プロローグ:ジェイルブレイク

プロローグ:ジェイルブレイク




今にも泣き出しそうな、重い灰空の下。

錠前サオリは、ブラックマーケット入り口の路地で、こちらに向かう少女を見た。

黄色のヘイローを浮かし、ペロロとかいうキャラのバッグを肩にかけて歩く様は、こんな場所には似合わない。だが、


「…………あれは」


サオリには見覚えがある少女だった。

たしか………名前は忘れたが、アズサの友人だ。

あの日、あの曇り空の下、あの瓦礫の上で、盛大に啖呵を切っていたことくらいしか覚えていない。

タイミングよく、青空になっただけの。

それほどの奇跡を起こしただけの。

右手を突き上げて、腹の底から綺麗事を叫んだだけの、平凡な女の子。

ハッピーエンドが好きとか、虚しいなんて嫌だとか、随分なことを言っていた。

……怒りはない。

捻れた教えは、未だにサオリの胸にこびりついてはいる。

けれど、虚しさに抗うことの意味は、今はもう、決して理解できないわけではない。

それに、そもそも本当に教義を信じられているのなら、何を言われても、受け入れてしまえばよいのだから。


ところで。彼女は、どうしてこんなところにいるのだろうか。

こんな日陰を歩いているというのは、つまり、「迷い込んでしまった」ということではないだろうか?


忠告くらいはしておくか。


「おい、……危ないぞ、お───」


近づいて声をかけてみたが、聞こえていないようで素通りされる。


サオリは、歩き去る少女の横顔を見た。

平凡であるなら、不安そうにしているのが「らしい」というもののはず。

だが、そんな素振りはなかった。歩き慣れている様子だった。


どころか。


「───は?」


横顔は曇っていた。


……いいや。

感情が削がれていた。

決意に磨がれている。

危険なほどに、一方向へと澄んでいる。

健康的な白肌の顔は、温度を消し去っていた。

希望を映す琥珀色の瞳は、陰に沈んでいた。

透き通る空に振り上げた拳は、何も持たず。

少女はただ。

目の前ではない、虚無へと歩いているように。

そう見えた。


「どういうことだ……………」


喉の奥で声を殺しつつ、闇市の奥へ奥へと進んでいく少女を、持ち前のスキルで尾行する。

そして見た。

少女は手榴弾を買っていた。

それも大量に。

ここがブラックマーケットであることを考慮すれば、気に留めることでもない。


「……な、ぜ」


しかしサオリは痛苦と共に思い出す。

少女が今、手榴弾を詰めたバッグにチラリと見えたそれは、ぬいぐるみの腹にあったそれと同じものだ。

……ヘイローを破壊する爆弾。

ロングヘアーの少女の脳はクエスチョンで埋め尽くされる。

なんのために、それを、手に入れている?


「なぜ、だ───」


声が漏れる。


「なんだ、それは…………」


息が荒くなる。

ただ、思い出した。


『私達の』


歩む足はどんどん早くなって。

どの面下げて?という自問すら振り解いた。


「……お前、何を」


肩をつかんだ。少女は背中を一瞬だけ固まらせた後、振り返る。

やはり瞳には、瞬きほどの輝きすらない。


「なんですか、急に。離してください」

「すまない、だが……」

「私急いでるんです」


腕を振り解かれながら、言葉を繋げようとするサオリを遮るように、「ああ」と声があった。


「……アズサちゃんの?」


その声は色を失っており、その瞳は熱を灯していなかった。が、平坦だった眉が寄せられる。


「……サオリさん、でしたか」

「ああ、そうだ。お前は……」

「名乗るほどではないです」


あはは、と平坦な声があった。

それは別にいいのだが、


「その、お前……」

「私がこんなところにいるのがそんなにおかしいんですか……」

「どう見てもここにいるような人間ではないだろう」

「私、ここ慣れてますから」

「そうなのか……?」

「補導も道案内もいりません。そもそも、もう用はないですし。……それでは」


早足で歩こうとする、暗い眼の少女。


「……待て」


名も忘れた少女の足が止まる。

ゆらゆらと、芯を失ったような動きで、ひどく緩慢に、こちらを向いた。


「お前……。

 ヘイローを破壊する爆弾を持っているな?」

「見られたんですか。あはは、いい趣味してますね。それが?」

「誰に使うつもり───、

 ……いいや、誰を殺すつもりだ」


一瞬、間があって、「魔女ですよ」と。


「魔女……まさか、浦和ハナコか?」

「そうです。私、彼女と知り合いだったので、顔も知ってますし、性格はまあ、よく分からない人でしたけど。でも向こうは、友達だと思ってるらしいですし。

 アビドスに行っても、私を歓迎してくれると思います」


好都合ですよね。

と、少女は平坦に言う。


「……それを殺すのか」

 

 はい。

 見ていたんですね、と、平坦な声。


「あんな人、もう、友達でも何でもありません。毒虫とかと同じ害虫ですよ。

 駆除ですね、駆除」


誰に向けたか分からない強い言葉。

目の笑っていない気丈な笑顔。


「……」


名は忘れた。

性格などもっと知らない。

だが、希望に溢れている、と思っていた。

アズサの友人であることを思い出す。

あれだけのことを言える人間なら相当な奴だ。

きっとアズサは、大丈夫なのだろう。

働く中。キヴォトスの片隅から見上げる青空を見て、そう思う程度には。

その程度には、アズサと、見知らぬ少女を勝手に信用していた。

ヒヨリが砂糖漬けにされたその時、アズサのことを想い、「自分が心配するほどでもない」と思うその前に。

……おそらくは、大丈夫だろう。

そう思っていた。


───それは、錠前サオリという少女が、これまで他者の善性というものにほとんど触れられず、そして、出会った善なる者があまりに純粋だったからこその、過大評価なのだろう。

そんなこと、サオリ自身も分かりきっている。

だけれど───あの青天と、あの咆哮は。

疑いも偽りもないものだと、そう思っていた。


……だからこそ、


「……なぜだ」


サオリには、わからない。


「なぜ、そんなにも、荒んだ目をしている。あの時の、お前は……」

「あの時?」

「そうだ。あの、荒れ地で───私達が壊したあの場で、お前は、希望を叫んだはずだ。

 ……それが、何故だ」


サオリは真っ直ぐに少女を見た。


「ああ……ありましたね、そんなことも」


少女はサオリから、目を逸らす。


「忘れてください。あんな黒歴史」

「何だと?」

「青春とかハッピーエンドとかどうとかこうとか……あんな大声で、私なんかが言うなんて、痛々しいにも程があって、…‥ああ、本当に、勢いだけでした」



恥ずかしいですよね。


「本当に」


ためらいもなく、そう言い切った。


「自分の思っていた物語では、あの子は私と同じことを想って、私と同じようにみんなを大事にしているはずだと信じてました。

 泣かせることも苦しめることも、悪意をもってしないと、無意識に思ってました。

 ……そんなの、身勝手にもほどがあって、自分の視野が狭くて恥ずかしいです。

 虚しすぎて嫌になりますね。

 笑っちゃいます」


それはまるで、イラストレーターに憧れて投稿を繰り返していた少女が、「これはいっときの熱だったから」と液タブを埃に埋もれさせるような、それくらいの、平凡な冷め方。だけど、


「……虚しい?」


そんな比喩が思い付く人生を送ってこなかったサオリには、それが、被って見えた。


「そんなことを……言えるんだ。

 お前が。全部、無駄だった、と言うような」


乾いた笑いが聞こえた。


「無駄だった……はい、その通りですよ?

 無駄でした。全部全部全部全部、今までの全部、無駄になりました。意味がないものになりました。ぜんぶ砂糖まみれになって、ぜんぶ嘘だってわかって───っ」


声のトーンが上擦った。


「無理ですよ。無理に決まってますよね?

 あはは、私、何言ってるんだろう。

 なので私───私が、ハナコちゃんのヘイローを破壊します。そうです……あんな人、いいえ人ですらありません、魔女に日常を壊されるのは一秒も我慢できません。そうでしょう」


彼女の荒んだ笑顔に、思わず、つかむ腕を手放しそうになる。

だが、肝心のことを、聞いていない。


「…………アズサはどうなる」


少女の暗く沈んだ瞳が、見開かれた。


「浦和ハナコを殺しに行けば、死ぬ。私の手を振り解けもしないなら、勝負にもならないぞ」

「わかってますよ」

「……心中しに行くつもりなのか」


見え透いていた。戦闘の素人であろう彼女には、それ以外、ヘイロー破壊爆弾を当てる方法はない。


「…そんな大層なものじゃないです。駆除みたいなものだって言いましたよね」

「心中ではないとしてもお前が死ぬことに変わりはない。

 ……お前がいなくなれば、アズサは、ひとりになってしまう。わかっているはずだ」

「……アズサはどうするつもりだ」

「彼女ならきっと大丈夫ですよ。

 アズサちゃんは、私なんかより強いです」

「そんなことは知っている。

 …………それでも、」


その先に言うことは決まっていた。


『アズサにはお前が必要だ』


「それでも、」


当たり前のことを言おうとした。


「……」


少女は、濁った目を見開く。

だが、ただそれだけだ。

いくらかの沈黙ののち、目を伏せて。

サオリが口を開くより早く、


「………何になるんですか」


憎悪すら滲んだ顔で。平凡な少女は、冷笑混じりの声で、口の端も上げず、次いで言う。


「言えば何か変わりますか。

 ハナコちゃんは止まってくれるんですか。

 全部なかったことになるんですか。何かがどうにかなって丸く収まってくれるんですか。ハッピーエンドになってくれるんですか?」


そんなの、誰にだって無理だろう。

せめてまともな終わりにしようとしている。

最善手はもう取れないから。

ビターエンドを掴み取るしか、もうないんだ。


だから、

邪魔しないで。


だから、


───何もできない人間は、口を出すな。


そう言っているのと同じだった。


「……そうだろうな」


サオリは、少女の肩に置いた手を離す。

冷たい目は、正論としか言いようがなかった。


少女は、サオリに背中を向け、


「……本当、勝手ですよね」


曇天の向こうへと、去っていく。


雨が降り出した。



少女の背中を見ながら立ち尽くすサオリは、大粒の驟雨に打たれていた。

帽子を濡らし、長い髪には湿った重さが与えられ、服には冷たさが染み込んでゆく。


…………何も、言えなかった。


聞いてもらえるわけなど、ない。

実際のところ、自分に諭す権利などないのだから、当然だと思うが。

ボロボロのキャップを被った、寒色のヘイローに傷んだ黒髪の少女は、雨粒が薄青の瞳に入るのを気にもしないように、鉛の空を見上げる。


……何かしようとなど、無理なのだろうか。


……数日前。

ヒヨリがアビドスに行ったと聞いて、身が裂かれるようだった。

怒りと憎悪に頭が染まった。

アツコとミサキを置いて、自分は一人で手がかりを探して、あの少女を見つけて、重ねて、身勝手に言葉を交わそうとして、そうして。


「本当に、何をしている……」


こんなことは結局、無駄なことだとわかっていなかったか。

あの少女を諭したとしても、何かが好転するわけでは決してない。

そもそも、そんなことは不可能だろう。


彼女たちの平穏を壊そうとしたし、

彼女たちの理想を焦土にしようとしたし、

先生の命を奪いかけた。

そんな自分が、誰かのために何かを為そうなどと、無駄なことをしようとしたと?


馬鹿らしい。

ただの自己満足だ。

なんで虚しい。

サオリは、本当に、本当にそう思って。


『アズサちゃんが人殺しになるのは嫌です……。そんな暗くて憂鬱なお話、私は嫌なんです』


想起する。


『友情で苦難を乗り越え、努力がきちんと報われて。辛いことは慰めて、お友達と慰め合って……!』


戯言だ。

傑作とは言えないほどに、夢じみた。

楽園の証明と同程度には、語ることすらはばかられる、夢物語。


『苦しいことがあっても……誰もが最後は、笑顔になれるような!

 ……そんなハッピーエンドが、

 私は好きなんです!!』


個人の嗜好だ。本人すら打ち捨てた、勢い任せの信仰未満。

そこに熱量はあっても、質量はないと思う。

だからこその、子供の空想。


『誰が何と言おうとも、何度だって言い続けてみせます!私たちが描くお話は、私たちが決めるんです!』


彼女は彼女の判断で、物語の向きを変えた。

誰が何と言おうとも、きっと、止まらない。

私程度では、止まらない。


『終わりになんてさせません、まだまだ続けていくんです!』


もう終わった。

もう続かない。

彼女の信じる物語の登場人物がハッピーエンドの壇を降りた。

甘味じかけのバッドエンドへの案内人と成り果てて、蟻地獄の底で艶やかに笑んでいる。

少女は、砂の底へ、自らの足で踏み出した。

だから無駄だ。

だから無意味だ。

だから無価値だ。

だから無意義だ。

だから無味だ。



だから。


だから。

だから。


だから。


どうしようもない。


虚しくて曖昧で意味のない、罪悪感によって生まれた贖罪もどきなど思いついても意味がない。意味がないのなら家へ帰ろう。現実的に、家族を連れ戻すための準備を。一人で。サオリとアツコは置いていく。危ないだろうから。仕方ないだろうから帰ろう。どうせ虚しくて意味がなくて何の解決にもならないのならばやるよりやらない方がその分マシだ虚しくないに決まっているいやどうせ虚しいだろうから───────────────────────────────────





『───私たちの、

 青春の物語を!!』





……青空は覆い隠されている。

見えるのは、泣き顔を見せる鉛色の雲だけ。

まるで、晴れという事象は虚飾と語っているようだった。


だけど。

だけど。


それがどうしてか、気に入らなかった。





皆、すまない。




「……アビドスに用があるのは、私も同じだ」





錠前サオリは、閉じた目を開けて。

己を突き動かすものの正体を知らぬまま、消えゆく少女の背へと足を踏み出した。










「……はぁ……?ふざけてる……。すまない、じゃなくって、そういう話じゃないでしょ!?」


「サッちゃん、そっか…………ていうことは、私も私達で動かないとだね」


「いや、なんで受け止めてるの」


「だって、サッちゃんって。いつでも誰かのために体を張っているじゃない」


「………………そうだけれど。

 とにかく話はしてもらおう。

 突っ走りすぎだよ、いっつもいっつも」






……青空は覆い隠されている。

見えるのは、泣き顔を見せる鉛色の雲だけ。

まるで、晴れという事象は虚飾と語っているようだった。


だけど。

だけど。


それがどうしてか、気に入らなかった。





皆、すまない。




「……アビドスに用があるのは、私も同じだ」





錠前サオリは、閉じた目を開けて。

己を突き動かすものの正体を知らぬまま、消えゆく少女の背へと足を踏み出した。










「……はぁ……?ふざけてる……。すまない、じゃなくって、そういう話じゃないでしょ!?」


「サッちゃん、そっか…………ていうことは、私も私達で動かないとだね」


「いや、なんで受け止めてるの」


「だって、サッちゃんって。いつでも誰かのために体を張っているじゃない」


「………………そうだけれど。

 とにかく話はしてもらおう。

 突っ走りすぎだよ、いっつもいっつも」


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