ヒトで、なし(落丁)

ヒトで、なし(落丁)

ななしのだれか

 べちゃり、ずしゃり。

 ぬかるんだ泥に足をとられて、右足を引きずりながら懸命に森を駆け抜けていた小さな影が転んだ。

「きゃん! きゃんきゃん!」

 泥にまみれる小さな影の周りを、一匹の子犬がぐるぐると回る。頭から背にかけて黒い菱形の模様がある白い子犬は、手足を泥で汚しながら立ち上がれない影に寄り添う。

「く、そ……動け……動いてくれ……!」

 白く塗られたブリキでできた、プレートアーマーの騎士人形。埃と泥に汚れ、錆の浮かぶ斑模様の体で、生きたオモチャは立ち上がろうとしていた。

 かつて人間であったオモチャは、ホビホビの実の能力者・シュガーの支配から逃れた唯一のオモチャである。故にドンキホーテファミリーから「白騎士」と呼ばれており、見つかれば即座に始末される対象であった。

 天空の孤島を独り逃げ続けた白騎士は、遂にドンキホーテファミリーに見つかった。己に寄り添う子犬を連れて城下の森に逃げこんだが、錆びついて軋む体は、とうとう限界を迎えてしまった。

「動け……! 動けええっ……ッ!!」

 両手と左膝をついて、白騎士は立ち上がろうとする。けれど茶色い錆が関節に蔓延る右足は僅かしか動かず、バランスを崩した体はまた泥に沈んだ。

「ッ……ハァ……ハァ……!

 くそ、もう、ここまでなのか……!」

 悔しくて、情けなくて。唇があれば、血がしたたる程噛んでいただろう。だがあいにくと白騎士はブリキのオモチャなので、血の通った柔い唇も硬い歯も無かった。

「きゃん……くぅーん」

 足掻く白騎士に、か細く鳴いた子犬がいたわるように鼻先をこすりつけた。子犬であれ、30センチ程の背丈しかない白騎士には大きなその体。この子の柔らかさを、温かさを、ブリキの体は伝えない。

 ギシギシ、ギイギイと、いやな音を立てて軋む体を無理矢理起こした白騎士は、落ち着せようとゆっくり子犬を撫でた。

 体を寄せてくる子犬の首元に手を伸ばす。何枚もの端布を結んで作った、首輪代わりのスカーフもどき。ミトン状のブリキの手で、いっとう大きな結び目を解いた。

 スルスルと、薄汚れたスカーフもどきが、子犬の首から外れてぬかるみに落ちた。

 不思議そうに、不安そうに、きゅーんと鳴く子犬に、白騎士は語りかけた。

「おむすび」

 そう名付けた子犬を、うながすようにポンと軽く叩いた。

「ほら行け、行くんだ。

 俺と一緒じゃ殺される。お前だけでも逃げるんだ」

 きゃう、きゃんと子犬が吠える。意味は分からずとも、嫌だ、と思っているのだろう。

 けど駄目だ。猛獣が駆けずり回るこの森に放つのは、危険すぎると分かっていた。それでも、このまま白騎士と一緒では、確実に追手に殺される。

 生きていれば、また“彼”に会えるかもしれないのだから。心を鬼にしてでも、この子を逃がすのが白騎士の責任だ。

「行け! 行くんだ!! お願いだから行ってくれ!!!」

 出せる限りの大声を出し、力の限り強く両手で叩いた。ぎゃん、と驚いて飛び上がった子犬は、一目散に駆け出した。あっという間に後ろ姿が見えなくなる。

 ごめんな、驚かせて、傷つけて。

 ああでも、これでいい。これで良かったんだ。だから絶対帰ってくるな。逃げて、逃げ延びて、俺よりももっといい奴らに拾われて、どうか幸せになってくれ。

 腕から、左足から、力が抜けて、白騎士の体はぬかるみに倒れた。限界だったのは、右足だけではなかったようだ。

 錆びついた体を、降り出した雨が打った。




 ヒトでなくなる代わりに、一人の青年を逃がしてから三年の月日が経った。契約に縛られない白騎士は、この空島に潜伏を続けていた。

 天夜叉を地に落とすその日まで、孤軍であろうと情報を集め、いつかその時は来るのだと、信じて独り、できる戦いを続けていた。

『ドフラミンゴ様が、逃げ出した“鳥”を捕まえた』

 使用人達がそう話し合ってたのを盗み聞いた時、彼らの言う“鳥”が誰を意味するかはすぐに分かった。けれど、信じたくなくて、受け入れたくなかった。

 白騎士が鳥籠から解き放ち、違う世界へ逃がした、あの青年のことだ、と。

(嘘だ、なぜ、どうしてだ!)

 天夜叉がヘルメスを使い、何度も世界を転移して、彼を探していたことは知っていた。けれど、そんな、捕まるなんて。こんな地獄に連れ戻されるだなんて!!

 ヘルメスは、彼を運んでくれたはずだ。白騎士が望んだ、彼が救われる、幸せになれる世界に! なら何故彼は連れ戻された。逃がした先も地獄でしかなかったのか、掴んだ幸福を再びドフラミンゴに破壊されてしまったのか。

 助けなければ、もう一度。ヘルメスはまだ使える。例えこの身が砕け壊れて死に至ろうと、彼を助けるのだ。

 そう決めて、2ヶ月。

 天夜叉がファミリーや使用人からも隠した彼を見つけたのは、気付けば城の中庭に作られていた温室でのことだった。

 鳥籠を模した温室は、いつも極彩色の花々が咲き誇っていた。騒がしい程の色が集うその温室は、しかし外から見た限り、白だけは存在しなかった。

 その理由が、意味が分かったのは、彼を、いや“彼だったもの”を見た時だった。


 ――鳥の動物系だと、最初はそう思った。

 百獣海賊団で、動物系能力者ならいくらでも見てきた。幻獣種、古代種、SMILEを食べたギフターズ。だからその鳥人もまた、動物系の悪魔の実を食べたのだと、自身が動物系能力者だからこそ、白騎士は誤解した。

 ワノ国で、同僚だった妖艶な女が着ていたように、白い着物を着崩した青年が、温室の花を愛でていた。絢爛に咲き誇る花に顔を寄せ、目を細めて香りを楽しんでいた。

 豪奢な金糸の刺繍が施された着物から覗く手足は、人間のものではなかった。両腕は雪よりも白い翼で、紅色の両脚はどう見ても鳥の脚だった。

 青年が顔を上げた。髪も肌も真っ白で、ビー玉のような瞳だけが黄色い。

 その黄色が今は亡い潜水艦と同じ色をしていると気づいて、白騎士はやっと、この白い鳥人が、探し続けた青年の成れの果てだと気づいた。


 あ、あ、ああ。


 悲鳴が出なかったのは、父にそう覚え込まされたからだ。恐怖に、絶望に、苦痛に、悲鳴をあげれば殴られる。殴られて叫べばまた殴られる。だから白騎士は叫びたくなる程の絶望に駆られても、一つも悲鳴をあげなかった。

 目を見開いて、口を抑える。あまりにも変わり果てていて、でも目を凝らせば凝らす程、彼の成れの果てだと、否が応にも理解した。してしまった。

 理解するしか、なかった。

 しゃがんで花を見つめる青年を、背後から天夜叉が抱きしめた。くすぐったそうに笑う青年が、天夜叉に向かって右腕、……いや、右の翼を伸ばした。愛おしそうにハグをして、互いの頬をくっつけ合う。あれは確か、ミンク族の挨拶だ。

 青年は天夜叉に抱かれて、温室から姿を消した。脱力しきって天夜叉に委ねた白い体に、枷も鎖も、一つとして無かった。


 城下の森は、獣たちのナワバリで、いつも咆哮が響いてやかましい。

 だが、こんな雷雨の中では、さすがに咆哮もかき消される。

 だから白騎士は、ブリキの体が錆びるのも構わず、城下の森に駆け込んだ。

「あ……あぁ……あぁあ……」

 彼を助けたかった。雪降る島ですれ違った、何かが違えば家族になっていたかもしれない少年。あの島で命を落とした、出会うことのなかった義兄が、命を捨ててでも守った少年。

 天夜叉に全てを奪われ、人であることを踏みにじられ、珀鉛に体を侵された、今にも消えそうな命を救いたかった。

 あんな、人であることを奪われた体に、彼であることを壊された心に、貶めたかったわけじゃない、のに。

「あぁ……あぁ……!」

 悍ましい程白い鳥もどきの姿に、吐き気がした。

 天夜叉に従順に愛玩され懐く姿に、涙が出そうな程絶望した。

 けれど、けれども、ヒトでなしのブリキの体は、吐くことも泣くことも叶わない。

 だから白騎士は叫んだ。

 膝をついて、ただ、叫んだ。

「っ……う……ああ゛……あああああああああああ!! ア゛ァ!! あっ、あ゛、アアアアアアアアア゛ァ!!!」

 絶望が、悔恨が、喉から迸る。

 獣の咆哮よりも、長く。

 雨が止むまで、叫び続けた。


 俺のせいだ。

 救いたいなどと、傲慢な思いが、彼から人であることすら奪った。

 祈った幸せは、どこにも届かなかった。

 成したことは無意味ですらない。

 彼を地獄に叩き落とした。

 魂すらも汚したのだ。

 なんと、許されざることか。

 すまない、すまないトラファルガー。

 こんなことになるくらいなら。

 お前がお前であることすら、奪われ壊されるくらいなら。

 お前に、手を差し伸べなければ良かった。

 お前を殺したのは、俺だ。

 

「アアア……! アアアアアア!! うう、ゔ、ゔああああああ!!!」






 白騎士の正義が、折れる音がした。






 どれだけ絶望に打ちひしがれようと、それでも夜は明け朝が来る。

 城内を駆け巡って情報を集める。紙に、布に、木片に書きつけ、宝物庫の片隅に隠す。彼が温室にいるなら様子を見て、変わらぬ姿に絶望する。

 後から記録を見返せば、彼を見つけてから7ヶ月の間、白騎士の記憶は曖昧だった。毎日同じ動きをする様は、きっとシュガーに操られるオモチャと大差なかっただろう。

 白騎士の記憶が大きく動いたのは、3ヶ月前のことだ。

 いつものように温室の様子を見に来た白騎士が出会ったのは、ふわふわの毛でまんまるのシルエットをした子犬だった。

 ふんすふんすと鼻を鳴らす薄汚れた子犬は、とてとてと温室に向かって歩いていた。温室に止まろうとした野鳥が、温室から飛び出た糸に八つ裂きにされるのを見たことのある白騎士は、慌てて子犬の体にしがみついて止めた。

「こらやめろ、死ぬぞ、駄目だそれ以上近づくなおいこら止まれ!!」

 わふわふ、きゃん! と鳴く子犬を押さえようにも、錆が浮き始めたオモチャの体では力が足りない。ズルズルと引きずられる白騎士だったが、不意に影が落ちて、子犬の足が止まった。

 顔をあげれば、温室のガラス越しに、黄色の瞳と目があった。

「っ、トラファルガー……」

 温室の中で、いつも作り物のように薄く笑っていた彼は、おおきく目を見開いて、キュッと口を結んでいた。信じられないものを見たような顔は、かつて彼を逃がした日に、自分に向けられた表情と似ていた。

 その目線は白騎士ではなく、子犬にじいっと注がれていた。

『………… 、   』

 彼の唇が動いた。声は分厚いガラスに阻まれて聞こえない。一度として動いた所を見たことのなかった左の翼が動いて、ガラスに手をついた。きゃうん、と、子犬が鳴く。

 ぐしゃり。あの日、泣きながら掠れた声で何度もありがとうと言った、白騎士が抱き留めたあの時のような、そんな顔を、彼はした。

 一体何が。そう思った刹那のことだ。

『…………、……、………………………!!!』

 ガラス越しにも分かった。彼が劈くような悲鳴をあげた。頭を振ってガン、ガンと、何度も頭をガラスに打ち付けた。

「きゃうん!! きゃんきゃんきゃん!!」

「やめろ! なにをしてるんだ!! やめてくれトラファルガー! やめろ!!」

 鮮血が頭から吹き出て、白い髪を、肌を、翼を、衣服を染めていく。それでも自傷の手は止まない。ガラスに飛び散った血が伝い落ちる。それでも頭を打ちつけて、彼は悲鳴をあげ続けている。

 ぞ、わ、り。

 背を撫で上げた殺気に、白騎士は子犬を抱えて一目散に逃げ出した。ザシュリと背後で音がする。振り返ればさっきまで白騎士達がいた所に、槍のように太い糸がびっしりと突き刺さっていた。

 もう少し遅ければ、白騎士も子犬も串刺しだっただろう。

 走りながら、温室の奥に目を向けた。

 糸に縛られ天夜叉に抱かれた血濡れの彼は、ぐったりと気を失っていた。

 

 走って走って、城の端。誰も来ない物置部屋で、白騎士は盗んできた残飯を子犬に与えていた。

 黴がはえたパン、かたい肉の切れ端、熟しすぎた果実。それでも腹を空かせていた子犬は元気にありついた。抱えて分かったが、毛の割に体そのものは細い。飯などロクにありつけてなかったのだろう。

 欠けた皿に注いだ湧水をペロペロと飲む子犬を見ながら。白騎士は先程のことを思い出していた。

 子犬を見て、彼は確かに子犬を呼んだ。どこかで出会ったことがあるのなら、それはきっと、彼がまだ人間でいられた頃のことだ。

 恐らくはだが、天夜叉の愛玩鳥に成り果てた彼は、子犬を見て一時的にだが人間としての意識を取り戻したのだろう。故に、現状に心が耐えられず、自傷行為に走った。

 この子は、彼にとってあまりにも刺激が強すぎる。だが、上手くすれば、彼の壊された心を癒せるかもしれな――――

 ぺろり。

 気付けば側にいた子犬が、白騎士の頬を舐めた。パタパタと尻尾が動く音がする。ブリキの体では感じ取れない、柔らかな温もりのある体が、白騎士に寄り添っていた。

 …………守ろう。

 白騎士はそう思った。

 オモチャにされてから、クソッタレな毎日だった。孤独で、苦しい、寂しい時間ばかりが積み重なった。奮い立たせても希望の見えない日々は白騎士の精神を削り、コートを脱いでも背負い続けた正義は、無惨な彼の成れの果てを見て折れた。

 それでも。

 まだ彼に、人間としての心が残っているのなら、彼を救うと決めた正義は、折れて膝をついてなどいられない。

 無力な自分を、それでも懐き親愛を示してくれる小さな命があるのなら、嘆き諦めてなどいられない。

 白騎士は、もう一度、戦おうと決めた。

 正義を裏切り、正義を折った、そんな馬鹿な奴でも、まだ命と自由は残っている。

 なら、今度こそ、彼を助けようと決めた。

 だがその前に。

「……おむすび」

「わん!」

「よし、お前は今日からおむすびだ。よろしくな、おむすび」

「わんわん!!」

 まずは、子犬の名付けから始めよう。






 雨がやまない。

 ぬかるみは水たまりに変わり、横たわる白騎士の体は、半分以上が沈んでいた。

(結局、俺はここまでか……)

 彼がこの世界に連れ戻されて、きっかり一年が経過した。天井裏から覗いた悪趣味な「一周忌」の祝いで、無邪気に笑う白い彼に、泣きたくなるほど怒りと悔しさが湧き上がった。

 けれど、どれだけ激情が、正義がこの身にあろうとも、錆びた体はもうガラクタでしかなかった。

 この3ヶ月。足掻いた。戦った。どうにかヘルメスをもう一度手に入れようと、彼と子犬と共に逃げようとした。

 彼を、助けようとした。

 けれど、結末はこの有様だ。

 所詮、海賊はどこまで行っても海賊に過ぎなかったのだ。正義を掲げ、背負うには、元より薄汚れた己は相応しくなかった。だから裏切るし、折れるし、何も成せないままなのだ。

 ただ、それだけのことだ。

(センゴクさん……ごめんなさい……あなたに、何の恩返しもできませんでした……)

 天涯孤独の海賊崩れでしかなかった己に、手を差し伸べ、傷を癒やし、正義を示してくれた恩人を、心優しい養父を思う。

 あの人のようになりたかった。なれないどころか、何も返せないまま裏切った。

 オモチャにされて良かったと、ほんの少しばかり思う。こんな、どこに出しても恥ずかしい養子など存在していない方が、あの人だって幸せだ。

(ロシナンテ……にいさん……あなたが命にかえてでも守った彼を、俺は殺しました、許されないことをしました……。

 地獄に墜ちて、お詫びします)

 出会うことのなかった義兄。あの雪降る島で彼を救って一人死んだ、兄と呼べなかった人。馬鹿な俺の愚行を恨み、心から憎んでいるだろう。

 あなたのように彼を救えず、地獄に追いやり魂を汚した罪は、地獄に堕ちて朽ち果てても、永遠に償えなどしない。

 謝罪の言葉すら、己に言う資格は無い。

(王子、コビー、ヘルメッポ、ひばり……皆すまない、不甲斐ない裏切り者が隊長で……。

 俺がいなくとも、お前たちなら大丈夫だ……後は、頼んだぞ……)

 海賊崩れの隊長が、海賊のフリをしてスパイをやる。そんな中でも、己を信じささえてくれたSWORDの仲間達。

 もう、オモチャにされてから四年もの月日が過ぎた。きっと皆、強くたくましく成長してるだろう。

 彼らなら、己がいなくとも大丈夫だ。まあ、彼らの中に、俺は存在してないのだが。

 


 雨はやまない。



 軋む腕を、動かす。いやな音を立てて、パーツが外れてしまいそうだ。

 ミトン状の手は、祈りの形を組むことすらできない。だから両手を合わせて握り、不格好な祈りの真似事をする。


 

 神様。あなたはこの世にいますか。

 いないと言うなら、誰でもいい。

 どうか、誰か。

 彼を助けてやってくれ。

 人間として、自由を謳歌し、幸福に暮らす、一人ぼっちではない日々を、どうか彼に取り戻してやってくれ。

 俺では、救えなかったから。

 ありがとうと、俺に言ってくれた彼を、地獄に追いやってしまったから。

 誰か、どうか、おねがいします。

 トラファルガー・ローを、救ってください。

 愛玩鳥に堕ちた彼を、人間に戻してあげてください。

 どうか、どうか。

 だれ、か。















 どぷん。

 泥と錆に汚れたブリキのオモチャが、水たまりに沈んだ。  





 雨は、やんだ。






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