ホワイトモンスター
”それ"を見た瞬間、思考を飛び越え恐怖に体が突き動かされた。
「わ!!しんだ!!」
「鉄山につっこんだだすやん!!」
耳鳴りの外側で子どもたちの驚く声が鳴っている。海の匂いに混じったほのかな甘い残り香が、多幸感で脳を痺れさせた。
何だ、今のは。
身を投げ出して浸っていたくなるような感覚に、海兵として培ってきた全てが危険信号を発している。悪魔を身に宿したその日、青い海に足を浸した時のように。
「コラさんが燃えてる!!」
指摘されてようやくライターの火がファーを焼いていることに気が付いた。いつの間にタバコを吸おうとしていたのかすら定かじゃないが、身を焦がす痛みでようやく体が全ての感覚を取り戻す。座りそこねたソファーごとひっくり返っても、立ち上がる気力も湧かなかった。
眠りを誘うような心地よさと腹の中をかき回されたような吐き気を堪えながら、逆さまのままアジトの石壁を眺める。何だったのだろうか、あれは。
その後おれが"それ"の正体を知ったのは、ローという名前らしい子どもを、見かねたベビーが鉄山から引っ張り出してアジトに連れ戻してきた時だった。
肌を覆う白が目に付くその子どもは、死病を抱えているという割には鉄山に落ちても元気だった。
反射的に手を上げてしまったことへの自己嫌悪に、拭えない不信感が混ざり込む。病気で余命も僅かの子どもにあんな暴挙を、と冷静に自己を非難する倫理を、決して信用するなと言い募る感覚が端から食い潰していた。
元々おれは子どもが苦手だ。周囲には子ども嫌いと思われていてそれを訂正する気もないが、感情的な好悪とは別の所に原因があることは自覚していた。懸命に命を消費する彼らの意志は、血に流れる悪性を呼び起こす。
とはいえあの、ローという子どもに感じるそれは原因を異にしているのも間違えようがない。甘い誘惑のおそろしさを叩き込まれてきた脳が、"それ"に近づくことを一切拒絶していた。
そんな正体不明の嫌悪感を抱えたまま子どもの観察を続けてしばらくの後、気付いたことがあった。
兄は、あの子どもをいたく気に入っている。
病で寿命も僅かというのに、捨て駒としてではなく幹部としての教育を施すほどに。
天上に暮らしたその頃から、兄にはひととは違う世界が見えていた。
兄以外には見えも聞こえもしないナニカは常に正しく存在していて、それはおそらく、常人には想像することさえ叶わない"世界の本当の姿"と呼べるようなものなのだとおれは勝手に考えていた。
だから今回のことだって、きっと兄が正しい。たぶんあの子は特別なんだ。
おれには想像もつかないような何かが、あの子どもにはあるんだ。
何度そう思い込もうとしても、その度理性の内側から恐れが叫ぶのだ。
”アレ"は嘘を吐いているぞ、と。
海の夢を見ていた。
周囲を満たす白い海はとても甘い香りがして、ひどく冷たいのにどうしてか愛しく感じられた。父上、母上、それに兄上。深い深い海の底に、丸い月が浮かんでいる。
なんだ皆、そんなところにいたのか。
安堵と共に両腕を伸ばし、甘く温かな血のように赤い月を―
胸部の痛みで、海の底から急激に意識が引き上げられる。おれはアジトのソファーの上で、ナイフで体を貫かれていた。それも普段始末に使っている上物のナイフで。
"あの"子どもだ。
やっぱりこうなったか。直感を信じてみるべきだったと後悔しつつ刃を引き抜き小さな頭を片手で掴み、そして気付いた。
紛れ込んだ刺客にしては、やり方が全くなっていない。
この距離までおれを起こさずに近寄れるなら、もっと確実に仕留める方法は他にいくらでもあったはずだ。非加盟国を巻き込む市街戦では、女子供も十分な脅威になり得る。どれだけ非力だろうと銃や手榴弾の威力は変わらないのだから。ピンを抜いた手榴弾を握ったまま部隊に近付く子どもなどは、その小さな額に鉛玉を撃ち込んででも止めなければならない。
この子どもはそれをしなかった。そうしろと、指示する者がいなかった。
ただの私怨だ。
逃げ出した子どもの背を見送り、ソファーにもたれてこの後のことを考える。
兄は、あの子どもを大切にしている。
ヴェルゴが居ない今、一応は最高幹部として組織に属するおれを刺したとなれば、兄も何かしらケジメをつける必要が出てくるだろう。おれそのものにあまり興味がないとしても、組織の長としては無視できない優先順位があるはずだ。それにネズミの線が消えたとなれば、あの子どもはおれたち政府の被害者の一人でしかない。むざむざ死なせるのも気の毒だ。
未だふわふわと甘く痺れる頭を持ち上げ、己の血で汚れたソファーに火をつけた。
刺客との戦闘でうっかり血を垂らしたソファーはびっくりするほどよく燃えたと報告したら、兄はその内容を疑いもしなかった。信頼のドジ具合に若干しょっぱい気持ちになりながら前々から気になっていたネズミの遺体を引渡し、すっかり傷の癒えた胸元に触れる。これでいい。
その日、子どもはめでたくファミリーの一員として迎え入れられた。
嬉しそうな様子の兄に、やはりおれは何も言えなかった。
「トラファルガー・"D"・ワーテル・ロー―本当は人に教えちゃいけねェ名前なんだ…!!」
頭から冷え切った海水をぶっかけられたような心地がした。
”D"の名を持つ者は他にも見たことがあるし、交友を持ったことだってある。子供のころから随分お世話になったガープ中将を始めとして、エース君や幾人かの海兵に一般市民。敵対する海賊たちの中にも、当然その名を持つ者は紛れていた。
だが違う。
”神の天敵"。あれこそがきっとそうなのだ。
確証は何も無い。けれど今までを生きた経験とこの身を流れる血に導き出された確信が、声の限りに悲鳴を上げていた。
白い白い海の底の、嘘の臭いがすると。
どうする、考えろ。どうするのが"まだマシ"なのか。
追い出しが通用しないことはもう分かっている。そもそも兄がファミリーへと迎え入れた時点でそれは選択肢から外れていた。
無理やり攫って、追い出した子どもたちと同じように海軍で保護してもらうか。それも駄目だ。あの子どもが政府関係者の中で生きられるとは思えない。
兄にこのことを伝えるのはどうだ。そいつは"神の天敵"だと。それでどうなる。兄が大切に育てているあの子どもより、未だにまともな任務ひとつ託さず放置しているおれを信じるとでも思ってるのか。
始末の二文字が脳裏をよぎる。駄目だ、駄目に決まってるだろ。軍法がそれを許しても、この状況でそれを選択すればおれの正義は死ぬ。
白、白。そうだ、脳を痺れさせるあの甘い香りを、おれは知っている。
珀鉛だ。
食器に塗料、化粧品、武器、それに甘味料。かつて天上で愛した美しい品々や任務で護衛した貨物船からは、幸せな甘い匂いがした。
病気を、珀鉛病を治すしかない。それも兄の触れないどこかで。その先に待っているのがたとえ、この身の破滅だとしても。
あの日目にした、美しい戦場の兄を思い出す。世界の本当を暴き出す瞳を持つ兄を。
兄はおれとは、"おれたち"とは違うかもしれないのだ。
その可能性に賭けるしかない。祈りはなくとも、兄にはにんげんの家族がいる。最初から地獄に繋がれ囚われていたのはおれだけだったと、おれが兄を止められずとも、最悪の未来には至らないと。そう信じるしか道はない。
あの人のおそろしさは、その心の全てを食い破ることはないのだと。
夜闇に紛れて必要最低限の物品を支度し、海賊団の小舟を拝借する。操船は得意だ。
これで、兄が手を伸ばしにくい加盟国を巡ろう。あの子どもを10年後の右腕にするのなら、当然腕の良い医者が要る。あちこちふらふら周るのは、オモテでもウラでも顔の割れていないおれにはうってつけの仕事だ。資金が尽きたらそこらで適当な賞金首を狩って、医療費と旅費の足しにすればいい。
大丈夫。最高幹部に名を連ねているとはいえ、ちょっとした書類仕事をちまちまとこなしているだけのおれが抜けても組織に大した影響はない。そもそもが、極秘任務とやらに出たままのヴェルゴの代理でしかないのだから。定時連絡用の電伝虫も持っていって、あの子どもに逐一自身の安否を報告させよう。
白い白い下弦の月だけが、真っ黒なおれの背を見下ろしていた。