端切れ話(ヘアアレンジ×セクシャル)

端切れ話(ヘアアレンジ×セクシャル)


監禁?編

※リクエストSSです




 今日はナイトマーケットへと出掛ける日だ。

 頭には茶色いカツラ。体には余所行きの服。そして胸には買ってもらったばかりのアクセサリー。

 スレッタはお気に入りのソファに座って足をパタパタさせながら、仕事から帰ったエランが着替え終わるのを待っている。

 やがて廊下側からドアが開閉する音がすると、静かな足音が近づいて来た。

 シンプルなTシャツにゆったりしたパンツ、黒髪褐色肌の同居人がダイニングへ入ってくる。彼は黄色がかった緑の目をほんの少しだけ逸らしながら、手にしたコームとヘアゴムをスレッタの前に掲げて言った。

「スレッタ・マーキュリー、その、今日も髪の毛をお願いしていい?」

「まかせてください!」

 どうやら今回もうまく髪を纏められなかったらしい。明らかに頼られていると感じたスレッタは、元気いっぱいに返事をした。

「では、ソファに座って下さい!」

 先ほどまで自分が座っていたソファをポンポンポンと叩いてアピールする。

 エランはこくりと頷くと、大人しくスレッタの指示した場所に座ってくれた。

 好きな人の従順な様子に心の中で身もだえする。普段はしっかりしているエランだが、髪の毛関係だけはスレッタにすべてを委ねてくれる。

 コームとヘアゴムを受け取ったスレッタは、まずは丁寧に彼の黒髪をくしけずると、慣れた手つきで前髪とサイドの髪を編み込んでいった。

 目を閉じているエランの様子にドキドキしてしまう。

 この時間を長く楽しみたい自分がいる一方で、すぐにでも2人でナイトマーケットへと出掛けたい自分もいる。…とても悩ましい問題だ。

 とはいえ、どちらを選んでも幸せな事には違いない。

 スレッタはニコニコとしながら編んだ髪をゴムで纏め、「出来ました!」とエランに告げた。

「ありがとう。ごめんね、手間を掛けさせて」

「いいえ、とんでもない。これくらいいつでも大丈夫ですよ」

 本当にいつでも大丈夫だし、むしろスレッタとしては嬉しいのだが、エランはどこか気まずげにしている。

 あまり他人に頼らない人だから、スレッタにお願い事をしたのがちょっと恥ずかしいのかもしれない。

 もしくは、上手に髪を編めないこと自体を恥ずかしく思っている、などもあり得るだろうか。

 スレッタは改めて考えてみる。

 少し前、彼に髪の編み方を教えた時にはうまく編めていたと思う。それから何度か練習もしていたようなのに、ずっと下手なままなんて考えにくい。

 もしかしたら、エランは目標を高く設定しすぎているのかもしれない。

 スレッタとしては彼に頼られるのは嬉しいし、彼の髪を編むひと時に幸せを感じる。だからこのままでも自分的にはまったく問題ない。

 問題ないけれど…。

 こちらに手を差し伸べてくれる優しい人が、髪の編み方が上手くいかずに悩んでいる。そんな姿を想像してしまう。

 スレッタはそんなのは駄目だ、と心の中でひとつ叫んでから、決意した。

 ───大丈夫です、エランさん。納得するまで付き合います!

 たとえスレッタの楽しみが減ったとしても、彼の憂いを取り除きたい。そんな事を思いながら、スレッタは元気づけるように彼の手を取った。

「帰ったら『特訓』ですね、エランさん!」

「え?」

 首を傾げるエランを余所に、スレッタはやる気になっていた。

 彼の苦手意識を取り除くには何が必要か。実力はあるのだから、後はたしかな経験と自信があればいい。つまりは『特訓』だ。

 ナイトマーケットに向かいつつ、スレッタは具体的な特訓方法について頭を巡らせ始めていた。


「エランさん、どうぞ」

 今日も大満足で帰って来た後、スレッタはさっそくとばかりにエランの目の前に先ほどまで被っていたカツラを差し出した。

「スレッタ・マーキュリー、これは?」

「『特訓』の為の秘密道具です!よかったらこれを使って髪の編み込み方を練習しましょう!」

 スレッタの言葉にぱちりと目を瞬くと、エランはハッとしたように編み込まれた前髪とサイドの髪に手をやった。

 そしてほんのちょっとだけ、恥ずかし気な顔をして目を伏せた。

「ご、ごめん…。やっぱり迷惑だったよね」

「いいえ、ぜんぜん、そんなことはないんですが!」

 何故かエランの反応に謎のドキドキを感じつつも、スレッタは力強く否定した。むしろ彼からの迷惑ならどんどん掛けられても構わなかった。

 でもそれだと本人が気にするだろうから、血を吐くような提案をしているのだ。

「エランさん、以前教えた時には初めてとは思えないくらい上手だったし、何度か練習したって言ってたじゃないですか。だから勿体ないなって思ったんです」

「勿体ない?」

「はい。せっかく練習したのに勿体ないです。ええと、多分ですけど、エランさんの編み込みはそんなに変じゃないと思うんです。でもエランさんは自分の編み込みに納得いってないんですよね?」

「……そう、だね」

 少しの間を置いてぎこちなく頷くエランの様子に、スレッタはやっぱり、という顔をした。

「自分だけの判断だと良いか悪いか分からない可能性もありますから、わたしも付き合います。そして練習の成果を客観的に判断したいと思います。…というわけで、さっそくこのカツラで編み込みの練習をしてみましょう!」

 そう言って、もう一度ずいっとカツラを差し出してみる。エランは目の前に差し出されたカツラを手に取ったものの、やっぱり少し戸惑っているようだった。

「…練習するなら、自分の髪を使った方が効率的だと思うけど」

「確かにそうですけど、練習を繰り返したら髪がボロボロになっちゃいますよ。それにカツラなら練習の成果を自分の目で直接見る事ができます」

「なるほど」

 スレッタの言葉に、エランはようやく得心がいったように頷いてくれた。今まで戸惑うばかりだった目線が、カツラにジッと注がれ始める。

 ナイトマーケットを楽しんでいる間も考え続けていただけあって、スレッタの理論武装は完璧だ。

 心の中でふふんと胸を張りながら、具体的な練習方法を提示してみる。

「最初はカツラを被らないまま練習して、指の動きを慣れさせましょう。大丈夫そうならカツラを被って、より実践的な練習を行います」

「分かった。…でも最初から被らないのは何故?」

「最初は自分の目で見ながら編んだ方が分かりやすいと思ったんです。ひとつずつ丁寧に編んで、納得できる編み込みが出来たら次の工程に行きましょう」

「次の工程…。カツラを被って、より実践的な練習ってやつをするの?」

「いいえ、それはもうちょっと後です。カツラを被る前に、いちど手元を見ないで編めるように練習します。これで綺麗に編むための指の動きを体に覚えさせるんです。自分と他人では勝手が違うので最初は戸惑うでしょうけど、段階を踏んで慣れていけば、きっと大丈夫です」

「分かった」

 こくんと頷く素直な様子に、なんだか得意な気分になってくる。エラン相手にスレッタがイニシアチブを握るのは、とても珍しい事だ。

「エランさんならすぐですよ」

「…がんばってみる」

「その意気ですよ、エランさん!」

 調子に乗ったスレッタは、上位者としての励ましの言葉を送ってみた。

 この時のスレッタはまだ気付いていなかった。自分の余裕がすぐに無くなってしまう事を。

 それも…想定していない方向での、余裕の無くなりようだという事を。


「…よし、エランさん、準備できました!」

「ありがとう」

 専用のスタンドで固定したカツラをテーブルの上に乗せて、いよいよ特訓がスタートした。

「まずは編み込みをしやすくする為に、ヘアブラシで髪のほつれを直しましょう。これを使ってください」

「分かった」

 あらかじめ用意していたヘアブラシを渡すと、エランはさっそく頭から下に向かって一気にブラシをかけようとした。当然ながら途中で引っかかり、ブラシが動かなくなってしまう。

 何度かやり直しても同じような場所で引っかかり、とうとう困った顔で振り向いてきた。

「うまくいかない…」

「んんっ…」

 その様子に、ちょっと胸がきゅんとしてしまう。スレッタは何度か咳ばらいをして、不埒なトキメキを追い出した。

「えふん、えふん…っ。えっと、長い髪をとかす場合は、毛先の方から優しくブラッシングしていくんです。毛先がほぐれたら徐々に上に向かっていって、頭の上の方は最後になります」

「そうなんだ」

 エランは髪が短いので知らなかったんだろう。彼には必要ない知識かもしれないが、知っていて損ではないと思う。たぶん。

 スレッタからコツを教えられたエランは、さっそく髪の一部を掬いあげ、少しずつ毛先から丁寧にブラシでとかし始めた。

 その様子をスレッタは後ろの方からジィっと見ていた。

 監督役なので見る事自体は当然なのだが、スレッタの視線はエランの手そのものに吸い寄せられていた。

 エランの大きな手は、スレッタのものとは全然違う。素手だと顕著に違いが分かる。

 ゴツゴツと骨が浮き出ていて、関節の節が飾りのように目立っていて、見るからに固そうな手だ。

 そして指が長い。ヘアブラシの柄を握っても、まだまだ指が余っている。

「………」

「こんな感じかな」

「!…そ、そうですね」

 スレッタは我に返ったように返事をしながら、妙にそわそわしている自分に気がついた。エランの大きな手で掴まれているヘアブラシを見ているうちに、落ち着かない気分になっていたのだ。

 練習に使うカツラはスレッタのものなので、もちろん使うヘアブラシもスレッタのものだ。

 もしかしたら、だが…。

 自分の私物を好きな人に扱われるというのは、すごく恥ずかしさを感じる状態…なのかもしれない。

「じゃ、じゃあ、実際に編んでみましょう!」

 それに気づいたスレッタは、大慌てで次の工程へとエランを誘導していた。


 数分後、真剣な顔でカツラに向き合っているエランの姿があった。

 大きな手が器用に茶色い髪を編んでいく。やっぱり練習していただけあって、スレッタの目には上手に編めているように思う。

 先ほどよりもだいぶ余裕ができたスレッタは、再び上位者としての視点と落ち着きを取り戻していた。

「いい調子ですよ、エランさん」

「うん、腕の向きの問題もあるだろうけど、単純に髪が長い方が編みやすい気がする」

 てきぱきと編み目を増やしながら、エランも心なしか自信ありげに答えてくれる。

「ん、できた」

 話している内に、一回目の練習は終わっていた。編み目もまっすぐで綺麗だし、髪がほつれて飛び出ている箇所もない。

「どうかな」

「これは一発合格してもいい出来ですね。すごいですよ、エランさん」

「ありがとう。じっくり見ながら出来たのが良かったのかも」

 エランは照れくさそうにしているが、元よりこれくらい器用に編めたんだろうとスレッタは思っている。

 彼に足りないのは自信だ。だからこの練習もあまり技術的なことは教えていない。

 少しずつ目標をクリアしていくことで、彼自身が自分の編み込みに自信を持つ事が出来ればそれでいい。

「ではもう次の工程に進んでしまいましょう。今度はあまり手元を見ないで、指の動きを意識しながら編み込みをしてください」

「わかった」

 こくりと頷くと、エランは目を伏せて髪を編み始めた。

 さぐりさぐりで髪の量を調整しては、時折ちらりと出来上がりを確認しながら慎重に編んでいく。

「どうだろう」

「編み目が少し歪んでますね。わたし的にはこれくらい大丈夫だと思いますけど、エランさんはどうですか?」

「…そうだな。もう少し練習してみる」

「頑張ってくださいね!」

 この『特訓』はエランが自分の腕前に納得するためのものである。だから彼の気がすむまで付き合うつもりだ。

 幸いなことにエランの努力もあって、何度か練習を繰り返したあとはだいぶ綺麗な編み込みが作れるようになった。

 きっと彼が自分に合格点を与えられるのはもうすぐだ。

「とうとう何も見ないで綺麗な編み込みが出来るようになりましたね。感慨深いです」

「まだ一時間も経っていないけど」

「気分の問題ですよっ!こほん。…では、カツラを被ってより実践的な編み込みをしてみましょう」

「うん、頑張ってみる」

 予備のウィッグネットを付けたエランが、何の躊躇もなくカツラを被った。いよいよ『特訓』の最終段階だ。

「とっても似合ってます!」

「あり…がとう?」

 茶髪のカツラを被ったエランは、いつもと印象が違っている。ふんわりとカーブした長い髪が太い首やシャープな顔の輪郭を隠していて、角度によっては女の子のように見える。

 実はちょっとだけカツラを被った彼の姿を見るのを楽しみにしていたスレッタは、期待通りの姿に大満足していた。

 エランはと言うと、躊躇なくかぶった割にやはり違和感があるのか、しきりにカツラの方を気にしていた。

「締め付けがきつかったりしますか?よければ調整しましょうか」

「いや、それは大丈夫。でもちょっと気になる事が…」

 答えている間にも、エランは辺りを見回すような動作を繰り返している。そして髪の一房を手に取って、顔に近づけたりしていた。

「もしかして、カツラに興味が?」

「いいや、でも気になっていた事の原因は分かった。さっきから何かの匂いがしてると思ったんだけど、このカツラだね」

「匂いですか?」

「うん。爽やかで甘くて、清潔な匂いがする」

 エランの言葉に、スレッタは思い当たる事があった。

「ああ、それはきっとメンテナンスした残り香ですね。カツラを使った後はシャンプーとリンスで汚れを落としてるんです」

「そうなんだ。いい匂いだね」

「えへへ」

 アパートに置いてあるのは適当に買ったシャンプーとリンスなのだが、エランの好みに合うらしい。

 彼が選んで買ってきた品物で、彼も使っているモノなのだから当然かもしれない。

「ん…?」

「話の腰を折ってゴメン。じゃあ編み込みをしてみるね」

「あ、は、はい」

 一瞬何かに気付きそうになったが、エランの宣言にそれどころではなくなった。

 彼の大きな手が器用にカツラの髪を編み込んでいる。少し心配していたが、この様子なら心配なさそうだ。

「いい調子ですよ」

「うん、下手に鏡を見ない方がいいみたい」

 彼の手が茶色い髪の毛を編んでいく。サクリと髪の間に指を入れて、綺麗に髪をより分けて、そうして作った髪の束を丁寧に編んでいる。

 ───いいなぁ…。

 スレッタは心の中でぽつりと呟いた。

 普段はスレッタの頭の上にいるくせに。茶髪のカツラは今はエランの頭の上で、彼に思う存分構われたうえで飾り付けられている。

 おかしな話だが、スレッタはエランの『特訓』を見ているうちに、少しずつ茶髪のカツラを羨ましく思い始めていた。


 スレッタの胸中はどうであれ、エランは真剣に取り組んでいる。

 編んで、編んで、編み込んで。何度目かのやり直しで、ついに綺麗な編み込みが完成した。

 専用のスタンドに置いたカツラを、2人で一緒に確認してみる。

「どうですか?わたしの目には、すごく綺麗な出来栄えに見えます」

「そうだね、歪みもほつれもない。…うん、今までで一番うまく出来たかも」

 エランも納得しているようだ。彼はひとつ頷くと、自分の髪を手櫛で直して編み込みをし始めた。『特訓』の成果の最終確認だ。

「今なら自分の髪でも上手く編み込めると思う」

 自信ありげな言葉通りに、彼の髪で出来た編み込みはカツラと同等の綺麗な編み目になっていた。

 もしかしたら、スレッタよりも上手く編めているかもしれない。

 これでもう編み込みを頼まれることもなくなるんだろう…。一抹の寂しさを抱えながら、エランに対して寿ぎの言葉を送る。

「おめでとうございます、これで『特訓』は終了です。元々上手でしたけど、短期間ですごい上達ぶりでしたよ」

「ありがとう」

 エランは褒められて嬉しそうにしている。サイドの髪と前髪の半分を編み込んでいる為、はにかんでいる顔がよく見える。

 この顔を見られただけでもよかった…。そう思っておこう。

 スレッタが自分に対して納得しようとしていると、エランが「実は…」と内緒話を語るように話し始めた。

「本当は、そんなに編み込みの出来自体にこだわりはなかったんだ。多少歪んでいても、平気で外に出かけられたと思う。でも、それを口実にしてわざわざきみに頼んでた」

「え」

「…少し甘えてたんだ。最初に言っておけばよかったのに、恥ずかしくて言い出せなかった。そんな怠惰な僕に対して、きみは一生懸命になってくれて、『特訓』内容も考えて最後まで付き合ってくれて…。嬉しかった」

「え」

「でもこれからは、横着せずに自分でちゃんと結おうと思う。ありがとうスレッタ・マーキュリー」

「まま、まってください。エランさん!…あの、編み込みの出来は関係なく、ただ単に甘えてたんですか?わたしに?」

「うん。今までいらない手間を掛けさせててごめん」

「い、いえ…」

 …それはいいのだが。むしろ横着だろうと怠惰だろうと、エランがそんな弱さを見せてくれるくらい気を許してくれている事が嬉しいのだが。

 スレッタは、わざわざ気を回して損になる事をしていた自分にショックを受けた。

 そして思った。

 もしかして、何もしなければ、ずっとずーっと、エランに甘えられていたのではないか…?と。

 それに思い当たった時、胸の奥がざわざわとし始めた。ほんの少し、ちょっとずつ、ムカムカとしたものが湧いてくる。

 主に余計な事をした自分自身への怒りだが、最初から言ってくれればよかったのに…というエランへの怒りも、髪の毛一本分くらいだけ湧いた。

 もし彼が最初から素直に話してくれたなら、例えば…。

『自分で編むのが面倒だから甘えているだけなんだけど僕はきみに髪を編んでもらいたいんだ。───いや?』

『イヤじゃないです!嬉しいです!』

 という会話だけで話は済んだのだ。

 でも現実はスレッタがよかれと思って強引に提案した『特訓』によって、エランは編み込みの技術をランクアップさせ、やる気を引き出してしまった。

 もう二度と、あの至福の時間は訪れないかもしれない。

 むむぅ…、と口角が曲がっていくのが分かる。

「ご、ごめんね、スレッタ・マーキュリー。その、お詫びに何かさせて欲しい。物でも、何でも」

 スレッタの不機嫌を敏感に察知したエランが、珍しくあからさまなご機嫌取りをしてきた。

 その様子にすぐにでも許してしまいそうになる。スレッタはエランが大好きなので、謝られれば許すし、少々のお願い事も許してしまう。…が、スレッタの口から出て来たのは、今の正直な欲求だった。

「許して欲しいなら、エランさんもわたしの髪を編んでください!これで平等、です!」

 エランは自分にとても良くしてくれて、普段からアクセサリーを買ってくれたり、小物を買ってくれたりする。これ以上物理的な物を要求するつもりはない。

 でも、ヘアブラシを持つゴツゴツした手や、カツラの髪を編み込んでいく節の目立つ手は欲しかった。ちょうど等価交換のような形になるし、都合が良かった。

「わ、わかった」

 エランがこくりと頷いている。気圧されたように素直な態度だ。

 初めてのナイトマーケットでの手繋ぎの件といい、自分は咄嗟の判断力に優れているらしい。これも水星時代のレスキュー活動の賜物だろう。

 スレッタは珍しくイニシアチブを取っていた。

 エランがスレッタの髪を手に取るまでは、完全に彼の上に立っていた。


「スレッタ・マーキュリー、その、今すぐするの?どうせなら、次に外出する時の方がいいんじゃ…」

「それだとわたしの地毛じゃなくカツラを編み込むことになりますっ!平等じゃありません!それにこういうのは、早い方がいいんです!」

「わ、わかった。ごめん」

 珍しく強気で責めるスレッタに、これまた珍しくたじたじになりながらエランが了承する。

 勝手に誤解して、勝手に怒って。あとで自分は後悔するんだろうな、と分かっていたが、一度勢いがついたものはすぐには止まれない。このまま突き進むしかなかった。

「では、どうぞ!」

 ダイニングテーブルの椅子に腰かけ、スレッタの準備は万端だ。

 一方エランはまだ戸惑っているようだったが、椅子の上から微動だにしない様子を見て、恐る恐るスレッタの髪の一房を手に取った。

「!?」

 同時にピクリとスレッタの背中が跳ねてしまい、エランが驚いたように髪からサッと手を放す。

「スレッタ・マーキュリー?」

「何でもありません!さぁ、続けてください!」

 背筋を伸ばして先を促すと、もう一度エランが髪に手を伸ばした。

 方々に跳ねた赤髪を外側からそっと両手で掬い上げ、髪の束にしたものを柔らかく掴んで毛先を梳かし始める。

「痛くない?」

「…大丈夫です!」

 次にエランは梳かした髪を3つの束に選り分けると、丁寧に髪を編み始めた。前髪やサイドの髪は放って、後ろ髪全体を編み込んでいる。

 ひとつ編むたびに頭皮から髪を掬い取り、だんだんと先に進んでいく。耳の後ろの髪もきっちりと回収して、首筋に張りつく髪もそっと剥がして、本当に丁寧に。

「せっかくだから後でサイドの髪も編んで、後ろ髪と合流させてみる」

「あ、新しい髪形に挑戦ですか?…い、いいんじゃないでしょう、か!」

 その間、スレッタは不意に動かないように背筋を緊張させていた。力を込め、ほんの少しも体のブレが出ないように注意する。

 それでも首筋にエランの指が触れた時は震えてしまった。慌てて咳払いで誤魔化したが、何度も続けば不審がられてしまう。そんなのダメだ、とスレッタは思う。

 実は先程から、謎の不調がスレッタの体に発生していた。

 髪には神経がないはずなのに、エランが毛先を掬えばくすぐったさを感じ、髪を梳かせば背筋がそわそわする。彼の指が髪の間を通っただけで頭皮がジンジンして、彼の手が後れ毛を回収するたびに首の後ろがぞくぞくする。首筋を直接触られた時には電流が走った。

 エランに触られるたびに体が勝手に驚いて、繰り返すたびに強烈な恥ずかしさを感じてしまう。

 最初の強気はどこへやら、もうスレッタの顔は熱くて火だるまになりそうだった。

 ───自分はいつの間にか、神経過敏にでもなってしまったのだろうか…?

「これから前髪とサイドも編み込んで…。スレッタ・マーキュリー?」

「ななっ、なんですかっ!?えらんさんっ!」

「顔が赤いけど、大丈夫?」

「ひぇっ!そうですか!?き、気のせいじゃないですかッ!!?」

 スレッタの優位性は完全に崩れ、何でもないようなエランの言葉にもわたわたと慌ててしまう。

 正直もう逃げ出したくて仕方ないが、自分から髪を編めと強く言ってしまった手前、やっぱりもういいです!と言ってしまっていいのか分からない。

 混乱したスレッタは、「つづけてください!」と言ってとりあえず現状維持を選択した。

 それからの数分間。

「やっぱり少し汗をかいてる。空調の温度を下げようか?」

「お、おかまいなくぅ…ッ!」

 前髪を編み込まれている間、目が合わないようにひたすら目を逸らし。

「やっぱり体調が悪いんじゃ…?」

「ぜんっぜん!元気ハツラツですよっ!」

 サイドを編み込まれている間、耳の近くから聞こえてくる声に勝手に悶えようとする体を抑えつけた。

「……もうすぐ終わるから」

「は、はい…」

 エランも何かを察したのか、終わりの頃には黙々と作業してくれた。そしてスレッタは髪の編み込みが終了した時点で、脱兎のごとく自室へと逃げ込んだのだった。


「ふいぃ~~…」

 部屋でひとりになった途端、安堵のため息がどっと出た。体の中の熱い空気をすべて出すように長く息を吐き、新しい空気を吸い込んでいく。

 スゥ、ハァ、と何度か呼吸しているうちに、だんだんと体が落ち着いてきた。

「………」

 冷静になった頭で考えてみると、いきなり逃げ出したのはエランにとても失礼だった。

 逃げ出す前に一応締めの言葉は言ってきたが、適切なセリフだったのかどうかすら分からない。

 たしか『これでチャラです!』みたいな事は言っていたと思う。…よく覚えていないが。

 スレッタは少し迷って、もう一度ダイニングへと戻ることにした。

 そろそろと音を立てないように扉を開けると、カツラの編み込みを解いている最中のエランと目が合った。

「エランさん」

「ああ、スレッタ・マーキュリー。これを取りに来たの?」

「えっと、えっと。…そうです」

 エランの声があんまり優しいので、つい嘘をついてしまう。

「ちょっと待ってね。すぐ終わるから」

 失礼な態度を取っていたと思うのに、エランは何も咎める事無く普通に対応してくれる。むしろ何も気にしていないように見えて、スレッタは戸惑ってしまう。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 カツラを受け取ろうとすると、ジッとこちらを見ている視線に気が付いた。

「な、なんですか」

「いや、機嫌は直ったかな…と思って。怒らせちゃったから」

 バツが悪そうに目を逸らす様子に、何も気にしていなかった訳じゃないと分かってホッとする。そうして少し嬉しくなって、気が付いたら「えへへ」と笑っていた。

 何だか強張っていた心がほぐれたような気がする。

「あれは、ほんとはエランさんに怒ってた訳じゃないんです。いらない気を回してた自分が恥ずかしくて、馬鹿な事したなって思って、ちょっと八つ当たりしてたんです。ごめんなさい」

「僕こそごめん。きみに甘えて、手間を掛けさせてた。…馬鹿な事なんかじゃないよ。色々と考えてくれて、すごく嬉しかった。ありがとう」

 普段のエランは心の内をあまり話さない。そんな彼からの率直なお礼に、心が一瞬で喜びに満たされる。

 お礼と謝罪を言い合えたことで、心の澱がスッキリと流れていったようだ。何の憂いも無くなったスレッタは、上機嫌のまま自室に戻った。

 扉をぱたりと閉めて、仲直りできてよかった…と先ほどまでのやり取りを反芻する。すると、はたと姿見に映っている自分の姿と目が合った。

 赤い顔をして、晴れやかな顔をして、嬉しそうに笑っているお姫様の姿だ。

 エランはただ編み込みをするだけでなく、後ろ髪を纏めてお姫様のように華やかな見た目にしてくれていた。

 何だか更に胸がいっぱいになったスレッタは、胸に抱えていたカツラをぎゅっと抱きしめてみた。

 あまり嗅ぎ慣れない、けれどすごくいい匂いがする。


 スレッタは匂いの正体に気付くその瞬間まで、幸せな気持ちで何度も深呼吸していたのだった。






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