パンツと水星と
自分の持ち物には名前を書きなさいと言ったのは、誰の言葉だっただろうか。
買ったばかりのパンツを手に取り、いつもの通り名前を書く。何故そんなことをと言われそうだが、以前住んでいた水星ではパンツは、ドッグタグの替わりにもなる。だからこれは、大切なことだ。
「ボブさーん、そろそろ行きましょう」
テントの外から声がする。
「ああ。今行く」
パンツをタンス替わりのバッグへ入れて、外へ出る。
「またせたな」
「いえ、大丈夫です!じゃあ、行きましょう!」
いつも通り、スレッタと並んで学校へ向かう。
「そういえば、今日はラウダさんの姿が見えませんね」
「なんだ。スレッタは、ラウダのことが苦手なのか?」
「そういう訳ではないんですけど……」
「悪いやつじゃないぞ」
「それは分かってます!分かってるんですけど」
まあ、無理もない。ラウダ・ニール。彼は、俺と同じ年の弟らしい。自分にこそ友好的だが、彼女には少々、当たりが強いところがある。そこが、苦手なのだろう。
「あの……」
「ん?」
「いえ、やっぱりなんでもありません。早く行きましょう!遅刻しちゃいます」
「あ、おい!」
突然走り出した彼女を追いかけ、学園へ向かう。何時もと変わらない光景が、そこには広がっていた。
――――
「兄……ボブさん!」
「ああ、ラウダか。」
この学園へ来て、初めてできた友人だ。そのためか、いまだに弟だという感覚にはなれない。
「例の話は考えてくれた?」
「また、その話か」
「もう無理に戻ってきてとは言わない。だけど、一度でいいんだ。父さんと会ってくれないか」
「……」
俺には過去の記憶がない。幼い頃、宇宙に漂っていたのをスレッタの母親、プロスペラ・マーキュリーに助けられ、この名前を与えられた。後になって教えられたのだが、助けられた時に穿いていたパンツには、「グエル・ジェターク」という名前が書かれていたという。
「やっぱり、無理だよね。ごめん」
「わかった」
「え?」
「すぐには無理だが、会うよ」
「本当に!」
嬉しそうに笑うラウダに少しだけ申し訳なく思いながらも、言葉を続ける。
「俺の心の準備が出来てからになるが、それでもいいか?」
「全然構わないよ!もし会えるようになったら教えて。すぐに準備するから!」
「ああ。分かった」
その後、少しだけラウダと話をして別れる。
正直、自分に血の繋がった家族がいると聞いても実感が沸かない。記憶が戻っていないというのもあるが、スレッタ達と過ごした時間の方が長いためそう思うのだろう。
水星で過ごした時間は、決して短くはない。それこそ、三人のことを大切な家族だと思う程には。
「ん、あれは」
ラウダとの話を終え、戻る途中の通路に隠れるように見える見慣れた赤色の髪。
あれで隠れているつもりなのだろうか。
「おい、スレッタ」
「ひょっえぇ!」
すっとんきょうな声をあげ、飛び上がり倒れそうになる彼女を、慌てて支える。
「大丈夫か」
「び、びっくりした」
「ほら。暗くなる前に帰るぞ」
「あの……」
制服の裾を引っ張られる。
「どうした」
「ボブさんは、いなくなったりしませんよ、ね」
「懐かしいな。お前がそんなことを言うなんて」
幼かった時のことを思い出す。仕事でよく水星を留守にしていたプロスペラ。スレッタの隣にはエアリアルがいたが、それでも彼女は一人ぼっちだった。だからだろうか、今でこそ無くなったが、彼女と出会ったばかりの頃は、よく同じ質問を繰り返ししていた。
『いなくなったりしない?』
スレッタを一人にしない?言葉には出さないものの、何時も良い子でいるには難しい程に、彼女の中には孤独があった。
「言っただろう。お前を一人にはしない。その時まで、一緒にいるって」
「やっぱり、ずっとはいてくれないんですね」
「ごめんな」
あの頃のように、あやすようにスレッタの頭を撫でる。
彼女がいずれ自分の足で歩いて行くように、自分も何時かは離れないといけない時が来るだろう。
いくら家族になりたいと望もうが、結局俺は他人でしかないのだから。
――――
「ボブさん、入っても良いですか?」
外から、スレッタの声が聞こえる。
「ああ、どうぞ」
読んでいた本を閉じ、テントの入り口を開ける。
「おじゃします」
入り込んできた彼女の手には、寝袋が一枚。
「スレッタ?」
「ボブさん、今日は昔みたいに一緒に寝てもいいですか?」
言われた言葉に、一瞬だけ思考が停止する。
「ダメだ」
「どうしてですか!今日だけでいいんです。子供の頃は一緒に寝てたじゃないですか!」
「それは、子供の頃の話だろうが!今はダメだ」
珍しく我が儘を言うスレッタに、少しだけ心配になる。
「お前、学園の連中に何か言われたのか」
この学園の制度。そして、エアリアルのこともあり、彼女は良い意味でも悪い意味でも注目の的だ。しばらく前までは、その事で多少なりとも嫌がらせを受けることもあった。すっかり治まったと思っていたが、そうではなかったのか。
何があったのかを問いただそうとした言葉を、彼女が否定する。
「違います。そんなんじゃありません。理由がないとダメですか?」
まっすぐに見つめられる。こうなると、もう、何を言っても無駄だということは経験上分かっている。
「はぁ。今回だけだぞ」
「ありがとうございます!」
溜め息を吐き、もう一人分のスペースを空けるために自分の寝袋を端へ寄せる。
そこへ嬉々として自分の寝袋を準備する彼女の姿に、もう一度だけ溜め息を吐く。
「おやすみなさい。ボブさん」
「おやすみ。スレッタ」
周りの同じ年頃の少女達に比べて、まだ何処か幼さの残る寝顔を見て、いつまでこんなに懐いてくれるのだろうと思う。
スレッタ。スレッタ・マーキュリー。自分を救って育ててくれた恩人の娘であり、大切な家族。もしも、妹がいたらこんな感じなのだろうか。
いっそうのこと、スレッタ自身に俺の名前を書いてしまおうか。
大切な物には名前を書きなさい。
これは、誰の言葉であっただろうか。目の前の少女に名前を書いたとしても、いずれは自分の前から巣立っていくだろう。
水星という箱庭は、彼女にとってあまりにも厳しく、そしてあまりにも狭い。
それでも彼女は、その場所へ夢を見る。
だから俺は、小さなその手が傷つかぬよう守れるように、今日もパンツに名前を書く。
太陽に近いその星で、名前を書かなくてすむようになるその日まで。