プロローグ
カワキのスレ主ふわり、ふわり。
心地良い微睡みの中で、自分を呼ぶ声を聞いた。
「やあ、星見の君」
目を開けた先にいたのは、柔らかく笑う美しい男。親しげな微笑みは、一目でこちらの警戒心を溶かした。
悪戯が成功した子どものように目を細めた男は、美貌に見惚れる自分に向かって歓迎の言葉を告げた。
「ようこそ、常世の楽園・光の帝国(リヒト・ライヒ)へ。本当はもっと寒いところにあるんだけれど……今だけは、常夏の国」
夢のような場所、否、夢の中であるからだろうか。声もなく、考えていることが相手に伝わった。
「不思議かな? そうだよね、僕(やつがれ)もだよ。ふふ、まさかこんな陽気な場所を作るなんて、びっくりしちゃったな」
どこか楽しそうに笑った男は、ふと思い出したように自己紹介を始める。
「……ああ、自己紹介がまだだったね。はじめまして、僕(やつがれ)はエドガー。エドガー・バーティス。よろしくね」
エドガーの自己紹介に耳を傾けている間に、微睡みが尾を引いていた頭が晴れて、だんだんと意識がはっきりしてきた。
この場所で目を開けた時、エドガーは自分に「星見の君」と呼びかけた。
つまりエドガーは、自分がカルデアのマスターであると知っていて、夢に中に侵入したということだろう。だが、自分とエドガーには面識はないはずだ。こんなに整った容貌の男を忘れるとは思えなかった。
「どうして君たちのことを知っているのかって?」
自分の疑問を感じ取って、エドガーが答える。
「それはね……友達に教えてもらったんだ。僕(やつがれ)の親友は、とても物知りだから。今はあんまり長くお話できないから、紹介はまた今度、向こうで会った時にね」
小さな子どもをあやすような声でそう言ったエドガーは、一呼吸置いて自分に向き直った。
「もう薄々気付いてると思うけれど……実は、君たちにお願いしたいことがあって、夢に出ているんだ。君の国の言葉では「夢枕に立つ」って言うんでしょう? はじめてやったよ、上手くできているかな?」
小さく首を傾げたエドガーが続ける。
「君が目を覚ました時に、僕(やつがれ)がお話しした内容を覚えていてくれたなら成功。だから、結果はまだわからないんだ」
夢を介して接触を受けた経験は何度かあるが、起きた時に記憶が曖昧になっていることも少なくない。エドガーの言うことは理解できた。
「ああ、いけない。話が逸れちゃった、ごめんね。僕(やつがれ)はおしゃべりだ、って奥さんや親友にもよく言われるんだ」
話を軌道修正したエドガーは本題を切り出した。
「さ、それじゃあ本題だ。君たちには、この光の帝国(リヒト・ライヒ)に最高の夏をもたらしてほしい」
まるでリゾートのポスターに書かれたキャッチコピーのような言葉に面食らった。
一体どんな無理難題を頼まれるのか……身構えていたのが拍子抜けするくらい、エドガーの頼みは意外なものだ。
「……リゾートのキャッチコピーみたい? あはは、そうだね。そんな感じ」
しかし、早とちりは禁物だ。
エドガーが言う「最高の夏」が言葉通りの意味であるとは限らない。これだけでは判断しかねると重ねて問いかけようとしたところで、エドガーは困ったように眉を下げた。
「言ってることがよくわからない? う〜ん、なんて説明すればいいのかなぁ……」
言葉選びに悩んでいたエドガーが、ハッと何かに気付いたように声を上げた。
「あっ、ごめん、もう目覚める時間みたいだ!」
まだ聞きたいことはあるが、目覚めの時間が来てしまったようだ。
「そうだなぁ。僕(やつがれ)は、あんまり力になれないけれど……君が夢から覚めた時にいる場所にね、僕(やつがれ)のとても大切な子がいるんだ。あの子なら、君の力になってくれるだろうから、頼ってみて」
愛おしいものを思い出す顔で笑ったエドガーが「あっ」と言葉を付け足して笑った。
「ちょっぴりヤンチャだから気を付けてね」
その言葉を聞き終わると同時に、また意識がふわり、ふわりと浮かぶ感覚があった。
目の前のエドガーの微笑みがぼやけ始める。
「それじゃあ……おはよう、星見の君。どうか、君の夏が楽しいものでありますように——良いバカンスを」
◆◆◆
目が覚めると、そこは南国のビーチでした。
そんな文言が頭を過ぎる中、黒いTシャツにラッシュガードの少女が声をかけてきた。
「目が覚めたんだね。おはよう。状況は理解できているかな」
そう問いかけられて記憶を辿る。
内容は曖昧だが、何か不思議で……けれど、大切な夢を見ていた気がする。
それを伝えると、少女は首を傾げた。
「夢? ……どうやら、まだ意識が朦朧としているようだ。熱中症かもしれない。これを、経口補水液だ。飲んで」
差し出された経口補水液を口にする。
ほんのり甘い。真夏のビーチで汗をかいて、軽い脱水になっていたのだろう。
「そうだよ。そして、このビーチのライフセーバー。それより……君はビーチで倒れていたんだ。思い出せる?」
ビーチで倒れている自分を、ライフセーバーだと言うこの少女が見つけて介抱してくれていたらしい。
経緯がまるで思い出せない。
「なるほど、深刻だね。救急車を呼ぼうか」
無表情で端末を取り出した少女を慌てて止めた。
「…………。本当に?」
疑わしげな少女に、大きな声でゴリ押す。
咄嗟に口から飛び出した言葉だったが、声に出してみてしっくり来た。そうだ、最高の夏にしなければ……義務感にも似た思いが湧き上がる。
「……つまり、ただの観光客か。それにしては、少し毛色が違うように視えるけれど……」
少女はまだ自分を疑っているようだったが、ひとまず自分の言い分を通してくれた。
「まあ、良い。動けるようになったのなら、場所を移して。またビーチで倒れられたら仕事が増える」
さっさと立ち去ろうとする少女を咄嗟に引き留める。
「まだ何か?」
ここがどこで、何をどうしたら良いのか……自分は何もわからない宙ぶらりんな状態だった。
なんとなく、目の前の少女と交流を持っておくべきだと思って助けを求めてみたが……。
「……救急車が嫌なら自分で病院に行くことを勧めるよ。住所はここ。街の方角はあっち」
「記憶喪失の治療は管轄外だからね。街を歩いているうちに、記憶が刺激されて戻ってくるかもしれないよ」
少女は容赦なく自分の頼みを切り捨てた。
たしかに、ライフセーバーの仕事の範疇からは外れているだろうが……。
どうしたものかと言葉に詰まると、少女は餞の言葉を寄越して去って行ってしまった。
「それじゃあ——良いバカンスを」