ポイズンフレーバー

ポイズンフレーバー



「痛いのはお嫌い?」

ソファに腰をかけた彼女を見下ろしながらそう言えば、僅かに顔を上げた小さな動きによって、桃色の髪の隙間からこちらを窺う瞳がちらりと見えた。それが妙に気に障って、顎に指をかけ、無理矢理にでも見上げさせる。

「素直にできるなら痛くしないわ。そもそもあんたは痛めつけるだけでも一苦労なのよ。私の手を煩わせないで」

私の言葉に間髪入れずにこくりと頷いた姿に思わず笑みが零れた。

「反抗的なあのときと違って随分従順ね。言うことを聞けるいい子は好きよ」

“好き”の単語に反応してぴくりと肩を揺らし、口元を緩めた彼女の妖艶さと言ったら。こちらが一瞬でも気を抜けば、途端に飲み込まれてしまいそうな魔力が彼女にはあった。

その魔性から目を逸らすように、顎にかけていた指でするすると頬を撫でる。

「怖かった事、悲しい思い出、忘れたい過去。あなたの嫌な記憶、私なら全部貼り替えてあげられるわ。ほら、早く欲しくてたまらないんでしょお姉さま?」

わざとらしいくらい甘く囁いて、優しく頬に触れてやれば、熱を孕んだ瞳はとろりと蕩けて細くなる。そっと手にすり寄ってきた表情は恍惚としていて、私から与えられる快楽を今か今かと待ちわびていた。

ああ、やっぱり気に入らない。

「ねえ、私に記憶弄られるってどういうことか分かってんの? 自分のことですら何が正しいのか信じられなくなるのよ。ああ、でもあんたはそれがいいんだっけ? だからこんなにはしたない真似までするのね」

このへんたい。

ママお気に入りの演技力すら使い物にならなくて、感情を隠すこともできずに罵倒にして彼女に浴びせる。彼女がそれを悦ぶと知った上で。

罵られた彼女はほのかに赤い頬をさらに上気させて、期待に目を潤ませた。

「アハハハ、本当に無様ね。なあにその顔? そんな簡単に全てを弄らせて、取り返しがつかないくらいぐっちゃぐちゃにされても知らないわよ。それとも、元々それを期待してたのかしら?」

嘲りの言葉は澱みなく続く。私の発したその一つひとつにさえ彼女が大袈裟に反応を返すものだから、やりたくないはずなのに次から次へと止まらなかった。

そうやって言葉を選ばないままに彼女への苛虐を吐き出していけば、熱に浮かされた彼女はまるで酔い痴れでもしたかのようにうっとりとした顔で貪欲に私を求める。

もうこれ以上は私のほうが耐えられなくなりそうだ。

「いいわ、あんたにご褒美をあげる。今日の私はすっごく機嫌がいいの」

焦らすように側頭部に手を当てると彼女の期待はより一層色を濃くした。小さく漏れた声は興奮と期待で少し掠れていている。

場所を探るみたいに指先で何度か軽くつつく。その度にまた甘い声が漏れて、自分の口角が歪むのが分かった。

「ここ、でしょう?」

最後に少しだけ力を入れて、人差し指と中指で頭蓋骨の形を確かめるようになぞってやれば、彼女は身体をびくびくさせながら声にならない声で悶えた。

その反応に満足して、やっと能力を使ってやる。

「ほら、狂ってみせて」

ずぶり、と奇妙な音が部屋に響いた。




記憶を弄られたせいで、力が抜けて倒れた体を抱きとめ、そっとベッドに寝かせる。彼女に拘束なんてとっくに必要のないものだった。

ゆっくりとため息を吐く。機嫌が良いわけがない。自己嫌悪で頭がどうにかなってしまいそうだ。

穏やかに眠る彼女を起こさないように小さな声でそっと囁く。

「レイジュ……さん」

ほら、あなたの名前すらろくに呼べないのよ私。同じ名前を呼べないことでも、きっとそれはあの人とは違う理由でしょうね。


私に何度も弄られたあなたの記憶は自分でも何一つ信用できないはずなのに、あなたは何度だってその身を差し出す。

そこにあるのは私への信頼か、私の“罪悪感”への信頼か。それとも、そんなことすらどうでもいいと思ってしまうほど記憶の快楽とやらに溺れてしまったのか。そのどれもが少しずつ間違っている気がした。


眠る彼女をベッドの横に座ってぼんやりと見つめる。

いっそのこと、この行為に関する記憶を全て弄ってしまおうか。

一瞬、くだらない考えが頭を過ぎる。決して出来ないことではない。しかし、実行に移すにはあまりにもリスクが大きい。うまく整合性を取れる自信もない。少し記憶弄るだけでは足りないほど、私たちは時を重ねてしまった。

それに、初めての記憶はもう二度と触れられない。それは目を背けたくなるほど私の罪の形をしている。

小さく呼吸をする彼女の柔らかに見える頬を再び撫でた。

ねえ、あの日私は、あなたの目の前であなたの大切な弟を、私の大好きなあの人を散々馬鹿にしたのよ。

今日だって、あなたに向けた全てが演技だったわけじゃないの。例えほんの一欠片だけだったとしても醜い怪物が確かにそこにいて、その愚かさを見せつけられるようだった。

この歪んだ関係の始まりは間違いなく私だ。私があなたを歪めて、それに流されるように私まで歪んでいった。

頬を撫でた指で、今度はするりと血色の良い唇をなぞる。

この行為からも眠りからも彼女を目醒めさせることは私にはできない。その資格すらない。

いつか彼女の王子様が現れて、三つ目のバケモノからお姫さまを救ってくれたら。この願いに嘘は一つもないのに、口に出せば、心のどこかが澱むようで一人抱えることしかできない。


眠り姫へのキスはポイズンフレーバー。

──まあ一度も確かめられたことなんてないのだけれど。




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