パンドラの箱

パンドラの箱



幸せになってほしかった。

他人の幸せを願うことは善いことだから。

良い子でいたかったから、幸せになってほしいと願った。


大好きな姉ちゃんが幸せならそれでいい。嘘だけど本当。

大好きなアオイが幸せならそれでいい。本当だけど嘘。


嘘つきは自分。嘘つきなのはおれ。嘘でもいい。嘘でも構わない。

この嘘を突き通すことができれば、きっと俺はいい子で居られる。

そうすればいつか、幸せな世界がまた訪れるんだ。


「ぽに!」


そんな儚い願いがあっさりと剥がされてしまう。むき出しの醜い本性が暴かれる。

信じてきた鬼さまの声が、幸せな夢想を引き裂いていく。


「わっオーガポン!?どうしたの?びっくりしたぁ」


くっついていた二人が反発する磁石のように飛び退いて、耳まで真っ赤なアオイが鬼さまにかけよって腰をかがめて目線を合わせる。

鬼さまは恥じらう少女のようにアオイに歩み寄って、さっきまで二人がそうしていたように。アオイにキスをした。


「……へ?」

「……あぁぁぁ!!!取られたあぁぁ!!あげたばっかりのあたしの初キスがオーガポンに奪われたあぁぁ!!!」

「ぽにぃ~!」


呆然とまぬけな顔をするアオイのすがた。

堰を切ったように泣き叫ぶ姉のすがた。

飛び上がるように喜ぶ鬼さまのすがた。


「返してぇぇ!!がーえーしでぇー!!うわぁあああん!!

 あたしの初恋が台無しになっだぁ!!!」

「ゼイユちゃん落ち着いて!よしよし!」


子供みたいに泣きわめいて、アオイの胸に泣きつく姉ちゃんのすがた。

見たことなかった。


「がーお!」


呆れたように、鬼さまは姉ちゃんにそっと近寄って頭を撫でる。

より一層泣きわめく姉ちゃんを慰めるように、姉ちゃんにもキスをした。


「ほら、返ってきた!ちゅーが返ってきたよ!よかったね!」

「良くないぃ!待っててって言ったのにこの鬼!オーガポン!ともっこぉ!」


姉ちゃんが優しくぽかぽかと鬼さまをなぐって、鬼さまは物ともせず笑ってる。


殴られても何も痛くなさそうで、むしろ幸せそうで。アオイと姉ちゃんに囲まれてる鬼さまはこの世で一番幸せそうな顔をしていた。



手を伸ばしても届かない幸せな光景がそこにあった。

一番ほしかった幸せがそこにあるのに、そこに自分の居場所がなかった。

奪われた。


奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた奪われた

嫌いな姉に大嫌いな姉に大嫌いで嫌いで嫌いで憎くて憎くて許せなくて怖くて嫌いで憎くて大嫌いでどうしてこんなのが姉なのか恨んで憎んで嫌いで逃れられなくて諦めて憎んで嫌いで嘘ついて好きだなんて嘘ついて嫌いなのに嘘ついて愛されてるなんて嘘ついて愛してくれてるなんて信じたくて嫌いなのに信じたくて好きだと信じたくて逃げなかったのに好きだったのに優しくしたのに好きだったのに味方だったのに好きだったから味方になってあげたのに信じてたのに大好きだったのにおれだけは姉ちゃんの味方だったのに大好きだったのに守ってくれたから大好きだったのに憎かったのに嫌いだったのに好きなのに大好きなのに大嫌いな姉に本当に好きだったのに奪われた。

まるで自分の身体じゃないみたい。あんなに愛おしかったのに好きだと思いたかったのに今は憎くて本当の自分はこんなにも人を憎めるのかと心が冷えていく。

知りたくなかった。嘘偽りのない好きな気持ちなんて知りたくなんてなかった。それを教えてくれたアオイさえ居なければこんなに惨めな気持ちになることはなかったのに。あの日来たのがアオイでさえなければこんなにも人を憎むことはなかったのに。あの日世界を覆すような初恋に落ちなければこの箱庭で穏やかに暮らすことが出来たのに。偽物の好きでも満たされていたはずだったのに本物の好きを知ってしまったから自分の心はもう二度と満たされない。初恋の人が自分のことを好きでいてくれさえいれば満たされたかも知れないのにそれすらも奪われてしまったらもう二度と本当の幸せなんて手に入らないのに。紛い物の好きが本当の好きを奪い去っていくなんて許せない。本当の幸せが手に入ると思ったのに。本当の幸せが欲しかったのに。幸せになりたかった。幸せになりたい。幸せな人生になりたい。幸せに生まれて幸せに死にたい。ないものを求める人生だった。普通の幸せでよかった。痛みを伴う幸せなんて要らなかった。ただ普遍的な幸せが良かった。何事もなく日が昇って月が沈む幸せがよかった。何もなく痛みもなく悲しみもない幸せが良かった。幸せになりたい。幸せが欲しい。幸せになりたい。幸せにしてほしい。この不幸の底から救い出してほしい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。


綺麗事で隠し続けていた本当の願い。

地獄の蓋の奥底に隠さないと痛みに耐えられなかったからしまい込んだ願い。

……叶わなかった。

意味のない人生だった。そしてこれからも幸せになることはない。

そんな人生になんの意味があるのだろう。


「……しあわせになりたい、しあわせになりたい、しあわせになりたい」


鬼さまのようになりたかった自分。一人でも強くなりたかった。なりたかった自分が理想的な幸せの中に囲まれている。一人ぼっちで可哀想だからと哀れんで見下していたのかも知れない。同じようにのけ者にされて可哀想と思ったのは本当。でも、どうせ姉ちゃんとは仲直りできるって高をくくってた。だから見下してた。鬼さまは本当に一人ぼっちで姉ちゃんみたいな人がいないから可哀想だって見下してた。憐れむことで自分は恵まれていて幸せなのだと感じるために見下してた。どうせ人間じゃないのだから人間とは仲良くなれないのだと見下してた。人間のように言葉を交わせないのだから人間とは仲良くなれないはずだと見下してた。だから取られるなんて微塵も思ってなかった。そういうふうになりたかった、っていうのは強さだけの話。強さだけは憧れてた。強いから憧れてた。自分にはないものだから憧れていた。なのに、強さ以外も鬼さまが手に入れてしまったら自分にないものが増えてしまう。鬼さまにあって自分にはないものがたくさん増えてしまったら憧れることは出来ない。憎い。奪われた。妬ましい。許せない。許さない。好きじゃない。好きになれない。自分じゃない。嫌い。憎い。幸せなのが自分じゃない事が許せない。幸せが自分のものじゃない。幸せになりたい。幸せが妬ましい。幸せが憎らしい。幸せがほしい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せにしてほしい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい――――


なれなかった自分が惨めだ。

もう、生きていても意味がない。

嫌いな姉ちゃんがどう思おうと知るか。

大嫌いな里のみんながどう思おうと知るか。

大好きなアオイがどう思ったとしても、アオイの記憶が自分で満たせるならそれでいい。傷がつくならもっといい。消えない傷を残したい。憎しみでもいい。好きじゃないなら一番世界で憎まれる相手になりたかった。そんなことするまえに死んでしまわないと。そんなことしたくない。それだけはしたくない。それだけは、幸せになれるとしてもしたくない。やりたくない。それだけはいやだ。本当の好きな気持ちまで嘘にしたくない。初恋だけは嘘にしたくない。それだけは本当だったから、それだけは偽物なんかじゃないから、信じてきた何もかもが偽りだったこの世界でただひとつ本当なのはそれだけだったことにしたいからはやくこのまま死んでしまわないとはやく死なないとはやく消えないとはやくいなくならないとはやく出ていかないと…


悪夢の中を歩くような不快感。

最後まで音を立てずに、幸せを壊さないように少しずつ離れていく。

幸せが離れていく。

最初から最後まで自分のものじゃなかった幸せが遠のいていく。

最後までその幸せが壊れないように。

最期までその幸せを壊さないように。


「幸せになりたい、幸せになりたい、幸せになりたい…!」


押し出された心の声が少しずつ大きくなっていく。抑えられない本当の気持ちが溢れ出て、もう聞こえないぐらい離れてからようやく涙が出てきた。

涙がぼろぼろとこぼれ落ちても、ぐにゃぐにゃの地面を歩く足は止まらない。

俯いて歩いて木の根に足を取られて転んで、擦りむいた足の痛みが辛くて耐えられない。痛みに耐える理由がないから。涙がもっと溢れて止まらない。痛くて痛くて声を上げて泣いてもだれも慰めてくれない。誰も居ない。


「どうして、幸せになれないの!?耐えたのに、頑張ったのに、我慢したのに!

 生まれてこなければよかった!

 生まれたくなんてなかった!

 こんなに苦しいならもっとはやく教えてほしかった!

 苦しくても痛くても辛くても、耐えたらきっと幸せになれるって信じてたのに…

 もう嫌だ…誰か早く、おれを殺してどこかに連れ去ってよ…

 こんな世界いらない、こんな世界大嫌い、こんな世界無くなっちゃえばいい…」


地面を殴っても、拳の痛みに耐えられなくて続かない。痛みに耐えられない。痛い。痛い。もう痛い思いはしたくない。もう辛い思いはしたくない。もう苦しみたくない。もう嘘をつきたくない。もう痛いのは嫌。苦しいのも嫌。辛いのも嫌。


駄々をこねる子供のように泣いても助けてくれる人は誰も居ない。

痛みに耐えて何もかもに耐えている自分を指さして「スグリは心優しい人間に育ってよかった」と笑ってた大嫌いな大人はいない。

泣いて泣いて痛みに耐えている自分をみつけて「ちゃんと言葉にしないとわかんない!」と怒ってた自分をひとつも理解してくれなかった大嫌いな姉はいない。

自分を泥底から救い出してくれるような外の人間なんていなかった。

悪い鬼がいればよかった。

悪い鬼がいるなら、きっとなにもかもめちゃくちゃに壊してくれたんだ。

自分は悪くない、鬼が悪いんだって思えたから。


悪い鬼なんていない。鬼さまは心優しい鬼さまで、悪い鬼はずっと自分の中にしかいなかった。

壊したいなら自分で壊すしかないけれどその勇気すら何もない自分にはない。

ここにいるのは悪い鬼のなりそこない。

哀れで惨めで滑稽な、世界を変える力なんて何もないただの人間。


霧が煙る森へ足を運ぶ。ここがどこだか知っている。

最後にどんなに痛い思いをしても、それで終わりだからいい。

最後の痛みが何よりも激しい痛みであれば、きっと今までの痛みは幸せにかわる。

せめて悪をだれかに押し付けて死にたい。良い子のまま死なせてほしい。幸せだったことにしたい。今までが幸せだったと思ったまま死にたい。幸せになりたかった。幸せになりたい。


「やりなおしたい」


そんな願いが最後に生まれて、消えた。







大人たちが今日も里の外を探しに行く。

あの日以来居なくなってしまった男の子を探すために。

悪夢を見ているような気分。身体があるのに身体がないような、気持ち悪さ。

鈍重な不安に心臓が押しつぶされそう。


「ぽに…?」


公民館の部屋の中で、オーガポンは側で不安な顔をしている。

窓の外をぼんやりと眺めるわたしに、ただ寄り添っている。


仮面を取り戻した時、もうゼイユとは会えない気がした。

お話していくうちにどんどん好きになった、大好きな女の子に気持ちを伝えたかった。

そんなわがままを叶えるために、わたしは身勝手な行動をした。

真夜中に二人っきりになってお話がしたかった。

楽しかったお礼。嬉しかったお礼。隠した大好きな気持ちをリボンで包んで渡して終わり。

…嬉しいことに、喜ばしいことに。ゼイユは私の気持ちに応えてくれた。

世界の誰よりも自分は幸せなんだと感じてしまった。

こんなに素敵な女の子が自分のものになったという征服感、支配欲、独占欲。驕り。

神さまがいるとしたら、きっとお見通しだったんだ。


だから壊れた。

ううん、わたしが壊してしまった。

燃え上がるような初恋に溺れたせいで、大好きなひとの大切なものがなくなった。

いつまでも帰ってこないわたし達を心配した、ゼイユのいちばん大切な弟が、探しに行ったまま帰ってこなかった。

とても心優しくて、里のみんなの誤解を一人で説得して、そんな素敵な男の子だったからわたし達のことを心配するのは当然のことで、そんな男の子が帰ってこないのだからみんなが心配するのは当然のことで、そんなことも露知らず、その子のことを何も考えていなかったのはわたしだけだった。

わたし達が帰ってこなかったらその子が心配する、なんてことを思いつかなかったのはわたしだけだった。



だから、悪いのはわたし。

これは因果応報というやつなのだ。

合わせる顔がない。

己を責めるように泣き崩れたゼイユを慰める権利すらない。

なにも声をかけられなかった。

抱きしめることすら、できなかった。

…会えなくなるというのも本当になった。

そしてこれからも、きっと会えない。会えばきっと思い出してしまう。

愚かなわたしの罪を。


……変だよね。まだ、帰ってこないって決まったわけじゃないのに。

もしかしたら、今日こそ見つかるかも知れない。

見つかったら…幸せな夢の続きを見ることができるのかな?

……ひどいよね。この期に及んで心配することが自分の幸せなんて。

どんなに人のために善いことをしてきたとしても、所詮わたしなんてこの程度。

結局は自分の幸せしか考えられない、愚かな女。


「…幸せになりたいなんて、わがままいってごめんなさい。

 わたしだけの特別な宝物が欲しいなんて、わがままいってごめんなさい。

 もう、二度と要らない、二度と求めない。自分だけの宝物なんていらない。

 今までの宝物も全部返します。

 楽しかった思い出も、辛かった思い出も、幸せな思い出も全部返します。

 だから…だから、大好きな人たち幸せになってほしい……」


その願いは叶わない。自分が壊したから。

今日も明日も明後日も、ゼイユは泣いたまま表に出ない。

明日も来月も来年も、スグリ君は二度と帰ってこない。

未来に幸せは永劫訪れない。

この世界に救いはない。

この世界に神はいない。

この世界で、悪いのはわたし。救えたのは、きっとわたしだけだった。

物語に不満を持たずに大人しく主人公やってればよかったんだ。

自分を殺して他人のために生きていればよかった。


「生まれてこなければよかった」


幸せになりたかった、なぁ。








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