ハートとタバコと夕方の話
潜水艦の生活には我慢しなきゃいけないことがいくつかある。火を使うことがそのひとつだ。調理に暖房に(うちではどっちも電熱式だ)、それからタバコ。潜水していない時に甲板で吸うことはできるけど、それにしたって吸える機会が限られているのに変わりはない。嗜む程度、くらいのクルーは何人かいるけれど、麦わらのとこの黒足屋みたく常時咥えタバコをしているようなやつはうちにはいなかった。
キャプテンはその、何人か、のうちのひとりだ。吸っているところを見たのはおれだって片手の指で数えられるくらい。そのどれも、おれたちクルーが大半出払った時や、キャプテンのほうがおれたちのいるところから遠くに出向いていて一人でいるときだ。
今日だってそう。キャプテンはいつもの賑やかさが嘘みたいにしんとした甲板でひとり柵に片肘をついて、うっすらオレンジの滲みはじめた水平線をぼんやり見つめながら、咥えた細い紙タバコの先の煙をくゆらせている。いつものローライズのデニムに麻のシャツを羽織っていて、夕方に向けて強くなっていく風が薄い生地の裾をひらひら揺らしていた。かろうじてこっちから見える横顔は逆光に邪魔されていて、表情はよく分からない。その背中に、おれはわざと板張りの甲板を鳴らすようにしながら近づいて、肩側からがばっとくるみ込むみたいにして抱きついた。二人分の体重を受けたポーラーがギィ、とほんのゆっくり揺れる。
「どうした、ベポ」
そう言って、たった今気づいたんだと言わんばかりにキャプテンがおれの方を振りあおぐ。「ん〜、なんとなく」おれはそう言って、キャプテンの体に回した腕にぎゅっと力を込めながら、ほっぺたに自分のをすりつける。そうすると、キャプテンはまだ少しだけ先の残っているタバコの先端をジュッと握り消して、こんなときぐらいにしか使わない携帯灰皿の中に吸い殻をしまってくれるんだ。何回かのうちにおれが学んだこと。
「あいつらは?」
「先に上陸してるよ。今日は飲み明かすって」
「じゃあきっと朝まで帰って来やしねェな」
肩を少し揺らしてくつくつ笑う。この島に着いてから向こう、キャプテンは立て続けに難しいオペを三件こなした。やっと落ち着いた今日の昼に気絶するみたいに寝落ちして、そんなキャプテンをゆっくり寝かせるためにクルーは全員島に降りていった――おれを除いて。こういうときのキャプテンはお前の担当だろ、ニヤニヤしながら肩に手を置いてきたシャチに言いたいことが無いわけじゃないけれど(陸で女の子にこっぴどくフラれてくればいいのに)、こうしてキャプテンと二人きりになれるのはどうしたって嬉しい。
「一人でどうしてた」
「んー、昨日までの海図を描いて、お昼寝して......あああとね、ハーブティーを淹れたよ。前に買ったリンゴと生姜の」
「ハチミツは入れなかったのか」
「ちょうど切らしちゃってて」
「じゃあ、明日買いに行かねェとな」
「うん!」
キャプテンがおれの後ろ頭をわしわし撫でてくれて、おれはますますキャプテンをぎゅっと抱きしめた腕を離したくなくなる。こんなちょっとした明日の約束をするときが、ほかの何よりも嬉しい。
キャプテン。おれの知ってる、誰よりも強くて優しいひと。
どんなに苦しい別れの記憶だって抱きしめて、その人との思い出を大切に抱えて生きていける人だって分かってるけれど。それでも、どんな痛みも大事に抱えていけるこの人に、ほんの少しだって痛くて苦しい思いをしてほしくないって思うのは、おれの勝手なワガママ?
アンタの夢が叶うまで、死ぬつもりは毛頭ないけれど――それでも、もしかしたら訪れるかもしれない未来に、アンタがおれを想って泣くくらいならいっそ、何もかも忘れてくれたらいいんだって。……そんなこと、告げられるはずもないけれど。
「......少し冷えてきたな。そろそろ中に入るか」
「……ううん」
もうちょっと。首を横に振って、おれのよりちょっと硬い猫っ毛に鼻先をうずめる。いつものシャンプーの匂いと、ほんの少し困ったような、だけども何だって許してくれるような、そんな穏やかなとくとく聞こえる音。……この人の、生きている音。
「ねえ、キャプテン、……ローさん」
「ん」
「大好きだよ」
「……ああ」
おれもだよ。少し首を傾けてそう言ってくれる人と、軽く触れるだけのキス。胸がきゅっとなるほど微かな音を海風にさざめきはじめた波がかき消して、西日もすっかり届かなくなった甲板はおれたちだけの場所になる。キャプテン、おれのたった一人の、大好きでかけがえのないローさん。いつか来るかもしれないし、来ないかもしれない日の、それまではおれが、艦の談話室の電熱ストーブよりも、ちっちゃなタバコの火よりもずっとずっと、アンタのことをあっためてみせるから。
分厚いつなぎ越しに分かる、ほう、と長くて深いキャプテンの息と、おれの呼吸がゆっくりひとつになっていく。それを感じながら、のぼりかけのお月様に背をむけるみたいに、ゆるく目をつむった。