ペトリコールに包まれて
激しい雨が降り注ぐある日の夜。相変わらず静謐な時が流れる古書館に、突然ノックが響き渡る。
「何ですか、いきなり……誰ですか?こんな時間に………」
手っ取り早く追い返そうと席を立つと、突然声が響く。
「ごめんウイ!ちょっと入れてほしい!!」
扉の向こうから響くその声に、突然の来訪に強張っていた私の体は安堵するように脱力する。
「せ、先生でしたか……びっくりしました…」
「ごめんね、いきなり押しかけちゃって…」
肩辺りで乱雑に切られた、金髪混じりの黒髪をびしょびしょに濡らし、ばつの悪そうな顔で立っている先生。
「大丈夫です…私は、いつも通り引き篭もっていただけですから……にしても先生はどうしてこんな時間に……って、仕事だからに決まってますよね……」
すると、びしょ濡れの肩を揺らしながら先生が小さく笑う。
「え、私…今何か変な事を言いましたか……?」
「ううん?何でもないよ?ただ…ウイから見た私って、そんなに仕事に追われてるように見えるんだなぁ〜って」
そう、いたずらっぽく笑う先生。でも、その目の奥底に沈む暗い部分は、淀んだまま動かない。どこか寂しそうで、苦しそうなその瞳に、胸が締め付けられる。先生は私の悩みを聞き、それを優しく融かしてくれているというのに…私は先生のそれに、手を突っ込む事ができない。許されない。そんな自分が少し情けない気がして、また苦しくなる。
「ウイ?どうかしたの?」
そんな私の思いを知ってか知らずか、先生は私の方を覗き込みながらそう声をかける。
「い、いえ、何でもありません…」
「とりあえず、ちょっと中に入れてほしいかな〜なんて…」
「わ、わあっ!ごめんなさい……そうですよね、そんなびしょ濡れの先生を放置だなんて…私はなんてことを…」
慌てて先生を奥に通し、温めようと暖炉に薪を運ぶ。
「…重………」
「大丈夫?代わろっか」
「ひあっ!ご、ごめんなさい、これはその…口癖みたいなもので……面倒くさいとか、そういうわけじゃ……ないわけじゃないんですが、でも、ほんとに大丈夫ですから…」
「そっか…ならいいんだけど」
なんとか薪を運び、マッチで暖炉に火をつけた。パチパチと、薪が燃える音が響く。
「大丈夫ですか?寒くありませんか?こんなに体をびしょ濡れに………」
そこまで喋って、肝心な事に気が付く。
「ひあああっ!!!!わ、わわわっ、すっかり忘れてました、そうですよね、そんなにびしょ濡れなんですから、まずは体を拭かないと……!!!ま、待っててください、今タオルを持ってきますから……」
新品のタオルはどこに仕舞っていただろうか…長らく出していないからとすっかり忘れている自分が情けない。
「そこのじゃだめなの?」
先生が何となく指を指す方向には、私がいつも普段使いしているタオルがあった。
「い、いえ、それはその、私がいつも使ってるやつですから、その、先生に使わせるのは、ちょっと…い、嫌でしょう?」
「私は平気だけど」
あっけらかんとした顔でそうヘラヘラと言い放つ先生。
…よく考えれば、私と先生は同じ女性同士だ。確かにこれは、私の気にし過ぎかもしれない……
「分かりました、ごめんなさい…変な事言っちゃって……」
タオルを取り出し、先生の頭を拭く。擦らないように、水分を吸い取るように、ぽんぽんと、優しく拭いていく。
「わざわざ拭いてくれるなんて、ウイちゃんは優しいね〜」
「ひああっ!!そ、そうですよね、先生は子供じゃないんですから、自分で拭けますよね……すみません変な事をしてしまって……」
「ううん、いいのいいいの!続けて〜。ウイちゃんに頭拭いてもらうの、すっごく心地良いから〜」
軽く手をぴらぴらと振ると先生は鼻歌を歌いながら私に身を委ねてしまった。
結局私は、先生の髪を丁寧に拭き上げたのだった。