バレンタイン・後編

バレンタイン・後編


─最初は単なる違和感だった。

いつもの姉じゃない。そう気付いた時にはもう遅かった。天真爛漫で、悪く言えばアホの子よく言えば天然で綺麗で真っ直ぐな姉の雰囲気が変わっていた。


そこには殺意があった。そこには怒りがあった。少し前、フリルのストーカーが見せてきたものと同質のもの。人が遊びで「殺すぞ」というのとは比べるのも烏滸がましい純粋な殺意。

ナイフの切っ先が首筋を撫でる感覚。見てるだけの僕まで殺されそうだった。


「違う」


違う。そうじゃない。《《アナタ》》はそれでは無い。そうであってはいけない。

しかしそうやって僕が心の中で叫んでいるのに対して、逆にファンは死人に惹かれていくようにその姉を肯定した。僕はアイドルに詳しくないから、最近のアイドルのトレンドはそういうタイプなのかもしれないし、逆に新しくて人気になったのかも分からない。


「どうでもいい」


他のアイドルとか、その時期のトレンドとか。そんなのは僕が考えても分からないし分かったとしても問題はそこでは無い。

人気になっていく姉と姉代わりの仲間の姿を見るのは僕にとって唯一と言える娯楽になった。しかしそこから変わっていく姉の変化を、僕は心の底から喜べなかった。


そんな姉に少しでも寄り添いたくて、姉と姉代わりの仲間と接する時間を増やした。姉の変化に対応するように離れていく心の距離を少しでも縮められるように努力した。

その度に、姉の魂の奥底にあるものに触れる。そこには、一人の男がいた。その男は何度か見たことがある男だった。なんなら死体の姿を見た事すらある。


「お前だろ?姉さんと兄さんの心に住み着く悪霊もどきが」


雨宮吾郎。

貴様は何者だ。何故そこにいる。

兄の怒りを担い、姉の怒りを目覚めさせた男。二人にそれほど強い印象を与えた僕のことを知らない男。


「二人から離れろ。二人から外れろ。さもなければ殺す」


内に棄てたはずの恐怖が、失望が、嫉妬が、絶望が、怒りが、悪意が。その果てにある破壊願望が。

そしてそこから湧き上がった蓋をしていたはずの魔法が再起動した。


◇◇◇

「ただいまー」


 家に帰って最初に見たのは玄関の前で仁王立ちしているふくれっ面の|姉《ルビー》。予想通りの反応すぎて吹き出しそうになるのをなんとか抑える。


「何笑ってるの?」


しかし笑みは抑えられなかったようでルビーは笑い事じゃないと言わんばかりに怒りを強める。


「硝太、なんで今日サボったの?」

「用事があったんだよ」


内容は言えないけどね、そう心の中でつけ加える。

ルビーはより一層睨みを効かせる。最近はルビーの睨みがより良心に刺さるようになった。ルビーがドスの効いた表情をできるようになったというのもあるがそれ以上に家族に隠し事をしているという事実が片腕をズタズタに斬られるより痛い。


「それ、なんで前から言わなかったの?」


─事前に言ってアナタにバレたくなかったからです。

そんなことが言えるわけなく言い淀む。何かの間違いで情報を公開した日にはルビーがどうなるか予想も出来ない。

正直なところを言うと予想もしたくない。


「なんでっ!漫画家の先生と付き合ってるって言わなかったの!?」

「──はい?」


一瞬、視界が真っ白になった。

脳天を殴られたような衝撃を感じたがそれに耐えて再びルビーの方を見る。

ルビーが混乱している様子は無い。なんの裏もない、正気で聞いてきてくれているというのが分かると同時に頭が痛くなる。


─なんでこうなった?


「硝太に彼女が出来たなんて私聞いてない!なんで言ってくれなかったの!?私お姉ちゃんなのに!私!お姉ちゃんなのに!!」

「姉さん?姉さん姉さん?」


頭は痛くなってきたが、怒りながらも少し楽しそうに言葉を続けるルビーを見るとこの勘違いをそのままにしてもいいかな、とアビ子先生に失礼なことを考え始めていた。

最近のルビーには思うところはあるが僕と接する間だけでもそれを忘れてくれたら、それは救い出せる一歩を踏みしめたと考えても間違いは無い。


─後はあのオトコを排除出来れば...ルビーもアクアマリンも怒りと殺意に揉まれなくて済む。ソレはボクが持つべきものであり、2人が持つべきものじゃない。2人は普通に幸せに生きなければならない。

─それがあの人の願いだろう?


「硝太!聞いてる!?」

「は、はいっ!」


いつの間にか考え事に熱中しすぎてルビーの話を話半分で聞いていたようだ。

ルビーはいつもこうやって僕の中に渦巻く悪意を削るような言動をする。これを理解してやっている訳ではなく、姉として本能的に行っているのだから恐ろしい。

だからかもしれない。僕が嘘をつけないのは。


「兎に角!彼女が出来たりしたらお姉ちゃんにちゃんと報告すること!デートにいく時も!クソダサい服着せたりなんてさせないからね!」

「...姉さん、僕に彼女なんて居ないよ」

「───はい?」


鳩が豆鉄砲を打たれたような表情をしたルビーを見て僕は少ししてやった気分になった。きっと数十秒前の自分も同じような顔をしていたのだろう。


「え?じゃあ漫画家の先生は?」

「少し遊んだだけ。アビ子先生予定空く日がほとんどないから」

「狙ってる?」

「アビ子先生は大人だよ?僕なんて餓鬼にしか見えないって」


嘘では無い。嘘では無い。ただ大事な要素を隠しているだけ。


ルビーとアクアの中に住み着く雨宮吾郎という男を調べるということだけは除いて話した。今日分かったのは彼の死亡推定時刻...というより死亡推定年は16年前。つまり僕らが生まれた年だということ。

だからルビーを欺けたのか、ルビーは少し考えると何度も頷いた。


話は終わったと判断して靴を脱いでルビーの横を通り過ぎる。アクアしか知らないはずのアビ子先生の話を出してくるということはアクアからその話を出したということ。そこからどうして彼女になったとなったのかは不明だが、アクアも同じ勘違いをしている可能性は高いのでそれは訂正しなくてはわざわざ時間を作ってくれたアビ子先生に申し訳が立たない。


そんなことを思っていた時、後ろからルビーの声がかかる。


「そっかぁ、そぉっかぁ...硝太は友達からのバレンタインチョコより大人な漫画家先生と遊ぶことを選んだのか...漫画家先生に相当可愛がってもらっているみたいだね」


気になる単語が出てきたため自然と足が止まる。友達からのバレンタインチョコ。自分にとってバレンタインチョコはルビーとお母さんから貰うものであり、それ以外にくれる人なんてまず居ない。アビ子先生が今日チョコレートを買ってくれたがそれはちょっと気分がいいから飼い犬に高いお菓子を買ってあげるのと似たような感覚だった気がする。そのはずなのにルビーはほかにもくれる人がいるかのような言い方が引っかかる。


「バレンタインチョコ?姉さんとお母さん以外に誰が渡すって言うのさ」

「硝太。バレンタインにはね、友チョコっていうのがあるのよ」


ルビーが何処かから綺麗な包み紙にくるまれたチョコを取り出す。


「みなみちゃんからのお友達チョコー」


某猫型ロボットがひ〇つ道具を取り出す時のような声で出されたのはきちんと包装された板チョコだった。なるほどお友達チョコ、そういう文明もあるのか。もしかしたらアビ子先生もその文明を知ってチョコを買ってくれたのかもしれない。


「みなみさんから?マジで?」

「明日学校でみなみちゃんにちゃんと謝ること!いいね!お姉ちゃんからは以上!」


僕の掌にそのチョコを置くと返答も聞かずにルビーは踵を返して自室へと駆け込んで行った。最後だけかなり焦っていたように見えたが今現在ルビーに焦る要因があるとは思えない。

気になる、がここで余計に干渉するべきではない。そもそもルビーは学校をサボった理由をアビ子先生と一緒だったが恋人のデートでは無い、としか知らない。下手に追求されれば朝アクアにしてしまったように情報を公開してしまう可能性が高い。


こんなことで兄姉とのコミュニケーションに支障が出る、というのも苦しい話だが今は我慢するしかない。姉さんが、誰かに殺意が湧いたりするようなことが無くなれば隠し事をする必要もない。


そんなことを思っていると背中からインターフォンを押す音が聞こえた。

ピンポーン


耳に響くその音で記憶の中にある蓋が一瞬だけ開かれる。


『アイ、ドーム公演おめでとう』


「ぅあっ...」


嫌なイメージが流れ込んできて倒れそうになるのをなんとか体幹を使って耐える。耳の中でまとわりつく20代から30代の男の声。差し出されるように突き出されるナイフ。こちら目掛けて近付いてくるナイフと僕の体の間に、柔らかいものが入る。


─零れる赤いナニカ。


─痛みに耐えきれず沈む■■。


─苦しそうな笑みを浮かべる■■■。


ワラウナ。ワラウナ。ワラウナ。


額から冷たい気持ちの悪い汗が出てくる。肺を掴まれたように呼吸が上手くできない。指先が震え、感覚を失っていく。


『アクア...ルビー...硝ちゃん...』

『ア・イ・シ...』


溢れる涙に太陽の光は隠され、闇に包まれる。光は閉ざした。もう、前と後ろすら分からない。


「っ、がっ!」


反射的に腹を勢いよく殴り、記憶にもう一度蓋をする。出てきたイメージを振り払い、脳内から消し去るが、体調はそう簡単には治らない。殴った場所には大きめの痣が出来ている。強く殴りすぎたか。

みなみさんからのチョコレートを庇いながら壁にもたれかかって体育座りの体勢になる。


「はぁ、はぁ...来客...か」


ルビーやアクアが玄関に来る様子は無い。お母さんは玄関で仕事をしているようだが、ルビーとアクアも何か用事があるようだ。


重い足取りでみなみさんからのチョコレートを近くの机の上に置いて玄関の扉を開ける。


「フリル?」


整えられた綺麗な黒髪。こちらを覗き込んでくる猫のような瞳。キレイなスタイルはギリシャの彫刻品を初めとした芸術品の数々に勝るとも劣らない。


「こんばんわ、ちょっといい?」


少し困ったような顔でフリルは近くの公園を指さした。


◇◇◇

事前連絡も無しで急に来たフリルを世間の目から隠すように近所の公園へと駆け込み、近くのブランコに座る。


「急で驚いたよ、何かあったの?」


フリルは強い女性だ。肉体的なものはさておき、精神的にはもう自立している。ただ実家から出て独り立ちしているだけでも僕には出来ないことだが、それでいながら寂しい様子すら見せずに学園生活を楽しんでいる。

そんな彼女が何の連絡も無しに苺プロへと駆け込むには必ず理由がある。それもそう単純な理由では無い。苺プロの人間では無いフリルがここまで来るというのはフリルの事務所から見ても、苺プロから見ても、そして第三者から見ても変な勘繰りを起こしてしまう。


「そんなに難しい理由じゃないよ」


フリルはこちらの心を見透かしているようにこちらの懸念を否定する。


「ただ今日学校に居なかったらどうしたのかなって思っただけ」

「心配かけたのか...ごめん」


スマホで連絡するなりL〇NEで聞けばよかったのでは?と思ったが考えてみればGPSで特定されることを嫌って電源を切っていたことを思い出した。


「大した用事じゃないんだ。ただアビ子先生───あ、『東京ブレイド』の原作の人と一緒にいただけで」


下手に深掘りされたらバレてはいけない情報も公開してしまいそうなのでルビーと同じだけの情報を出す。

先程のルビーのようにアビ子先生とデートをしていたという勘違いをしてたら謝るしかない。


しかしフリルの反応は勘違いをするわけでも納得する訳でもなかった。


「──何か、隠してる?」


フリルの的を得た発言にギクリとする。聞いてくるフリルの声は冷たく、目はこちらの心の底まで見抜いて来そうなほど鋭い。

その本気度が先程の発言をただの勘では無い、経験に基づくものであると証明している。


「全部が嘘ってわけじゃないよね。うん。でも一番大事なことを隠してる。君のことだからきっとルビーのことかな?」


しかも隠していることがバレたら1番不味いこと、なんてことまでバレている。しかも内容も半分、いや80パーセントは当たっている。


「なん──で?」


掠れた声しか出せない。上手く隠せたとは言わないが、それでも隠し事の重要度やその内容まで読み切るのは不可能なはずだ。それこそ調べるところを見られでもしない限りは。

──まさか後ろにつかれていた?学校に来なかったというそれだけの理由で?


ありえない。電源を切ってあったのでスマホの位置情報を辿るのは不可能。行先はつけない。一日中見張られていないか警戒していた結果僕を見る人物は誰もいなかった。唯一見てたと言えるアビ子先生にも口止めはしてある。バレる要因は無い。いくら僕が嘘と隠し事が下手とはいえ精々『コイツ、何か隠してるな』と思う程度のはず。


「一度まんまと騙されたからね。硝太のクセはよく見てるんだ」


フリルは驚いているこちらを見ていたずらっぽい笑みを浮かべると推理小説の探偵役のようにつらつらと語り始める。

騙された、と言うのはきっと《《例の事件》》の時にフリルに僕自身が傷つく可能性を考慮させなかった時のものだろう。あれは騙したと言うより思考を誘導した、というのが正しいし僕自身も襲われる可能性を低く見積っていたのでアレでも騙しきれたかと考えると怪しい。

しかしフリルからすれば明確に騙されたのだ。その事に深く着目するべきだった。


「まず情報を制限しようとしてるってのは言い方からすぐわかったよ。それに私の目を見てくれなくなったし後ろめたいことがあるって顔してる」


フリルの言葉に思わず自分の頬に手を伸ばす。フリルの指摘したことはいくらあからさまだとしても僕の言葉を一言一言よく聞いて細かな表情の変化を見ていないと分からないことだ。


本当によく見ている。──否、僕は見られていることに気づかなさすぎる。もしくは、気付かないようにしているのか。

どちらにしろフリルの目に映る僕はとてもわかりやすい部類ということに間違いは無い。


こちらがそう思っていることを分かっているフリルは話を続ける。


「あと最近硝太がルビーのこと気にかけていた事は知っていたし。硝太はルビーのこと大好きだから、きっと私より先に気付いていただろうから対策は打つだろうなって」


フリルの言っていることは全て正しい。

僕がルビーの違和感に気づいたのは『東京ブレイド』の後に行った宮崎の旅行。そこで見たある医師の死体。ルビーとあかねちゃんに見られた時、ルビーの中から知らない感情が溢れたのを見つけた。

絶望と近く、失望に遠い。その感情の名を僕は知らない。きっと一生理解することは無い。


それだけなら、ルビーを慰めるだけでよかった。2人が生まれたのもその辺なのできっと過去の友人か何かだろう。それなら時間と共に解決していける。けど僕はいつまでも見込みが甘い。いつの間にかルビーの心には酷く暗い闇が現れていた。

どこの誰かが手を加えたのだろう。殺意や怒りに方向性が生まれていた。この形はとてもよく知っている。それはルビーには、優しい姉にはあってはいけないもの。1度でもそれを使えば、簡単には戻れないもの。何がなんでも達成させるという熱意を吐き捨てた執着。凝り固まり、呪うことに特化した悪意。

姉さんにはソレを使わせる訳にはいかない。その為に姉さんの心の奥でそれを生み出し続ける原点を破壊すること考えた。

そこにいたのが兄さんの奥にも潜み続けていた雨宮吾郎。兄さんの|別側面《オルターエゴ》に近い、というよりそれを担っている悪霊。


なぜ二人に宿っているのか、どう殺せばいいのかは分からない。だけど放置したままではいられない。ルビーをそちら側に行かせる訳には行かない。今日学校をサボったのもその為であり、決して遊ぶためでは無い。

偽装工作にも時間はかけたのだが、フリルにはお見通しらしい。


「──フリルに嘘はつけないな」

「君がルビーと同じぐらい真っ直ぐで、優しいからだよ。少なくとも、隠し事をしてるって当たり前のことで傷つくぐらいには」

「優しい?違うよ、フリル」


優しい。フリルは間違いなくそう言った。

僕を指してそう言った。ルビーではなく僕をさして優しいと言った。優しさとは、心が暖かく思いやりがあることを示すと教わった。


フリルはどこで勘違いしたのだろうか。僕が優しいなんて、あるはずがない。■■を見捨てた僕に優しいと言われる筋合いは無い。■■の言葉も、声も忘れた僕はただの臆病者だ。そして間違いなくあの日に惹かれている僕は人として壊れている。


「...僕は優しくないよ。ただ──優しくなりたいだけ」


自分の声とは思えないほど低く重い声でフリルの言葉に返した。

絶望の縁、地獄の底で自分自身という名の感情をひたすら殺し続けた僕を救ってくれたお母さん。そのまま使いものにならない僕をここまで育ててくれた。彼女はとても優しい。だから優しくなりたい僕はその優しさを模倣することにした。


ただそれだけ。それ以上のものは僕には無い。人に共感することは多くある。フリルのように助けられる人物を助けたいと思って行動することもあるにはある。だけどそれは僕が優しいからじゃない。僕が行動する時は必ず家族や友達に影響があるときでしかないのだから。今回のようにルビーやお母さんが不幸にならない問題には向き合う気すらない。本当に優しい人なら知らない他人にも優しくしただろう。だけど僕は知らない他人には優しくしようとすら思えない。彼らを理解したくない、共感したくない。

だから外を出る時もヘッドフォンやサングラスで人との間に自然と境界線を作る。そんな僕だから境界線の内側に来てくれないと友人になろうとすら思わない。フリルですらルビーがいなければ赤の他人で済ませていたし、《《例の事件》》も知っていても放置しただろう。僕は所詮その程度の人間でしかない。


「そっか」


フリルは否定しない。きっと僕が考えたことも見透かしているのだろうが何一つそれは違うと言い返すことは無かった。ただ月が隠れた空を眺めている

その様子を見て僕はフリルは優しい人なんだな、と思った。僕のように形だけ真似たような人間なら即座に僕の言葉を否定しただろう。君は本当は優しいんだ、そんな気持ちのいい嘘を並べて終わらせようとしたに違いない。

けど彼女はそうせずに隣で小さくブランコを漕ぎながらぼーっと上を眺める。


「うん。僕は嫌われて当然の人間だよ。ましてやフリルに気にかけてもらうほどの人じゃない」

「...でも、私は嬉しかったよ」

「フリル?」


上を向いていたフリルの顔がこちらに向く。綺麗なペリドット色の瞳に頭をおろしている僕の姿が映る。


「君が計算づくでやったことだとしても、君が助けてくれたことは本当に嬉しかったんだよ。硝太が変な人でも、あの時の行動は決して──」

「──間違いなんかじゃないんだって」

「──ぅ、あ」


雲の隙間から月明かりが差し込む。

月明かりに照らされたフリルの姿がとても綺麗で、呻き声が出てきた。その姿はまるで僕が斎藤硝太として産まれた──ではなく救われた日のお母さんのようだった。


『ごめんね、硝太』


最初にそう言って泣きながら抱きしめてくれたお母さんの姿。『もう1人にはしない』と言い切ってくれたお母さん。それこそが僕にとってのオリジンであり、僕はそれに酬いるために生きている。フリルとってはあの事件がそうなのかもしれない。

今更、君が赤の他人だったら手を出していなかったとは言えない。もしそう言ったとしても必ず『でも私を助けてくれたのは硝太だよ』なんてこと言われるだろうから。


「硝太が自分は優しくないって言うなら、それでもいいよ。その代わり私が硝太が誰かを思いやれるいい人だって言い続けるから」

「フリルは強いね。僕はそんなに強くなれない」

「けど私は君のそういうところ、好きだよ。ちょっとした事で凹んで今もこうしてナヨナヨしちゃうけど。やっぱり大切な人のために頑張れるとこ」


もうちょっと自分の事を大切にして欲しいけど。と口をとがらせて文句を付け足すフリル。子供のような文句なのに、何故か涙腺が熱くなる。


「君が自分は優しくない、って思う理由は分からないけど。安心して。君が自分自身を許して認められるようになるまで、私が証明するから。何度でも」

「──ありがとう」


震えた声では、お礼しか言えなかった。


◇◇◇

夜風に当たり、少し冷えてきた時間帯。

僕の震えが段々治まってきたのを確認したフリルがカバンから小さな袋を取り出す。


「──と、言うわけではい」


丁寧に包装されたその袋の中には見覚えのない小さなハート型のチョコレートが幾つも入っている。


「あ、ありがとう」


みなみさんからお友達チョコと言うのは受け取っていたが直接受け取るとどこか気恥しい。

袋の中のチョコレートをちゃんと見ると型でとってある跡がある。手作りチョコと見て間違いは無い。


「すごいね。一つ一つ手作りだ」

「始めてだけど味は保証するよ。硝太の分だけだからね。私の手作りは」


勝ち誇った顔のフリルはそう言うとブランコをスイングさせて飛び降りる。

しかし僕はそれよりチョコが何故手作りなのかということに疑問を持っていた。お菓子作りが趣味だったりするならわかる。しかしフリルは始めてと言い切った。ただでさえバラエティなどの仕事で時間が足りない上に初経験となると作るのは時間がかかるだろう。

それだけの思いを込めたチョコを僕にだけ渡す。その意図が上手く掴めない。みなみさんもルビーもフリルにとっては友達だろうに。


「え?なんで?」

「それは内緒」


フリルはこちらを振り向かずにそう答えた。

口調、声質こそいつも通りクールだが、声には熱が入っている。この場合の熱と言うのは勢いという意味では無く、体温が上がっているような状態を指す。やっと僕が落ち着いたというのに逆にフリルの状態がおかしくなったら意味が無い。そう思い手を出そうとしたが、それは途中ではばかられた。


「それじゃ、ルビーに悪いし私は行くね。また明日」

「ああ、また明日」


フリルは一人で足早に公園を出て行った何か予定でもあるのだろう。嵐のように心を乱して去っていったフリルの背中は、もう見えない。雲から出てきていたはずの月も、役者がいなくなって公演の終わりを告げるようにいつの間にかまた雲の中に隠れてしまった。


一人残った僕は徐ろにブランコを漕ぎ始める。フリルからもらったチョコの袋を開けて一つだけ摘んで口の中に放り投げた。


「甘...うん。美味しい」


口の中で溶け始めるチョコレート。少し甘すぎる気はするがとても美味しい。フリルの言う通り、始めてだとするならこの出来は凄い。余程頑張ったのだろうということが伝わる。


だと言うのにいつの間にか湧き出た胸騒ぎは収まらない。不幸を告げるものでは無い。むしろ嬉しいはずなのに心臓が強く鼓動している。

とても甘くて、ちょっと寂しくて、すごく緊張する。フリルにお母さんを重ねて安心を感じた、ということまでは言語化できる。しかしそれ以上は分からない。


「知らない感情だ」


フリルと出会う少し前はファンを名乗っていたがフリルが出る作品を見る程度で熱心なファンという訳ではなくどちらかと言うとミーハーのようなものだった。

それが今ではキャラとして作っているわけじゃない本物に触れて、感じている。熱心なファンの人でも分からないようなことを知れたような気がする。だと言うのに、「まだ知りたい」「もっと一緒にいたい」と言い続ける自分がいる。胸の鼓動は激しくなり続ける。


「間違いじゃない──か」


あの時の判断を、自分は悔いる気は無い。確かに手傷は負ったし生死の境をさ迷ったがそれ以上のものを得られたから。

フリルは綺麗だな。見た目はもちろん、その精神性も含めて僕は彼女のことを綺麗だと思ったから。その輝きを見られただけで十分だ。


──十分?それは嘘だ。もっと触れたい。もっと近付きたい。もっと、彼女に──近くにいて欲しい。


「これは困った」


理解できない感情に浸されて戸惑い、本心から零れたその声に答えるものは、誰もいなかった。

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