ブラックマーケットのフィクサー概念
ブラックマーケットの一角。どこにでもある吹けば飛ぶような雑居ビルの一室の前で。
ノックしようと片手を上げた少女は、僅かに空いたドアの隙間から聞こえる声に思わず息をひそめた。
「────お久しぶりですね。ええ、こちらは変らず楽しく過ごしていますよ。──そうですか、はい、ええ、彼女も問題なく。ああ、でもあなたに会いたいようなことは言っていたそうですよ?──ふふ、私は無理強いはしませんよ。あなたがその気になったら会いに行ってあげてください。」
「──もちろん、いつでも掛けてきてください。寂しくなった時でも、悩んでいる時でも。────また、為すべき何かを見つけた時でも。何もできない私でも背中を押すくらいのことはできますから。それではまた。────親愛なるリオ」
意図せず盗み聞きしてしまう形になったが、電話が切れたらしいことを察知した少女は居心地の悪さを感じながらも、宙を彷徨っていた手を再びドアに────
「──さて」
「っ!」
「お待たせしまして申し訳ありません。友人から急な電話がありまして」
ドアに手をかけ、そのまま入室する。勧められるままにテーブルに着くとどこからともなく紅茶が給されるが、普段飲んでいるものと比べるまでもない安物のそれに心が安らぐのを感じた。この気取らない味がこの部屋の主のようだと頭の片隅で考える。
「……いえ。こちらこそ盗み聞きのような形になってしまって」
「最後に名前が聞こえましたが……もしかして行方不明になっている、ミレニアムの会長さんですか?」
「ああ、聞こえてしまいましたか。彼女も私の友人なんですよ。強い──全てを敵に回してでも貫かんとする強い信念を持った。いろいろ有って出奔しましたが、今でもたまに連絡を取っているんです。近況報告を兼ねて、ね」
敬意と親愛の情をもって語られる、顔も知らぬ他校の先輩。ビッグシスターと呼ばれていたらしい、皆に愛され、彼女自身も学校を愛していただろうその人と自分を比べてしまい、知らず視線が下を向く。
「……ちょっと、うらやましいです」
「その人からは、守りたいって思いが噂話を聞いただけでも伝わってきたんです」
「友人を、母校を、キヴォトスを。守るべき全てを敵に回してでも、誰かの命を奪ってでも成し遂げようとする強い信念。私は……あんな学校を間違ってもそんな風に思えませんから」
「そう卑下するものでもないでしょう」
「何もあなたを形作る世界は学校だけではないんですから。もっと小さくても確かな絆をあなたは持っている」
「────補習授業部という居場所を」
話したこともない相手と自分を比べて沈んでいた視界と思考がその言葉で浮上する。
ああ、そうだ。あんな学校のことなんて気にする必要はなかった。他人と比べる必要なんてなかった。私が選んだ道は、彼女たちは────!
「…………ああ、ええ。」
「ええ、ええ、ええ。そうです。やっぱり間違っていなかった!あなたを、みんなを信じた私は正しかった!あの嫌味とマウントと皮肉と足の引っ張り合いしかない掃き溜めにも本当に素晴らしいものはあったんです♡♡♡」
「発起人を欠いたエデン条約も、何の信念も無いベアトリーチェの操り人形も、パイの奪い合いにしか興味のない案山子たちも!補習授業部の絆には及ばなかった!!!」
「……ああ、でも。ヒフミちゃんを、アズサちゃんを、コハルちゃんを集めてくれて、先生とも引き合わせてくれたことだけはナギサ様に感謝してもいいかもしれませんね♡」
「全ては信念のぶつかり合いの結果。政や他人の思惑の混じらないあなたたちの純粋な願いが勝ったのもある意味当然でしょう」
「(────あるいは、あの超人が健在であれば)」
「うふふ♡もちろんあなたにも感謝しています。今日も、後処理が一段落ついたのでお礼を言いに来たんです。エデン条約の背景やアリウスの内情を教えてもらえなかったら、ヒフミちゃんたちが取り返しのつかないことになっていたかもしれない。そう思うと………本当に、ありがとうございます。一体どうしてこの恩を返せばいいのか」
改めて思う。あの日、周囲から向けられる期待という名の欲望に疲れ果て彷徨った果てにこの人と遭遇したのは運命だったのだろう。愚痴を聞いてもらい、周りに惑わされることなく信念を貫くことの尊さを教えてもらった。その結果、私の周りから鬱陶しい羽虫どもはいなくなり、補習授業部の皆に出会えたのだから。
「いえいえ。こんなところにいるといろんな情報が入ってきますから、それを少し回しただけです」
「────私がしたのは、あなたの言葉を聞いて、視野を広げて、背中を押しただけ」
「補習授業部の彼女たちの身を守るだけならもっと簡単な方法はあったでしょう?でもあなたは危険を冒してまで動いた。これは、あなたの信念を貫いたその結果。私は、それを見られただけで十分です」
ああ、本当にこの人は……
「…………本当に……」
「最初はもう乙女の純潔を捧げるしかないかと思っていたんですが」
「こら、女の子がそういうこと言わない」
「ええ、ふふ。そういうことでしたら」
「また、補習授業部の皆とたくさんの思い出を作って。そのお話をしに来ますね」
「私がお力になれるならいつでも呼んでください。シャワー中でも飛んできますから♡」
補習授業部とこの人のためなら、私はきっとなんだって出来る。疎ましさしかなかった自分の優秀さも今となっては皆の役に立つことに感謝しかない。
「それでは、失礼しますね。この後はシャーレに、先生の所に伺う用事があるので」
「ええ、お気をつけて。ハナコさん」
「────シャーレ、“先生“ね」
「あら、あら、あら。やはり気になりますか?」
客人が去り、一人になった静寂の中で物思いに耽っていると唐突に腕が生えてきた。
白い両腕はそのまま首に絡みつくと後頭部に柔らかな重みがのしかかってくる。
こんなことができる相手で、こんなことをしてくる相手の心当たりは1件しかなかった。
「重いんだけど、ワカモ」
「…………」
「あ、痛い痛い。首締まってる。それより先生ね」
「確か直接会ってたよね。どんな人?」
腕を叩いて降参の意を示したからか、質問に答えるためか、腕に込められた力が緩んだ。
とはいっても、声はわかりやすく不機嫌なままなので後でご機嫌取りが必要だろう。
「……デリカシーのないいけずと違って紳士でしたわね」
「まあ、あちらは“大人”だからね」
「その、“大人”の責任とやらでシャーレの権限の元あちこちの学校の問題に介入していますわね。そうして無軌道で極端に走りがちな生徒たちを親身に導いている。顔も中々整っていましたし、年頃の少女には中々毒ですわね」
「私にも心を砕いて下さいましたし、あちらに寝返るのも悪くないかしら?」
「────ふぅん」
やはり先生とやらは噂通りの人間らしい。数年がかりで絡めとった暁のホルスが土壇場で持っていかれたと黒服が嘆きながら称賛していたけれど、どうやらその能力以上に性質で選ばれたとみるべきか。
ちなみに最後の構ってアピールは思考に忙しいから無視。
「…………先ほどから随分とご執心ですけど。やはりあなたでも同業他社は気に入らなくて?」
あなたが望むなら、と耳元で囁かれる。
ワカモの声がわずかに硬く鋭い。これは嫉妬と、──恐怖?
あの人なら自分を変えてくれるかもしれないという、変化への恐怖。直接会ったが故の彼女の直観的拒否感。
彼女に願えばヘイローのない先生は明日にでも排除できるだろう。
だけど────
「その必要はないよ。私と異なる視点で生徒を導く先生は興味深いし、先生もまたその信念のもと動いている。それを邪魔することはできない」
「────だけど」
「意見をすり合わせて妥協したり、特権をもって一部の生徒の違法を誤魔化したり。それは、“大人”のやり口だよ」
「子供ならば、意見は真っすぐぶつけ合い打ち負かすべきだ。ルールが立ちふさがるならば正面から破りに行くべきだ。私はそちらの方が好ましい。だから」
「先生が皆の手を取り引き留めるというのなら」
「私は私の信念の元、皆の背中を押しましょう」
「悪い人。この間のミレニアムの時も、エデン条約の時もそうやって何人誑かしたのかしら」
「人聞きが悪いな。私はただ、偶然相席した相手と世間話をするだけだよ。そこから情報を得るのも、判断を下すのも全て彼女たち自身でなければいけないんだから」
「だから、モモイもユウカもトキもリオもナギサもミカもヒフミもアズサもサオリもハナコも、他の皆も」
「全ては皆の信念がぶつかり合った結果だよ。例え、その先が断崖絶壁だろうと。へし折られようと。最後まで貫き通そうとしたんだから本望でしょう」