プランBだ。
人間、だめな時はある。
例えば、劇や撮影の演技で何度もリテイクされた時。
例えば、探し回ったランチが目の前で売り切れた時。
例えば、目覚ましが鳴らなくて遅刻してしまった時。
例えば、授業の宿題をやったのに忘れてしまった時。
そんな暗澹たる今日を振り返りながら、アクアは斎藤家(自宅)へ帰宅した。
「ただいま」
言いながらも、返ってくる言葉はない。
今日は、ルビーもみやこもいないのだ。
二人はB小町の新曲のプロモーション撮影に出張中。
アクアは一人だ。
靴を脱ぎ、荷物を放り投げると手洗いをしてから部屋着に着替える。
「腹減ったな」
冷蔵庫を開けるが、めぼしい食材は見当たらない。
「しけてんな」
つぶやきながら、居間のソファーに腰掛ける。
今から家を出て買いに行くのも億劫だったが、ランチの失敗を嫌でも思い出して二の足を踏む。
作るのも、頼むのも、外に出るのも面倒くさい。
「あー・・・光合成できればいいのに」
益体もない事を無駄に虚空に放ちながら、そのまま横になる。
「つかれた」
上手く行かない事は珍しくないが、慣れることはない。気持ちはヤサグレ、ささくれだっている。
『アクア君』
不意に、あかねの声が脳裏をよぎる。
「会いたい」
会えない。
こんな情けない姿を見せたくはない。それが強がりだと理解しているが、彼とて男だ。
恋人に弱い所を見せれるようになったが、情けない所はせめて隠したい。
「・・・・・・・・・あかねの飯、食べたいなぁ・・・・・・」
意味のない願望を口ずさみながら、アクアは、眠気に意識を委ねた。
「♪〜〜♬〜〜〜」
不意に、アクアは心地よい鼻歌で目が覚めた。
同時に、鼻孔をくすぐる蠱惑的な料理の匂い。
「・・・なんだ?」
目をこすりながら起き上がろうとして、毛布がかけられているのに気がついた。
そして、聞き慣れたその鼻歌にも。
まさかと思いながら、アクアは台所へと視線を移す。
「あ、おはようアクア君」
「あかね・・・どうして・・・」
ぼんやりする頭のままで、アクアは思考がまとまらない。
台所で手際良く料理をしていたあかねは、火を止めるとパタパタと近づいてくる。
歩く度にエプロンの裾がひらめいて扇情的だ。
「ルビーちゃんから連絡あってね。『お兄ちゃん精神的に参ってると思うから側に居てあげて』って。鍵は前にミヤコさんに借りてたからそれを使ったよ。はい、とりあえずコーヒー。ミルクは入れない、砂糖は2つ。で良かったよね?」
「ん? あ、あぁ。わるい」
コーヒーの入ったマグカップを受け取り一口すする。
温かい。
苦味で次第に頭がシャンとする。
あかねはニコニコしながらソファーの隣に座ってきた。
「・・・なんだよ」
なんとなく居心地悪く、コーヒーをすする。猫舌のアクアに、淹れたてのコーヒーはキツイ。
「んふふふー。恋人の隣に居れて嬉しいんだよー」
「・・・そうかい」
やたらと、今はその言葉がこそばゆい。
エプロン姿をしたあかねの姿も、まっすぐに見れないほどに。
「えへへ」
「なんか、やけに上機嫌だな」
「うん。アクア君。裸エプロンより、こういう日常的な姿の方が好きなんだね。なんか、エッチ」
「フブっ!」
エプロンの裾を持ち上げて、言い放つ言葉に、アクアは吹き出した。
猫舌故に口には殆ど含んでいないので、被害は少ない。
「お! お前は! なにを根拠に!?」
「うーん・・・視線の熱さ? 裸エプロンとかコスプレとかイメプレの時も凄かっけど。今日のはなんというか、もっと粘ついてて、なんか、いい」
妖艶に笑うあかねに、アクアは顔を伏せる。
なんのことはない、その通りだったからだ。
そんなはずはないのだが、あかねの表情が勝ち誇っているように見えてしまう。
「んふふふ。またアクア君を誘惑する手段が増えちゃったなぁー。あ、今晩はビーフシチューになります」
訂正する。
間違いなく勝ち誇っている。
恋人として、男としてビシッと決めなけれらならない。
「・・・・・・牛肉は、おっきいか?」
「圧力鍋でコトコトしてて、トロトロですよ〜」
「・・・ジャガイモとニンジンはゴロゴロか?」
「玉ねぎも入ってますよ〜グリーンピースは抜いてるよ〜」
「バゲットは?」
「カリカリに焼いてるフランスパン。あと、ガーリックトーストにしてるのもあるよ〜」
「・・・・・・・・・・・・食べる」
「はい、それじゃあ用意するね。アクア君は座っててね」
アクアは、敗北を認めた。
クウクウ鳴るお腹に、嘘はつけない。
モゾモゾと毛布を肩にかけたままアクアはチョコンとダイニングテーブルの椅子に移動して座る。
テキパキと用意するあかねを見て、とりあえず今晩はあかねを寝かさない。
アクアはそれを己に誓った。
余談だが、アクアはその誓いを守った。