ごめんねスレッタ・マーキュリー─プロローグ、あるいは…─
※児童性的搾取を思わせる描写+スレッタの対人物評価に対しての捏造設定があります
エラン・ケレスは夢を見ていた。
まだ強化人士という言葉すら知らなかった頃。
訳も分からずペイルに連れて来られ、毎日怯えていた頃の夢だ。
その頃のエランは■■■という名前だった。ペイルでは味気ない番号で呼ばれていたが、まだそばには唯一その名前を呼んでくれる人がいた。
『■■■…、気を付けて…』
『〇〇兄、だいじょうぶ?』
柔和な顔をしたその人は、1つ2つ年上なだけなのに自分よりも随分と大柄な体をしていた。もう顔半分ほど背が伸びれば、自分たちに威張っている大人と並ぶくらいの大きさだ。
その彼が、気持ち悪そうに蹲っていた。真っ青な顔をして、ぶるぶると震えている。
いつも頼りにしている存在が弱っている。その事実に、心配と恐怖が心の底からせり上がって来る。
『〇〇兄、〇〇兄…』
彼をガクガクと揺さぶりたかったが、そんな事をしては吐いてしまうかもしれない。
涙目になりながら我慢すると、肩へそっと手を寄せて、背中をいたわるようにゆっくりと撫でていった。
しばらくして、彼は言った。
『■■■…。トイレや、倉庫…。いいや、とにかく一人でどこかの部屋に行くときは、物陰に気を付けるんだよ』
『ものかげ?』
『誰かが隠れていそうな所がないかどうか、しっかりとよく見るんだ』
『かくれんぼってこと?』
『似てるけど違う。隠れているのは悪魔で、近寄って来た子供を捕まえようとしてくる。…だから、すぐに入り口から逃げられるようにしながら、誰かがいないか確認するんだ』
『捕まったら、どうなるの?』
『…気持ち悪いことをされる』
『もしかして、だから今気分が悪いの?』
『………うん。でも、まだマシかもしれない。酷い時には、体を裂かれる』
『!!』
『実際に、そうなった子を知ってる。彼は成績が著しく落ちて、しばらく前に姿を消した』
『死んじゃうの?』
『死にはしない。けど、結局は死ぬことになるかもしれない』
『………』
『物陰には悪い悪魔がいる。だから、気を付けるんだ■■■』
そう言って自分に身の守り方を教えた彼は、暫くあとに姿を消した。
いや、実験がもう一段階上がって、グループが分かれたのだったか。
どちらにしろ、それ以来彼には会っていない。
■■■が成長し、あの頃の彼のような大きさになるまで、悪魔に捕まる事はなかった。
慎重に行動していたという事もあるが、どうも悪魔には好みがあるらしかった。
可愛らしい顔、線の細い顔、そういった顔を持った子供が好まれるようだった。
幸いにしてごく普通の少年らしさを持った■■■は、執拗に狙われることもなく、気まぐれに手を出されることもなく、何とか無事に成長していった。
けれど強化人士となり、影武者となり、顔を作り変えてからは、そうもいかなくなった。
『綺麗な顔だなぁ』
どこか感嘆とした、おぞましい響きの声が聞こえた気がした。
「───ッ」
はっと息を詰める。
周りを見ると、地球行きの宇宙船、その末席にエランは座っていた。
とっさに左側を見ると、帽子をかぶった少女が眠り込んでいる。
誰だか分かる。彼女の名前は、スレッタ・マーキュリーだ。
そこまで考えて、エランは安堵にほっと息をついた。よかった、覚えている。
あの時の彼のように、忘れなくてよかった。
「………」
エランはぱちりと瞬きをした。
自分よりも年上の、柔和な顔をした彼の姿。
今まで影も形もなかった存在が、エランの頭の中に唐突に現れていた。
最近、こういった事がよく起こる。実験や調整をしなくなったせいだろうか、無くなっていた記憶が次々と蘇って来るようになった。
同時になぜか悪夢も見るようになったのだが、そちらはあまり覚えていない。
ため息を吐いて、座席に深く身を沈める。周りからはすぅすぅといくつかの寝息が聞こえて来る。今は夜中…就寝時間中だ。
普段ならすぐに行動できるよう深く腰掛けることなどしないが、今の状況なら問題ない。
地球行きの宇宙船は基本的に座席が大きく作られている。窓側に座っているスレッタへ危害を加えようとするなら、エランの前へ乗り上げなければならない。
ある程度は、安心できる環境だった。
エランは再び眠る気分にもなれず、まるで揺りかごのように四方が迫り出している座席を見つめた。
宇宙から直接フロントへ行くよりも、大気圏がある分地球へ行く方がよほど大変だ。
昔と違って今は反重力装置があるので体への負担はそれほどでもないが、少なからず衝撃はある。
だから民間用の地球行きの船は、体が弱い人でも耐えられるように座席が改造されていた。大気圏へ突入する際には、体を固めるようにして前方からセーフティバーが降ろされる。
おそらくスペーシアン側が本気を出せばもっと快適な環境を作れるだろう。けれどアーシアン側の、それも民間用ともなれば、ひたすらに頑丈にするしかなかったようだ。
そのせいで今のエランに安心感を与えているのだから、何が幸いするのか分からないものだ。
もう一度左側を見る。深く眠っているだろうスレッタの姿は、いつもと印象が違って見える。
今の彼女は化粧をして、少し大人のような装いをしていた。
目立つ髪色は、それでも染めることはできなかった。彼女は自分の髪の色を気に入っていたし、エランの方も、彼女の髪の色は好ましいと思っていた。
一応はニット帽をすっぽりと被って、なるべく人目に付かないようにはしている。
対してエランの方は髪を黒く染めていた。肌の色も濃く変え、一見するとスレッタと同郷のように見せかけていた。
よく見れば顔立ちの系統が違うのが分かるが、混沌とした人種の坩堝になった地球では、それくらいでは違う地域出身だとは判断できないだろう。
もちろんこのくらいの変装だと、すぐに見破られてしまう可能性はある。
けれど、整形するには時間も金も心許ないし、何よりフロントで施術すればデータが残ることになる。
子供だましの変装でも、これが限界だったのだ。
地球に行けば施術できる機会もあるだろうが、どちらにしろスレッタの体を切り刻んだり、薬で変形させるつもりはエランにはなかった。
あるとすればエランの方だが、おそらくスレッタの方もエランの整形には反対するだろう。
彼女はよくこちらの顔を見ている。
『エラン・ケレス』の顔は端正だから、もしかしたら気に入ってるのかもしれない。
「んむぅ…、えらんさん?」
隣にいるエランの気配を感じたのか、唐突にスレッタが起き出してきた。
コシコシと目を擦ろうとしたので、そっと掴んでやめさせる。せっかくの化粧が滲んでしまう。
「…起きた?まだ夜だから寝ていていいよ」
「んー…」
寝ぼけながらこちらを見て、途端にぱっと目を開かせる。しばらくして、スレッタはホッとしたように微笑んだ。
「エランさんだ、一瞬びっくりしちゃいました」
「ああ、…色々と、変えているからね」
あまり大っぴらにできる会話ではない。元よりシンとした機内なので、出来るだけ小さい声で囁き合う。
何となく、手は繋いだままだ。彼女も嫌がらずに手を握り返してくれている。
「…その髪色、元に戻るんですよね?」
心配そうな顔をするスレッタに、エランは頷く。
「染料で染めたわけじゃないから。しばらくすれば、元に戻るよ」
肌もそうだ。専用のクリームで肌を濃く染めているが、1週間ほど何もせずにいればすっかり元通りになるだろう。
「よかった…」
微笑むスレッタに、何だか胸がもやもやする。
「平凡なのはいや?」
思わず衝動のままに聞いてしまった。
「…平凡?よく分かりませんけど、エランさんの髪色は好きです」
初めての外見への言及に、エランは思いのほか胸が痛くなるのを感じていた。
エランの顔は、髪色も含めてすべてオリジナルのものだ。元の髪色は生憎覚えていないが、きっと周囲に埋没するような黒や茶系統に違いなかった。
「エランさんの髪色、灰…うーん、シルバー…アッシュ?とか、そういう色ですよね。遠くからでもよく分かるから、すき…あっ!いや、その…いい色です、よね。あはは…」
何故か途中から焦りだしたが、やはりエラン・ケレスの髪がいいらしい。エランは少々むっとしながら、衝動的に言葉を吐き出した。
「僕の元の顔はきっと平凡だったよ。そんな顔じゃ、君とは釣り合わなかっただろうね」
そこまで話して、エランは自分の言った言葉に自分で驚いていた。
釣り合う、とは何だろう。別に彼女と釣り合う必要なんか欠片もないのに。
「エランさん、少し声が大きいですよ」
焦ったように囁くスレッタの言葉を、口元に手をやりながら呆然と耳にする。
返事などできるはずがない。首をかしげるスレッタを横目に、エランは言葉を出さないように黙り込んだ。
何かおかしい。自分でも思っても見ない言葉が飛び出る。…覚えていない夢の影響だろうか?
ひたすら沈黙していると、スレッタは諦めたように話し始めた。
「顔じゃなくて、髪ですよ。遠くからでも分かっていいじゃないですか。ミオ…えーと、花嫁さんなんか綺麗な銀髪で、それはもう見つけやすかったです。わたしも結構、自信があるんですよ?」
「……?」
スレッタのいう事は終始髪の色に一貫している。その事に気付いたエランは、改めて彼女の方に目線を向けた。
エランが自分をきちんと見ている事に気付いたスレッタは、嬉しそうに言葉を続ける。
「そうだ、決闘委員会の、シャ…いや、あの人も、綺麗な金髪ですよね。おまけに長くてサラサラで…。体も大きいから、すぐ見つかります」
「………」
「体が大きいと言えば、あの人、ちょっと怖い…えっと、わたしと決闘した人ですけど、あの人もよく目立ちますよね。前髪がこう…ワンポイントだけ色が違っていて」
「……スレ…、スカーレット」
「…え、はい」
「きみは、髪の色以外に何かこだわりはないの?」
「…?どういうことですか?」
きょとんとしているが、その顔をしたいのはこちらの方だ。彼女の話はなにかがおかしい。
「髪だけじゃなくて、顔について何かないの?誰かの顔が好きとか、そういうのは…」
「お母さんとか、友達の顔は好きですよ」
「……綺麗だとか、格好いいとか、そう思う顔の人はいないの?」
「…よく、分からないです」
困ったように言うスレッタに、エランは慎重に言葉を重ねた。
「…もしかして、顔の見分けがつかない?」
「い、いえ。そういう訳じゃないです。ちゃんと、皆さんの顔は区別できますよ」
「…じゃあ、何が分からないの?」
「あの、顔が格好いいとか、綺麗とか、そういうのが、よく分からないです」
思いもしなかった言葉に、エランは目を見開いた。どういう事だろう。人の顔の見分けは付くのに、人の美醜が分からないと言うのだろうか。
じっと見ていると、スレッタは言い訳のように話し始めた。
「…水星では、うんと年上のお爺さんやお婆さんしかいなかったんです。水星は過酷な星です。比較的年が若い人でも、みんなしわくちゃのお顔をしてました」
こんな感じです、と頑張って顔に皺をよせようとするので、エランはもう片方の手で皺が出来始めた額をつんと触ってやめさせた。
スレッタは妙に嬉しそうに自分の額に手をやりながら、続きを話してくれた。
「…ライブラリにはたくさんの映像作品やコミックがありましたけど、実写はほとんどなかったから、その、水星を出るまで、実際に若い人を見ることがなかったんです」
だから、一番目を引く髪の色を基準に美醜を判断していた。そういう事だろうか?
「…じゃあ、僕が……最初から違う顔でも、きみの態度は変わらなかった?」
「当り前じゃないですか」
まっすぐにこちらを見て頷いてくれる。何を言っているのかと、不思議そうな顔すらしている。
「僕の髪の色が本当はありふれた茶や黒だったとしても?」
「…少し探しにくくなりますけど、それがエランさんの髪色なら仕方ないです。よく目を凝らして探すようにします」
髪の色も、特に美醜の判断と言うわけではなく、ただ単に見つけやすいかどうか、それだけなのだろうか。
「………」
「…エランさん?」
「埋没していても、僕を探してくれるの?」
「はい」
「…髪の色が明るければ見つけやすい、ただそれだけ?」
「概ね、そうです」
「……僕の顔を時々じっと見てくるのは、どうして?」
「え、それは…、エランさんが、わたしを見てくれるから、嬉しくて…」
「………ふ」
腹に力が入る。鼻から微かに息が漏れる。
「…ふふっ」
「───」
気が付けば、エランは小さく震えながら笑っていた。
シンとした機内で、あまり声を立てる訳にはいかない。出来るだけ抑えるようにしながらも、くっくっと喉の奥で音を鳴らす。
自分の笑い声なんて、初めて聞いた。
でも、可笑しくて堪らない。
『エラン・ケレス』の顔は、世間知らずの自分でも分かるほど端正な顔だった。
派手さはないが、腕利きの職人が作ったドールのような…細心の注意を払って目や口や鼻を収めたような、そんな完璧な造形をしていた。
なのに、彼女にとってはそんなのどうでもいいことらしい。
平凡な顔でも、端正な顔でも、彼女にとってはすべてが等価値なのだ。
エランは頑張って大きな声を上げないようにしながらも、心の内から悪夢の残滓が溶けて消えるような心地よさを感じていた。
スレッタは目を丸くしてこちらを見ている。自分でも笑い声など初めて聞いたのだから、当然彼女だってエランの笑い声は初めて聞くのだ。
エランは我慢しすぎて痛くなってきた腹を抑えながら、スレッタに礼を言った。
「ありがとう、きみのお陰で、僕はいつも救われてる」
顔を真っ赤に染めたスレッタは、恥ずかしそうに、けれど嬉しそうにはにかんでくれる。
……ごめんね。
それを見ながら、エランは彼女に心の底から申し訳なさを感じていた。
今はまだ、彼女は笑ってくれている。けれど、1週間、1カ月、…1年が経てばどうだろう。
最初の日に泣いていたように、また彼女は泣き崩れるかもしれない。泣きながら、こちらを詰ってくるかもしれない。
エランは彼女に、決定的な事を言っていなかった。
この逃亡は、彼女の母から逃げているのだと。…もう家族の元に返す気はないのだと、一言だって告げていなかった。
…卑怯者だ。狡い仕打ちだと自分でも思う。
けれどどうしても彼女にこの手を取ってもらいたかった。それが無理なら、せめて彼女の心に惜しむべきものとしてずっと残っていたかった。
自分はすべてを置いてきた。夢の中の、あの優しい柔和な彼の記憶を置いて、もしかしたら生きているかもしれない彼そのものを置いて、スレッタの手を取ってあの学園を飛び出した。
彼女にもすべてを捨てさせて、お互いだけを手に取って……飛び出して来てしまった。
エランは、詫びる。繋いだ手をぎゅうっと握って、心の中で謝り続ける。
ごめんね、スレッタ・マーキュリー。
でも、もう僕は、きみの手を離せそうにないんだ。
地球に落ちた種
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