとした、魅力ある人々が?
朗らかな馬のホーレス・ホースカラー。
魅惑的な仕草の牛のクララベル。
飛行機乗りの小鬼グレムリン・ガス。
可愛らしい猫のオルテンシア。
私に挨拶を交わしてくれる彼らに、もう出番が無いだなんて!
「マグニフィコよ。お前の願いを、私は賛同しないが否定もしない。価値観は移り変わり、とどまらないものだ。善となるか悪となるか、それは私が決められることではない。師として私ができることは……お前の視野を、できるだけ広くしてやることくらいだ」
やがて、私たちは目的地にたどり着いた。
成人男性の銅像の前。その男性の像の左手は、小さなウサギと手をつないでいる。そして、もう一方の右手、こちらは銅の質感からして後で付け加えられたものらしく……小さなネズミと手をつないでいた。
そのネズミに、私は見覚えがあった。
「ミッキー?」
我が兄弟子、ミッキー・マウスに他ならなかった。
「なんだい? ミッキーの友達かい?」
新たな声がかかった。姿を現したのは、銅像のウサギとそっくりな、小さな黒ウサギだった。
初めて出会ったはずのそのウサギを見たとき、私は既視感を抱いた。
「久しぶりだね、ミスター・イェン・シッド! 彼は?」
「ああ、久しぶりだ。彼は私の二番弟子、マグニフィコだ」
よく似ていたのだ。
溢れんばかりに快活で、優しさを伴った眼差し。一言でいえばヒーローのよう。
それはまるで鏡写しのように、兄弟のように、ミッキー・マウスによく似ていた。
「マグニフィコ。お前が『忘れた方が幸せ』と思うなら、『忘れられる方』のことも知っておくといい……紹介しよう」
師が、彼の名を言う前に、ウサギの方から自ら名乗った。
世界から忘れられた彼。
私がずっと忘れられない彼。
「僕はオズワルド。オズワルド・ザ・ラッキー・ラビットだ。よろしく、マグニフィコ!」