ピュグマリオンの手配書Ⅲ

ピュグマリオンの手配書Ⅲ


 ここから見ることができるのは、すぐ真下の大きな椅子。右にはカーテンのかかった大きな窓、窓の近くにはベッドもある。窓の向こうの景色はよく見えない。正面にある扉の向こうもわからない。広い部屋だが掃除は行き届いている。清潔で、調度類は少ない。さっぱりしている。いい部屋だと思う。ただし、他の部屋のことを知らない。この壁から動けない身を今は窮屈に思う。「今は」というのは二十六日前からだ。二十六日前から、このようにものを考えることができるようになった。それまでは自分というものも知らず、ただ壁に貼りついているだけの紙だった。

 あの日、声を聞いたと思ったら、急に視界が開け、自分と自分の外にある世界があらわれた。世界の全てはこの部屋で、見ることはできるが触れられない。だが、向こうから近づいてきたものについては触れたり温度を感じたりできる。この部屋の主は毎日必ず手で触れにくる。その手に温度があることもわかる。声を聞くこともできるし、もたせかけてきた頭の、髪の柔らかさを感じることもある。血の匂いがすることもある。その心の内までも、触れた部分から流れ込んでくる。この男を通して外の世界や感情というものを知った。

 最初に聞こえた声は、この部屋の主のものだった。自分を生み出し、毎日心を通わせる相手。この男が部屋に戻れば、いつもその姿を目で追う。男もこちらに視線を向けるが、その目はいつも自分を通り越して、別のものを見ていた。この男が本当に見つめているのは、壁に貼り付く薄っぺらな自分ではなく、肉体を持った相手だ。そのことは苦しく、憎らしく、哀しい……。なぜ自分は生まれたのか。何もできやしないのに、生まれる必要などあったのか? 

 自分の想いをこの男に伝えたいと思った。だが声は出せない。この場所から抜け出すこともできない。何度か出ようとしたが無駄だった。いろいろ試すうち、男が眠っている間に、その意識の奥に繋がることができた。七日前のことだ。意識の奥、夢というものに入り込むことで自分の身体が自由になり、自分から男に触れることができた。苦しい想いを訴えるつもりが、触れた瞬間全てどうでもよくなった……。


 あれから更に五日が過ぎた。逢瀬を繰り返すうち、次第に自分の存在が薄らいできている。この行為はいのちを縮めてしまうらしい。自分の消耗を防ごうとすれば相手を消耗させてしまう。なぜこうも不自由な身なのか。このまま自分は消えるのか。掴まれた腕が砂になって崩れた。自分の形を保っていられない。次々こぼれ落ちる身体を掻き寄せて、男が砂に埋もれていく。もう無理なのか。夜風が窓のカーテンを揺らしている……。



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