バレンタイン・中編
2月14日。バレンタインデー当日。
友チョコや義理チョコなどといった派生が生まれているとはいえ、女性が想い人にチョコレートを渡すという風習が根強く残っている。
その日は恋する乙女にとっては運命を決する日であり、男子は周囲を見てソワソワする。
──だがここに例外が存在する。
「兄さん、袋あるよ」
登校してすぐ、アクアの机の上に置かれたチョコレートの山を見て笑顔で大きな袋を持ち出す硝太。本人の机の上にはチョコレートは一つものっていないが母親と姉へのチョコレートが確約されているのでそんなことは気にも止めていない。
「凄い数だな」
「愛されてるってことだよ」
彼女持ちだと言うのに中学生の頃より目に見えて増えているチョコの数に引き気味なアクアを尻目に硝太は用意してきた袋に机の上に置かれたアクア行きのチョコをすべていれる。
アクアは引いているがこれで全てという訳では無いだろう。ルビーやミヤコといった身内、アクアが付き合っているあかねはもちろん、手渡ししたいアクアのファンもいるはずだ。むしろこの程度で済んだのは運がいい。
硝太はアクアに大きな袋を手渡すとその中にチョコレートを1箱1箱丁寧に入れていく。全ての箱が入れ終わった後、袋に『バレンタインチョコ・星野アクア行き』と書き込んで教室の隅に置いた。
「これでよしっと。じゃあ僕用事あるから今日は早退するね」
「おい待て」
そしてそのまま帰ろうとした硝太の肩をアクアが掴む。
「どうしたの？」
「何してるんだ」
アクアは不機嫌な声のまま、硝太が置いたチョコだらけの袋をちらりと見る。クラスの中でアクア以外と関わりを持とうとしない硝太が急に大きな袋を教室の隅に置くのだから当然目につく。しかもその袋の中には芸能科でも人気のあるアクア行きのチョコが大量に入っているので、クラスの男子の死んだ目が釘付けになっている。
「何してるって失礼だな...兄さんにお近付きになりたい女の子たちの気持ちだよ？」
不機嫌なアクアに対して『モテ男には貰う義務がある』と強く言い切った硝太はアクアの掴んだ手からするりと抜けた。
クラスメイトのことなど毛ほども考えていない硝太らしい言動にアクアはため息をつくが、アクアが言いたいのは全く別のこと。
「そういう訳じゃない」
「じゃあなんなのさ」
「用事ってなんだ」
「...は、外せない、ようじぃ？」
アクアの一言に硝太の額から冷たい汗が流れる。言葉も急にたどたどしくなり、わかりやすい反応を見せる。
「嘘か」
「嘘じゃないもん！用事あるもん！ただ内緒にしてねって言われただけで！───あ」
覆水盆に返らず、出した言葉は帰ってこない。
その場で両手で顔を隠す硝太を見てアクアはまたため息をつく。『用事がある』と言った時に違和感なく言葉を出せたことから嘘の可能性が低いが妙に急いでいることからして切羽詰まったものとは限らないと判断したアクアの目は正しかったようだ。
「で、なんの用事？」
「...な、それは、な、なぁーいしょぉ」
アクアの追求にのらりくらりかわす手段のない硝太は口笛を吹くように口を尖らせて明後日の方向を向くものの、口笛は吹けてないし追求をかわせてもない。オマケに発音もおかしい。
「...不知火さんとか寿さんの分はどうするんだ」
「え？用事に2人は関係ないよ？アビ子先生が──んっ！」
言ってはいけない内容を言ったことに気付き口を塞ぐが時すでに遅し。出した言葉は帰ってこない。呆れたアクアがため息をつく。
アクアも硝太が答えを言うように誘導したという訳ではなく、あくまで硝太の友人からチョコが貰えるのでは無いかと考えての行動だったのだがアクアの予想以上に隠し事が下手な硝太が下手を打った。
「そういえばお前アビ子先生のとこのバイトまだ続けてるのか」
硝太が鮫島アビ子の家で家政夫のアルバイトをしているのはとある事件に巻き込まれ、左腕と腹をナイフでズタズタにされるという大怪我を負ってすぐのこと。
ミヤコすら傷を心配して仕事を渡さないようにしたのだがそれが逆にワーカーホリックと化した硝太の心配を誘い、結局死にかけの身体で肉体労働を行うという傍から見たら頭がおかしいとしか思えない結果に至った。
それが分かったのが鮫島アビ子のマンガ『東京ブレイド』の舞台化の稽古の見学に来た時なのでアクア目線では怪我が治るまでと思っていたが予想以上に長い期間、家政夫のバイトを続けているようだ。
「B小町の方の仕事ができるようになったから頻度は落としてるけどね。あの人僕がいないとご飯食べないから」
アビ子の仕事の熱心さを思い出して硝太が軽くはにかんだ笑顔を見せる。
元々漫画への熱量が高く、私生活ではだらしないアビ子だったが、硝太が家政夫に入りアシスタントとの関係修復や舞台の際の脚本家との打ち合わせなど家政夫の枠を超えた仕事をし始めてから家事に関しては完全に頼りきっている。
硝太が数日来なくなると何も食べずに飢えた結果アシスタントの人が弁当を買ってくるという自体にまで発展したほどなので硝太からしても頻度を減らすことはあっても行かないという選択肢はもう取れない。
「で、アビ子先生に誘われたと」
「...ハイ」
隠そうとはしたものの、もう内容を全部バラしたようなものなので肩を落としながらアクアの言葉に頷く。
学校を休む程のことなので買い出しとかそういうレベルの話では無い事はすぐに分かる。そして会った回数が少ないはずのアクアから見てもアビ子は硝太の事を気に入っている──否、硝太を異性として好いているので学校を休んでまですることはなんとなく察せられる。
「...いつか刺されるぞ」
対人経験が少ないが故に気に入った相手には距離感が近い硝太の性格上仕方ないのかもしれないが有名マルチタレントの不知火フリルにグラビアアイドルの寿みなみ、そして殺すアニメ化するほどの有名漫画を書いている漫画家の鮫島アビ子と名だたる面子に好かれているのは兄として心配になる。
一度全く別の動機とはいえ刺されている硝太には冗談でも言うべきではないのだが、悪気のないだけでやっていることが思わずホストのようで言葉を零す。
「大丈夫。フリルの事務所の人にも言ったけど友達のためならあと30回ぐらいは耐えるさ」
心配するアクアに硝太は軽く笑いながらズレた反応を見せる。
フリルに「次やったら傷をつける」と言われているので進んでやることはない為、例え話ではあるのだが軽く笑う硝太の口調からそれが嘘ではなく、限界を迎えるそれまでは決してその意見を曲げないということはアクアの目からはもちろん、事情は知らないが聞き耳を立てているクラスメイト達も理解し、戦慄する。
「とりあえず、僕は行くね。日が落ちるまでには帰るよ」
それだけ言って荷物を纏めて教室から出ていく硝太を見て一人アクアは呟いた。
「あいつ何しに来たんだ」
◇◇◇
昼休み。
ルビーに呼び出されたアクアは弁当片手に硝太が時折利用する空き教室へと向かった。
その空き教室にはルビーの他に不知火フリルに寿みなみもいて弁当を囲んで話をしていた。
「え！？硝太帰っちゃったの！？」
「用事があるからだと」
アクアが向かってすぐ硝太の不在を告げると硝太から何も告げられていなかったルビーが驚きの声をあげる。みなみとフリルも口には出さなかったがかなり驚いたようで手元の方を見て肩を落とした。
「そか、おらんのならしゃあないわー」
残念に思っていながらもおっとりとした口調で手元の包み紙に包まれたものを隠すみなみと対照的にフリルはクールな印象のままアクアの方を向く。
「用事って何があるんですか？」
「『東京ブレイド』のアビ子先生に呼ばれたって言ってたけど」
「硝太のやつー！帰ったら説教だね！なんだったら今から電話して連れ戻してくる！」
基本的に硝太を甘やかしがちなルビーにしては珍しく、怒りの感情を隠すことすらなくスマホを取り出す。
だが、その手を横からみなみが止める。
「ええよルビー。それに...邪魔したらあかんし」
「邪魔？」
「呼ばれたから学校サボって行くって...デートやん」
照れながらもみなみが言った発言に一番最初に反応したのはフリルだった。目を丸くして口を歪ませてといつものクールで美人な姿とはかけ離れた顔を見せる。
「デッ──」
「デェートォ！？ないない！硝太に限ってそんなことは無い！」
ルビーはスマホを持ったまま首を大きく横に振る。高校に入るまで友達の一人もできず、アクアやルビーが間に入らずにできた友人以上の関係者なんてそれこそアビ子ぐらい友達を作るのが下手。その上警戒心が強すぎて身内以外との関係を作ろうと思ってすらいない反面できた友人には甘えがちと女の子が好きな性格とはかけ離れているということは幼い頃から見てきたルビーはよく知っている。
そんな硝太がデートに行く、それどころか彼女を作るなんてできるわけが無い。そう思って強気に否定するが、アクアの中ではその可能性が高く否定せずに首をだけ小さく頷かせる。
「けど硝太くん年上好きっぽいしなぁ」
「アビ子先生と硝太は仲良いからな。有り得ない話じゃない」
アクアがアビ子と硝太を同じ空間で見たのは『東京ブレイド』の舞台稽古でのアビ子が見学しに来た時のみ。しかしその短時間でも『東京ブレイド』の舞台に出たものならアビ子からの硝太の感情は誰でもわかると言えるほどにアビ子から硝太の気持ちは大きく見えた。
気に入った異性にはとにかく甘える硝太との相性も決して悪くは無いだろう。人と接する機会がマトモにない硝太は精神的に幼く、世間知らずで正直社会で生きていくにはかなり厳しい。小さいながらも身体は出来上がっている分その様はかなりアンバランスでいわゆる『普通の人』には非常にウケが悪い。そうなると色んな意味で『普通じゃない』アビ子先生とは破れ鍋に綴じ蓋と言える相性の良さがある。
知らないうちに恋人関係になってデートしている、と考えても不思議な話では無い。
「硝太くんも隅におけんなぁ」
女子高生らしく恋愛話が好きなのかみなみの目が目に見えて明るくなる。それに反応するようにフリルの視線が下に落ちる。
やっぱり大人の女性が好きなのかな──と誰にも聞こえない声がどこからか小さく出た。
「ルビー」
先程まで誰とも視線を合わせなかったフリルがルビーの方を向く。切れたナイフのような鋭い目線にルビーは一瞬身体を震えさせる。
「お願いがあるのだけど、いい？」
◇◇◇
都内某所。
ビル街から少し離れた場所に立つ一人の女性の元に気配を出さず、音を立てず、一人の男が並ぶ。
「今日は急にすみません」
外行きのおしゃれ（個人的見解）な服に身を包んだアビ子の隣に並んだのは高校の制服の上に黒いローブ、暗めのサングラス、ヘッドフォンにマスクと不審者にしか見えない装いに身を包んだ硝太。人の目を気にするあまり人の目につきそうな服装になってしまっているが不思議なことにその場で硝太のことを気にするものはアビ子のみ。
硝太は回りを一瞥してそれを確認するとマスクとローブのフードを外す。
「いえ、助かりました。アビ子先生」
「...」
硝太が顔を見せるとアビ子は顔を赤くして視線を外す。そのアビ子の様子を疑問に思う硝太だったが首を傾げるだけに止める。
「本当に良かったんですか？今日学校もあったでしょうに」
硝太が黙ったことに気まずくなったのかアビ子は視線を外したまま独り言を呟くように言った。
「一日ぐらい休んでも問題ないですよ。それに...兄さんにつけられたら困りますし」
スマホの電源は切ったので今はフリーです、と付け加えて笑顔で答える硝太の顔をチラリと見たアビ子はまた顔を背けてしまう。
発言だけ切り取ればバレたらいけないことをしているようで一定の背徳感がある。アビ子からすれば好意を持っている──年下の高校生を一日学校をサボらせて彼氏のように隣に侍させるというのだからいつも以上に緊張している。
実際、硝太の発言通りこの場をフリルやみなみはともかくアクアかルビーに見られることは最も避けたい事態と言っても過言では無い。わざわざ|この日《バレンタイン》を選んだのはそういう意図もある。アクアとルビーに行動を把握されず、逆にアクアとルビーの位置を大体でも把握出来る日。それがたまたまバレンタインだった。
しかし学生時代から漫画に人生を捧げてマトモな異性関係どころか交友関係もないアビ子からすれば初恋デートでしかない。
─心拍数増加、2月の冬だと言うのに身体がかなり火照っている。アビ子先生は友達が少ないし、男と二人で並ぶのが怖いのは当然か。
アビ子の緊張を感じ取った硝太は軽くアビ子の正面に跳ぶと着地と同時に膝をついてアビ子に手を伸ばす。
「じゃあ行きましょうか。エスコートはさせていただきます」
女性の緊張を感じ取ったとは思えない、硝太らしくもない行動に思わずアビ子は笑みを浮かべる。
「...道知らないくせに」
「確かにそうだ。恥っず」
アビ子の発言が刺さったのか今度は硝太がアビ子から視線を外して絶妙な表情を浮かべる。それがまたアビ子の性癖に謎の刺さり方を見せる。
「硝太くんはそうじゃないと...じゃあ行きましょうか」
アビ子がゆっくり硝太の伸ばした手を取る。
それを合図として硝太が立ち上がり、冬の町にふたりの男女が歩き始めた。