ベポが禿げた!!
「おはようローさん。ガルチュー」
「んん…おはよう、ベポ。がるちゅー…」
朝。ベポにゆさゆさと揺すられて渋々体を起こす。今日は仕事は休みなのに、結局いつも通りの早起きだ。まだ目蓋の開かないローの頬に柔らかい毛がふわふわと擦れる。頬と頬を擦り付ける“ガルチュー”も初めは驚いたものだが、いつでもどこでもスキンシップの多いベポの成果か今ではすっかり慣れてしまった。
心地よい微睡みの中、両手をベポの体に回してモフモフを堪能する。背を撫ぜると手がふかふかと沈み込むのが気持ちいい。反対の手はベポの耳の後ろを擽る。耳の後ろの毛は細くてベポの体の中でも一等柔らかく、ローのお気に入りだった。特になんだか今日は一段と触り心地が好い気がする。
一頻り撫で回して気がすんだので、身を離そうとベポの頭の後ろの毛をくいと引っ張った。何の抵抗もなくすぽんと手が離れた。ン…?ベポがまだ離れないので、背中に回した反対の手でも引っ張る。こちらもすぽっと離れた。ん?
んん…?
ローの手はしっかりと握られたままだ。なのに、ローの手はベポから離れている。
つまり………どういうことだ?
ローの灰色の脳細胞は、まだ営業準備中だった。ぽふぽふとベポを叩いて合図し体を離す。ベポを見る。ニコニコとこちらを見ている。うん、今日も元気そうだ。次いでローの両手を見やる。両手とも、しっかりと毛が握り込まれている。…毛?誰の?誰ってそりゃあ、ベポしかいないな。もふもふもふ。手を開いたり閉じたりするとふかふかして触り心地が良い。医学の勉強中にこれが手元にあったら最高だろうな。…じゃなくて。んんん…?待て、これはもしかして。
「………べぽ、ちょっとうしろをむいてくれねェか」
ベポが素直に背を向けた。恐る恐る視線を上げる。
「なっ、」
背中と後頭部、一部の毛がごっそりとクレーターのように斑に短くなっていた。
「うわあぁぁぁあっ、ベポーーーーーーーーーッ!!?!!?!!!」
「えっ!?ローさん!!何?なになにっ?!!」
腹の底から出た叫び声が、家中に響き渡った。
…大変だ、
ベポが禿げた!!
***
コトリ。ローの前に温かいミルクが置かれた。
「換毛期じゃな」
「かんもうき…」
ローは呆然と復唱した。かんもうき。……そうか、換毛期か。
滅多にないローの叫び声に、早朝にも関わらずあの後すぐにヴォルフたち3人が部屋へ乗り込んできた。両手を握り込みワナワナと震えるローと、そのローに背を向けてオロオロとしているベポ。不思議な構図に首を傾げた3人に気づいたローは、すぐにヴォルフに飛びついた。ベポが禿げちまった!!病気かもしれねェ…!と。
「そうじゃ、最近雪解けが始まったじゃろう。気温も暖かくなってきたからベポも冬毛から夏毛に変わり始めたんじゃないかの…全く、朝から騒々しいったらありゃあせんわ」
「…しょうがねェだろ。起き抜けだったから頭回ってなかったんだよ」
むすりと膨れてホットミルクを口へと運ぶ。フレバンスで暮らしていた頃も身近に動物はいなかったし、ローが触る生き物といえば専らカエルだった。ファミリーにいた頃は言わずもがなだ。犬猫に毛が生え変わる時期があるというのは知識としては知っていたが、まさかシロクマにまで換毛期があるとは思わなかったのだ。しかもこんなに塊で抜けるなんて聞いてない。だからローが叫んでしまったのも不可抗力だ。
「すっげー、ホントにズボズボ抜けるのな」
「おれこれクセになりそう」
「もうっ、ボサボサになるからあんまり抜かないで!」
いつになく狼狽えるローを大笑いしていたペンギンとシャチの興味はもうベポの抜け毛に移ったらしい。ソファで二人がベポの毛を摘んでは引っぱり摘んでは引っぱりを繰り返している。お蔭で床が毛だらけだ。ヴォルフが「コレ!散らかすんじゃない!」と怒っている。
「ブラッシングするにしても、おれたち用の櫛じゃすり抜けちまうよなぁ」
「うーん、タワシならあるけど」
「タワシ!?痛いのはおれヤだよ!」
「じゃあ、町へ行ってブラシ買いに行くか。ペットショップなら動物用のブラシも置いてるだろ」
思い立ったら即行動。ロー達4人は早速着替えて準備し、町へと向かった。道中おばちゃん達に声を掛けられるのは最早恒例行事だ。「4人でお買い物?相変わらず仲良しねぇ」「あらベポくん、今日はまた一段とふわふわしてないかい?」という声に程々に返事をしながら足早にペットショップを目指す。休みの日におばちゃん達の井戸端会議に捕まると中々抜け出せないんでな。
ペットショップへ辿り着き、店の扉を開けると墨の入った厳つい店主がひょいと片眉を上げて4人を出迎えた。
「こりゃあ珍しいお客さんだな。ヴォルフんとこのガキども、今日はどうした?」
「ちょっと入り用でな」
ベポの換毛期が始まったからブラシを買いに来たんだというと、店主は笑ってレジカウンターから出てきた。
「はっはっは!そうか、シロクマにもそりゃあ換毛期があるか!ちょっと待ってな…」
お前さんたちタイミングが良かったな、と言われた。なんでも最近気温が上がってきたので新しいブラシをいくつか仕入れたらしい。それらが店のバックヤードに置いてあるからと取ってきてくれるそうだ。しばらく待つとブラシを数本持った店主が裏から戻ってきた。
「ベポは体がデケェからなァ、これとかはどうだ」
くの字に曲がった金属製の細いピンが規則正しく並んだT字のブラシを手渡される。他に置いてあるどのブラシよりも大きい。本来は大型犬用のものだそうだが、体の大きいベポにはぴったりだ。
「うん、これいいな。ベポはどう思う?」
「痛くないなら何でもいいよ!」
「ちょっと試して見るかい?」
店内では毛が散らかってしまうからと店先へ促される。店主の厚意に甘えて、ローはブラシでベポの後頭部をそっと撫でた。ブラシを上げるとピンに大量の毛が挟まっていた。
「わっ、すげぇ!大量に抜けた!」
「ローさん、おれもやりたい!」
後ろからシャチが責っ付いてくるのでブラシを手渡して変わってやった。ローと同じように恐る恐るブラシを通して取れた毛玉を見て大はしゃぎだ。店主がどうせだからと他のブラシも持ってきてくれたので、シャチとペンギンと代わる代わる試して遊んだ。そしてベポの厳正なる審査の結果、最初のブラシが一番良いという結論に落ち着いたため、それを買って帰ることになった。
ペットショップの店主曰く、換毛期の間はブラッシングは毎日したほうがいいとのことなので、家へ帰って早速ブラッシングをすることになった。ベポが「最初はローさんがいい!」と宣言したから、今日のブラッシング担当はローになった。ちなみにくじの結果、明日はペンギンで明後日はシャチが担当することになっている。一番最後がヴォルフでそれ以降はまたローから順にローテーションだ。
「よし、ベポ。服脱いでそこに座ってくれ」
ブラッシングは家の軒先で行われることになった。薪が積んである横のスペースに布を敷いてベポを座らせる。ローはベポの後ろに立ってえいとブラシを滑らせた。
「…おお、」
ブラシで背中を一掻きすると大量の毛が浮いてきた。店で少し試したときの比じゃない。ピンから外した毛玉を布の上に置いてどんどんとブラッシングしていく。
「…」
もこもこ
「……」
もこもこもこ
…どうしよう。めちゃくちゃ楽しい…!
撫でれば撫でるだけ取れる毛玉に手が止まらない。毛が浮いてボコボコとしていたのが、ブラシを通せば綺麗な毛並みになるのがたまらなく快感だ。ペンギンも言っていたが、これはクセになりそうだ。
「…よっし、こんなもんか」
「あ〜さっぱりした!ローさんありがとう!」
「ン。どういたしまして」
無心になって一通りブラッシングした頃には、布の上にこんもりと抜け毛の山が出来ていた。小さいベポが作れそうだ。心做しかベポもブラッシング前に比べてほっそりとした気がする。今朝ローが毟ってしまった後頭部もすっかり滑らかな毛並みになった。それでもまだブラシを通せば毛が取れそうだ。あまりにも無限に毛が取れるから、ローとしてはまだブラッシングしたい気持ちでうずうずとしていたが、一度にやり過ぎるのも皮膚に負担がかかって良くないらしいので我慢だ。
「これ、ペンギンに渡してきてくれ」
「分かったよ!」
最後にピンに残った毛玉を外してベポにブラシを手渡す。これで後は布で毛を包んでしまってゴミ箱へと捨てればおしまい、なのだが…。
「…」
ローの中でムクリと好奇心が沸き起こる。
「……ちょっとだけ」
もふんっ
周りに誰もいないことをしっかり確認して、もこもこの抜け毛の山にダイブした。
「へへ…、ふわふわだ…」
ローはそのまま心ゆくまでもふもふを楽しんだのであった。