ホシノの歓迎
ミレニアムサイエンススクール自治区、夜
街灯の光を避けるように足早に駆けて行く影がある、ジャケットの上から黒いポンチョのような上着を羽織った彼女は周囲を警戒しながら自治区の外を目指し──
そして、前方に見知った顔を見て足を止めた
「…ここまでですよ、ユウカちゃん…アビドスに行かせるわけにはいきません」
「…ノア」
「拘束をお願いします…
ごめんなさい、ユウカちゃん…でもここなら、ミレニアムなら必ず治療も、事態の収束もできますから…!」
ノアの呼びかけと共に彼女の背後と建物の影から二人の生徒が飛び出す
「C&C…!でも私は…!もう…ッ!」
飛鳥馬トキ、そして一之瀬アスナ…ノアの、ミレニアムのこの逃亡阻止にかける本気度を表した面子だった
相手は"00"に次ぐ実力者のアスナと未だに行方を晦ましたままの調月リオの元直属エージェントであるトキ…常識的に考えて、ユウカには勝ち目も逃げ切る可能性も無かった
常識的に考えれば
『未確認の生徒を一人観測、あれは…まさか⁉︎』
「うへ〜、悪いけどそういうわけにはいかないんだよねぇ」
あのアスナでさえ唇を固く結ぶほどの緊迫した現場には相応しくない気の抜けた声が響く
カリンからの無線を受け振り返ったノアが見たのは満月を背にビルの上に立つ小さな影
「小鳥遊…ホシノ…!」
「や、良い夜だね」
ありえない!
まだ公的に敵対を宣言し、抗争状態に陥ったわけではないとはいえ…アビドス外での"小鳥遊ホシノ"の扱いを考えれば、彼女がこの敵地のど真ん中に単独でいる筈が無い
「さぁ、準備できた〜?いくよ〜」
小柄な体が宙に飛び出す
瞳のようにも見えるヘイローが彼女たちを…遠間から狙いを定めていたカリンすらをも睥睨していた──
アスナとトキはC&Cの中でも直接戦闘に秀でたメンバーだ
一見当てずっぽうに見えて確実に敵を追い詰める神がかり的な勘の持ち主であるアスナ、そして銃弾すら回避して見せるほどの敏捷性と高い戦闘技術を併せ持つ精強なるエージェントであるトキ
その二人がいま、かつてないほどに…たった一人に追い詰められていた
「うへ〜…流石に三人も相手すると大変だよ〜、おじさんもう年なんだしさぁ」
───全く有効打が与えられない
使い方によってはホシノの全身を覆い隠すだろう大きさのシールドと建物や路地を使った立ち回り
言ってしまえばそれだけの、二人のコンビネーションやノアとカリンの支援を滞らせるための基本的な動き
しかしそれを行うのは
「硬すぎるでしょ…!」
「目標、逃走を開始。追撃します!」
経験豊富な上に、そもそもの身体性能が桁違いの"怪物"である
一瞬の隙を突いて接近したアスナが至近距離からホシノに銃弾を浴びせる、それを気にも止めずに強烈な回し蹴りを腹に叩き込み、ホシノはすぐさまユウカを連れて路地に飛び込んだ
ホシノ及びユウカの目標はあくまでミレニアム自治区からの脱出、対するノア達は二人の捕縛が目標であり…結果、先ほどから数回にわたって小競り合いを繰り返しながらのらりくらりと逃げられていた
「付近の監視カメラやセンサーにアクセス…逃走ルート算出!先回りするなら…」
「真ん中かな!そんな気がする!」
「了解」
『了解』
ノアがC&Cの持つホログラム型の端末にいくつかの逃走予測ルートを転送し、アスナがすぐさま後輩達に指示を出す
確かな信頼と連携に裏打ちされた簡潔なやり取りには、二人が自治区の端…即ち追跡範囲の限界に近づきつつあることへの不安が僅かに滲んでいた
アスナが、トキが、ノアが、カリンが
ただ一点、路地と大通りが交わる一点に照準を定める
「ここを突破されればもう後がありません…先行します、カバーを」
トキが周囲に声をかけ前に出る…刹那、路地から"黒い外套の影"が飛び出す
「ユウカちゃん⁉︎」
ノアが叫ぶ、確かにその外套は先ほどまでユウカが着ていたものだ
一瞬の迷いが文字通りの明暗を分けた
影に向かって浴びせられた散弾が外套を弾き飛ばす、中から現れたのは人の身の丈ほどもある黒い盾と…それにくくりつけられた数個のフラッシュバン
闇に慣れた生徒達の目を閃光が灼いた
銃撃と殴打の音が止んだ時、大通りに立っていたのはホシノとノアだけだった
それでも
「流石に、ここで負けるわけにはいかないよね…!!」
ショットガンの銃床を叩き込まれて立つこともできないアスナがホシノの足を掴む、最後のチャンスに賭けるために
カリンはスコープ越しに灼かれた右目を瞑り、左目で照準を合わせる
(アスナ先輩がノアに歩み寄る小鳥遊ホシノの足を止めてくれる、必ず!)
信じて待つ、待つ、待つ…訪れたその瞬間、極限の集中をもって49mmという超大口径ライフルが火を吹いた
「うへ〜、思ったよりやるね、おじさん感心したよ〜」
狙撃地点にグレネードを投げ返したあと、ホシノはたった今銃弾を撃ち込まれた後頭部をぽりぽりと掻いた
「うへへぇ、そういうわけだからお姫様は悪いおじさんが連れてっちゃうよ〜」
「ノア…!ごめんなさい…でも、私はアビドスへ行くわ…もう決めたって言ってるでしょ⁉︎」
「…私だって言ったでしょう、行かせないと…」
ホシノに銃を突きつけられているにも関わらず睨み返すノア、彼女の目には危険な光が浮かんでいる
「戦闘はC&Cの彼女達には及ばないでしょう…それでも、私にもセミナーの…ユウカちゃんの友達としての意地があります…!」
ギアや関節、車輪から稼働音を響かせて大通りに多数の機械が出現する
ノアが追跡中に起動してきたミレニアムの防衛兵器群、追跡ルート上にからアクセスできるだけでもかなりの数のそれらが銃口を、砲門を、ノアとホシノに向けていた
「…ユウカちゃん、しっかりして下さい」
「ダメ!!!!!」
彼女は友達の…親友のためならその攻撃に自分を巻き込むことも厭わない
ユウカの絶叫も虚しく二人は光と爆音に包まれ───
「心意気は認めるけど、おじさんそれは良くないと思うなぁ」
──瞬時にノアと兵器の間に割り込んだホシノが盾を構えていた
「うへ〜…自分を犠牲にしてでもなんて…大切な人に怒られちゃうよ」
トン…と、手刀がノアの首筋に打ち込まれ、彼女は崩れ落ちた
「ユウカ…ちゃん…」
「…え…?ノアは…助かった、の…?……よがったぁ…!」
「うへ〜、でも早く逃げないと大変だよ〜
行こっか、ユウカちゃん」
緊張が解けてへたり込んだユウカを抱え上げ、ホシノはミレニアム自治区の外へと駆け出していく…
ミレニアム自治区外、ユウカは建物や街灯もまばらになった場所に連れてこられ、ホシノと共に一台のハンヴィーに乗り込んだ
「ホシノ様、お疲れ様でした…すぐに出ましょう」
「うん、お願い…あ、ユウカちゃんこれあげるよ、そろそろ切れる頃でしょ〜?」
「え…あ、ありがとうございます」
後部座席に座って直ぐに瓶入りの飲料を渡される
透明感のある水色のラベルに印刷された文字は"アビドスサイダー"、今となってはミレニアムでは手に入らない"サンド・シュガー"入りの貴重な品だ
ミレニアムの隔離室で砂糖を断つこともできた
それでも私は私の判断でこの人の手を取った…取引はあった、でもきっとこの選択は私自身のために、もっと楽で気持ちいい方に行きたくてしたものだ
ハンヴィーが砂漠に向かって走り出す…ユウカの心中からは、もう不安も後悔も消えていた
今までも味わってきた、身体が浮くような高揚感と多幸感
砂漠に向かって悪路を進む車内の揺れも心地よく、ユウカは窓の外の景色を蕩けた瞳で眺めていた…が、ふと車内、反対側の後部座席に座るホシノに視線を向ける
(…眠っているの?)
先程から彼女は一言も発さない
シートの足元にブリーフケース状に折りたたんだ盾を置き、俯いたままそれを見つめる目は淀んでいて…
「ぅぶっ…!おえェェ…!!」
「ちょっ…!大丈夫ですか⁉︎」
ホシノは唐突にエチケット袋を広げ、その中に水っぽい吐瀉物をぶちまけた
ユウカは咄嗟にえずきながら咳き込むホシノの背を摩り顔を覗き込む、顔色は蒼白で目の焦点が合っていない彼女を見て心配の言葉が口を突いて出た
「…!少し飛ばします!」
「…ぅあ…あ〜…ごめんね…ただの車酔いだよ、大丈夫…」
嘘だ、どう見てもそんな状態には見えない
チラリとエチケット袋に目を向け、ホシノは窓からそれを投げ捨てた
「…ユウカちゃん、悪いんだけどこれ持っててくれないかな
…そう、そっちに置く感じで」
ユウカが渡されたのは折りたたまれた盾
それがホシノから見て隠れるような位置に置かれると、小さく頷いた後ホシノは再び俯いた
アビドスに着くまでの間、益々顔色を悪くした彼女は小さく
「どの口で」
「何様だ」
「黙れ、わかってるんだ…」
と繰り返し呟いていた
「おかえりなさい♡無事に…無事ではなさそうですね?」
「うへ〜…ちょっと酔っただけだよ、今はそんなに酷くはないから大丈夫」
ハンヴィーがアビドス高等学校に着くとすぐに一向を浦和ハナコが出迎える
アビドスの副官にしてブレイン、今回ユウカに"取引"を持ちかけた張本人…ユウカが初めて実際に会う彼女は冷酷な策謀家というよりも、友人を心配する普通の女学生のように見えた
「ホシノさんはいつもそう言って誤魔化すじゃないですか…」
「うへぇ…」
ハナコが提示した"取引"は簡潔に言えば『早瀬ユウカが会計としてアビドスに転校することを条件に、アビドスは組織としてミレニアムへの干渉及び砂糖の販売を行わない』というものだ
正直なところユウカにはわからないことだらけだった
どうして自分一人にこれだけの条件を飲むのか、どうしてホシノはあれだけ憔悴していたのか
…どうして、彼女はノアを守ったのか
「…あの、どうしてあのときノアを庇ってくれたんですか?」
ハナコと共に校舎内を先導していくその小さな背中に聞いてもいいと思った疑問をぶつけてみる
「うへ〜…今聞いちゃう?それ……ん〜と…サービスだよ、ユウカちゃんへのね」
まるで自分に言い聞かせるような言い方をしながらホシノは振り向き…青と橙、色の違う一対の目が砂糖に溺れた算術使いに向けられる
「ハナコちゃんは君が会計として働くことも契約に入れたと言ってたからね〜…"期待しているよ"」
やる気のなさそうな声音ながら、その言葉には一つの組織の長に相応しい迫力があった
そしてその雰囲気が一瞬にして消えて純粋に仲間が、生徒が増えたことを喜ぶ顔が表に出る
「アビドスへようこそ!」
彼女は笑いながら両手を広げた
決して逃げることは叶わない、甘い地獄への歓迎だ