ヒトで、なし(前)

ヒトで、なし(前)

ななしのだれか

 己以外は誰もいない豪奢な晩餐を終えたドフラミンゴの下に、彼のいとしい鳥を連れてきたのは、己を模した糸人形であった。

 袖の無い真っ白なドレッシングガウンに身を包んだ愛玩鳥は、両腕は染み一つない白い翼、両足は紅色の鳥の脚に置き換えられた、青年の姿をしていた。

 勝手に飛び立たないよう、首には珀鉛でできた首輪と鎖、両の足首には鎖で繋がれた海楼石の枷が嵌められている。

 白い枷は、鳥によく馴染んでいた。

 それもそのはず、シーザーに作らせた薬の効果で、琥珀色の瞳以外は鳥の体から色は抜け落ちた。髪も眉も睫毛も白く、肌もまた血の赤が透けて淡い紅色に染まるほど白かった。

 その愚かで無垢な白さを、ドフラミンゴは愛好している。

 糸人形から鳥を受け取る。横抱きの形で膝に座らせると、鳥はドフラミンゴの左胸にとん、と頭を預ける。ゆるく細められた二つの琥珀がドフラミンゴを見上げ、鳥はうすく笑う唇を開いた。

「ドフィ、こんばんは」

「フッフッフッ、ああ、こんばんはロー。

 さあ、晩餐の時間だ」

 指の背で頬を撫でると、気持ちいいのか目を細め頬を擦り付ける。指先で輪郭をなぞると、くすぐったそうに身をよじる。

 おとなしく、従順に、ドフラミンゴに愛でられる鳥の姿に、腹の底から充足感が湧いて快楽に変わる。

 鳥の給餌はドフラミンゴが手ずから与えている。どうしても数日離れなければならない時は、鳥に仮死状態になる薬を投与し、眠らせることで対処する。

 例え己を模した糸人形であろうと、鳥への給餌は誰にもやらせたくはなかった。

 元より、今の鳥はドフラミンゴが手ずから与える餌以外は口にしない、そういうように躾けた。世界に唯一の愛玩鳥は、ドフラミンゴただ一人の手で生かされていればいい。

「ほら、ロー、口をあけろ」

 小さくちぎったクルミのパンを口元に寄せると、鳥は大人しく齧りついた。指先で押して口内に入れてやれば、もぐもぐと口を動かして飲み込む。

 鳥がただしく人間だった時はパンを嫌がったものだが、今の鳥はドフラミンゴが差し出したものなら何でも食べる。それが毒であっても、鳥は何だって食べる。

 グラスに並々注がれたミルクを、今日は溢すことなくこくこくと飲む。赤い唇に乗ったミルクを、ぺろりと赤い舌が舐め取る。

 液体の類は、気をつけないと口の端から溢れていく。最初の頃は上手く飲めなくてよく粗相をしたが、ドフラミンゴの衣服や肌を汚すミルクをその赤い舌で自ら舐め取る姿を見て、手を上げるのはやめた。時にわざと溢すようにして、鳥に残滓を舐め取らせるのは愉悦の一つであった。

 フォークに刺した白身魚を口元に持っていけば、鳥はあー、と口を開く。肉や油の強い餌は鳥に与えてない。鳥に力強さは求めてないし、体臭がきつくなるのはドフラミンゴの好みでは無い。

 そうだ、鳥は鳥らしく、蜜や穀物を食べていればいい。蜂蜜をたっぷりとかけたミューズリーは鳥の食いつきが良い。匙に掬って差し出せば、舌を伸ばして食いついた。逆にふやかして粥のようにしたものは匙が進まない。どうやら鳥は好んでないようだった。

 鳥に与えるデザートの果実は、葡萄が一番多い。特に皮ごと食べられる品種をドフラミンゴは好んでいた。

 手のひらに乗せた葡萄を、顔を寄せて鳥は食べた。鳥の鼻先が手のひらを掠める。

 目を細めて口を動かし皮と果肉を飲み込んだ鳥は、べえ、と舌を出した。舌に残った種を拾い、ついでに爪で舌先を軽く掻けば、鳥はびくりと肩を震わせ目を細める。

 その白痴の艷やかさが、ドフラミンゴはたまらなく好きだ。愚かな子はかわいい。だから葡萄をよく与えた。

 もう一粒、と小さく口を開いて待つ鳥に、鋭い爪も、嘴も無かった。

 


 食事を終えた後、鳥の水浴びは糸人形に任せてある。シャワーを浴びて寝室でしばらく待てば、バスタオル一枚に身を包んだ鳥が運ばれて来た。

 鳥をベッドに横たえると、バスタオルを剥いだ。瓶の蓋を開けて軟膏を指で掬うと、ドフラミンゴは鳥の肌に塗り始めた。

 水浴びの後に鳥に軟膏を塗るのは、糸人形をつかわずドフラミンゴが自分でやると決めたことだ。

 シーザーに作らせた軟膏は、使えば使うほど肌から色が抜け落ち、傷跡は薄く目立たなくなる。鳥の上半身に描かれた忌々しいタトゥーを、それを掻き消す為に幾度もつけた傷を、軟膏は薄めて消していく。

 ドフラミンゴの愛鳥がかつて人間であったこと、人間であった鳥が何者であるか、ドフラミンゴが否定したかった鳥の過去。それら全てをドフラミンゴの手で、時間をかけてぬり潰していく。

 今の鳥を見て、これがかつて何者だったか気づけるものはいまい。それでいい。鳥が人間であった頃からの名前を呼ぶのは、世界でドフラミンゴだけだ。

 鳥はドフラミンゴの為だけに息をしていればいい。

「ドフィ、くすぐったい」

 背に軟膏を塗り薄く広げれば、鳥がくすくすと肩を震わせる。肩甲骨まで覆う羽毛に顔を埋めて吸えば、驚いた鳥はきゃあきゃあと鳴いた。パタパタと右の羽を動かすが、左の羽は相変わらず動かない。

 ドフラミンゴがかつて幼い人間だった頃の鳥に、将来を見据えて用意していた香水が、鳥の背中からふわりと香る。甘く酸味のある林檎の香りを纏う鳥は、ドフラミンゴ以外は触れることの許されぬ、あまりにも蠱惑的な禁忌であった。

 この世の誰も、見ては、聞いては、触れてはならない。ドフラミンゴだけのかわいい鳥。自ら人間を捨てた鳥。

 かわいいかわいい、小鳥のロー。

「ドフィ」

 鈴の音のような囀りは、ローがもう人ではない証左であった。





「ドフィ、おれ、とりになりたい」

 ヘルメスを使って一人逃げ出したローを追って三年。ようやく見つけたローをその場で奪い返してから一ヶ月。

 だして、かえして、かえりたいとばかり泣いてはその度に気を失う程折檻し、鳥籠の中で虫の息を吐いたローは、その時初めてドフラミンゴを愛称で呼んだ。


 むかし、モネにやったみたいに、てはつばさにして、あしもとりのそれにして、とりになりたい。

 だって、にんげんよりもとりのほうが、ドフィのとりかごににあうよね?


 どこか舌っ足らずに言ったローは、逃げ出す以前に起こした幼児退行と似ていた。だがあの時よりは意識が明瞭だ。何より、モネのように自己改造をしたいという点に、ドフラミンゴの好奇心が擽られた。

 どの鳥を使うかはすぐに決まった。白い手乗り文鳥にした。愛玩される為に品種改良をされた小鳥を、シーザーに命じて巨大化させ、その翼と脚を使った。

 海楼石の足枷を外し、一糸まとわぬ姿で床に座らせたローは、能力を使える状態でも逃げ出そうなどとはしなかった。鑑賞するドフラミンゴの前で、彼は自分から人間の体を捨てていった。

 床に投げ出された文鳥のパーツと、ローの体が入れ替わる。その度に苦悶の声が上がる。

 太腿の半ばから下が、逆関節の赤い脚に変わる。細い脚はローの自重を支え歩くことは叶えるが、走れば簡単にポキリと折れる。弱く脆い脚だ。

 ドフラミンゴが奪った右腕は、肩からバッサリと翼になった。手を握るように、パタパタと翼が揺れて動く。片翼の姿は、絵に残したいほど冒涜的な美しさがあった。

 さて、と。さすがに左腕は残してやろうと、ドフラミンゴは考えていた。中途半端に人間であることを残しておいた方が、ローの精神をなじるのに都合が良かった。人間にも鳥にもなりきれない哀れな生き物と、そうやってローを踏みにじりたかった。

 だが、ローはドフラミンゴの考えを越えてしまった。

「ああっ、あ、ぐ、ああああ゛っ!!!」

 ローは、自ら左腕までもを翼と入れ替えた。透明なキューブに包まれた左腕が、ゴトリと床に放り出され転がる。ドフラミンゴが制止する間も無かった。

 激痛か、疲労か。ぼたぼたと大粒の汗を流して蹲ったローは、放り投げられていた海楼石の足枷に、自分から鳥の右足首を宛てがった。何度かローが足を揺らせば、がちゃんと枷が嵌まる音がした。

 は、と声が口から漏れた。

 サングラスの奥で目を見開くドフラミンゴの前で、ローは左足も同じように枷に嵌めた。これでもう能力は使えない。ドフラミンゴが外してやらなければ、ローは人間の形に戻ることはできない。

 いや、そもそも左腕すら翼に置き換えた今、例え海楼石の枷を外そうと、ローにもう手術などできるはずが無かった。無理矢理置き換えた代償か、左の翼はぴくりとも動かない。

 最早ローは、人間ではなく鳥だ。

 ずり、ずり。まだ置き換えた体を動かせないローが、床を這ってドフラミンゴに近付く。鳥の脚にぶつかって、キューブに包まれた人間の足が動いた。翼が床の埃を絡め取って、端から灰色に汚れていく。

「ド、フィ……ドフィ……」

 苦悶に歪んだ、しかし薄い笑みを浮かべてドフラミンゴの足元に這って来たローは身を屈めた。右足を膝に乗せ、床を踏む左足の磨かれた革靴。その爪先に、ローはうやうやしく口付けをした。

「…………」

 戯れに、膝に乗せていた右足でローの頭を踏んだ。顔を上げたローは、己の頭を踏んだ靴底に、またうやうやしく口付けをした。

「ドフィ」

 顔を上げたローが笑う。革靴に頬を寄せる姿は、愛玩動物のそれであった。ローの汗が滴り落ちた革靴を、彼は舌先で舐めて綺麗にする。

 ドフラミンゴは何も命じてなどいない。ローが、自分で、ドフラミンゴにそうした。 

 手を伸ばし、頭を撫でてやる。目を細めて笑うローは、囀るようにドフラミンゴを呼ぶ。愚かな程無垢な笑顔で、ローは笑いかける。

「ドフィ」

 転がるように椅子から降りてローを抱き寄せた。かき抱いた背は、火傷で引きつった皮膚の上を羽毛が覆っていた。

 くすぐったそうに笑うローは、動く右の翼でドフラミンゴを抱きしめ返した。同族に羽繕いをするように、ピンクのファーコートに顔を埋めて、きゃらきゃらとローは笑った。




 その日、人間トラファルガー・ローは壊れて死んだ。

 今ここにいるのは、ドフラミンゴの愛玩鳥だった。





 ドフラミンゴの頭を膝に乗せ、愛玩鳥が歌を囀る。芸の一つとして仕込んだ、帰らざる故郷、遥か遠い聖地の子守唄。

 仮にも“D”が天翔ける竜の子守唄を歌う様は、この上ない屈服の証拠であり、ローがもうハートの海賊団船長だった、ドフラミンゴに反逆したあの人間ではないと、何よりも雄弁に物語っていた。

 動かない左の羽を投げ出し、右の羽でドフラミンゴを撫でるローは、あの日からずっと従順な愛玩鳥だ。ドフラミンゴ無くして生きられない、哀れな程にか弱い鳥を、かつてのように折檻する気はもう無い。

 愛で、躾け、飾り、育み、真綿で包むように飼い殺しにした。壊れたローはドフラミンゴに愛玩されて生きていけばいい。もう、そうする以外には生きられない。

 無垢な白に染め上げるのは、鳥がドフラミンゴだけのものであると示す為だ。鳥の過去を、人間としてのアイデンティティを剥ぎ取る為だ。

 琥珀色の瞳、赤い唇と脚以外、白い姿の鳥は、ドフラミンゴの寵愛と執着の結晶だ。


 ――――何故ローは、自分から人間であることを捨て、愛玩鳥に成り下がったのだろうか。

 

 ドフラミンゴはかつて何度かそう疑問を抱いた。だから鳥に問いかけた。

 だが、どんなに上機嫌だろうと、問いかければ鳥は発狂した。血を吐かんばかりの絶叫を上げ、壁に、床に頭を打ちつけては血を吹き出す鳥に、ドフラミンゴは答えを得ることを諦めた。

 だって、その内どうでも良くなったのだから。

 ローがドフラミンゴだけのものであればそれでいい。もう“弟”でも“右腕”でもないが、コレはドフラミンゴのペットだ。

 もう二度と鳥籠から逃げることは無い。自分から鳥籠に入り、器用に脚で扉を閉め、鍵をかけて安堵する。鳥はもう、そういう生き物に成り果てた。



 ああ、見てるかコラソン。忌々しい我が弟。ローを逃した裏切り者の、憎く愛しいロシナンテ。

 お前が自由だと言った子供は、今や俺の愛玩鳥。俺無くしては生きられない、壊れて自分から鳥に堕ちていった。

 お前の死は、裏切りは、全てが無意味に終わったのだ。

 可愛いだろう? 俺に懐き、手ずから餌を食い、歌を囀る愚かな姿は。コレはもう、お前の名前を二度と呼びはしない。コレはただ“ドフィ”とだけ鳴く。

 もう、ローは俺のものだ。

 残念だったな、愚かなロシー。地獄でせいぜい後悔してろ。

「あんなガキを助けるんじゃなかった。無意味なことをした」とな。





















 たすけて、こらさん。


 ここからだして。

 

 ここは、こわいよ。


 もう、やだよ。
















 愛玩鳥の裡に隠された、にんげんの精一杯の叫びは、今は誰にも聞こえない。

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