ハナ咲クハル(7)
コハルちゃんが行使した謎の力。恐らくあれは、アビドスの砂糖による『神秘』の変異。かつて私に備わっていた力のように、オーバードーズを起こした者に現れる特異な能力。それが発現したのが、あの光り輝く手榴弾なのだろう。
コハルちゃんが元々持っていた、他人を治癒する力。それが覚醒する形で変化して──砂糖中毒に陥った者を癒し、元に戻す力になった。
「もう、何ともないの?」
「………………はい」
ベットの上で並んで腰掛けながら、ぎこちなく言葉を返す。
砂糖に対する欲求は欠片も残さず消え去っていた。ほんの少し前までは、アレがなければ生きていけないとすら感じるほどだったのに。
「そっか。よか、ったぁ……」
それを聞いたコハルちゃんは、安心したように微笑んだ。中毒症状と禁断症状で、小さな身体はもうぼろぼろで。おまけに慣れない力を使ったせいなのか、酷く疲れているような状態で。
それでもなお、考えているのは私のことばかりだった。…………あれだけのことをした、私のことを。
「────どうして」
「え……?」
「…………いえ、なんでもないです」
どうして、そこまで。
思わずそう問おうとして、途中で止めた。間違いなく「友達だから」なんて答えが返ってくると、聞く前に分かってしまったから。それが分かる程度には、深く知り合ってしまっているから。
それを断ち切ろうとしたのは、私だというのに。
「…………コハルちゃんの方は、大丈夫なんですか。その、身体は────」
誤魔化すように聞き返してから、すぐに後悔した。どの口が言っているんだ。彼女がこうなったのは誰のせいだ。全部全部、私がしたことじゃないか。
「…………一応、今は落ち着いてる」
その言い方に、遅まきながら気付く。心身共に元に戻った私と違い、コハルちゃんの心と身体は、今もなお砂糖に侵されたままだということに。
「治って、ないんですか?」
「…………そうね」
おかしい。あの時、鮮やかなピンク色の波動が私たちの周囲を灼いた時、私のすぐ目の前にいたコハルちゃんは当然その範囲内にいた。
「どうして……?治さなかったんですか?それとも、自分には作用させられなかった……?」
「…………まだ、治らなくていい。治ったら使えなくなりそうだし。この力は、まだ必要だから」
治せるけれどわざと治さなかったのか、それとも自分は治せないのか。思わず考え込みながら聞いた私に、コハルちゃんはどちらとも答えなかった。
「この力で、みんなを治す。今の私には、それができる」
ただひと言、決意を固めるようにそう呟いていた。
「…………ハナコは、これからどうするの?」
ふい、と顔を上げて、横に座る私を見上げてくるコハルちゃん。問いかけられて頭によぎったのは、アビドスにいる2人のこと。
(ホシノさん……ヒナさん……私は……)
あの2人と過ごした時間は、私にとって、間違いなくかけがえのないものだった。砂糖が抜けた今でも尚、その気持ちは胸に残っている。
3人で過ごす時間は幸せで。一緒にいられることが嬉しくて。話しているだけで楽しくて。これ以上ないくらい、心が安らぐ時間だった。
(けれど、それは────)
自分達を含め大勢の心を狂わせ。それ以外の、もっと大勢の人を不幸にして。その上で成り立っていた、狂気の幸福。
砂糖がもたらす形のない幸福感と酩酊感に文字通り酔いしれながら、何もかもから目を逸らしていた、空虚な幸福。
それが、あのアビドスに流れる時間の実態だ。正気に戻った今だからこそ、そのことが強く理解できてしまう。
「…………トリニティか、ヴァルキューレか、連邦生徒会か、シャーレか。どこかしらに出頭しようと思います」
もうあの砂糖を摂ろうとは思わなかった。欲しいとも思えなくなった。むしろ、元の正常な思考と精神を取り戻した今の私にとっては、何よりも悍ましいものとすら思えた。
もし、最初に砂糖を摂ってしまったあの日を迎えないままでいられた私が居たとするなら、同じように考えただろう。
「…………赦されるとは、思いませんが」
だからこそ思う。私は、私達は、あまりに大きなものを、沢山のものを、惨たらしく踏み躙り過ぎた。そうやって裏切られ、傷付けられ、大切なものを奪われた人々は、私達のことを許しはしないだろう。
過去は消えない。そこから先の未来でどんな行動を取ったとしても、決して無かったことにはならない。私が砂糖から脱却したことなど、それまで犯した罪に何ら影響しない。
贖いきれるとは思えないけれど、せめてもの償いとして────────
「────────だめ」
不意に。コハルちゃんは、そんなことを言った。
「え…………?」
「出頭は、しちゃだめ。ハナコが殺されちゃう」
首を傾げた私に、コハルちゃんは語り始めた。ミレニアム、トリニティ、ゲヘナの三大校をはじめとした数多の学園から成る連合によるアビドスへの総攻撃。そしてその際、主犯と見做された私とヒナさん、そしてホシノさんの"処遇"については捕らえた学園に裁量が与えられること。その"処遇"に対して制限が全く課せられていないこと。
ミレニアムを筆頭に、ほぼ全ての学校が"処刑"を……すなわち、『死』によって償わせることを、選択肢に入れていること。
「────────なら、私は首を差し出すべきなのでしょうね」
当然だ、と思った。私達の罪を考えれば当然の帰結だ。私達の命だけではとてもじゃないが足りるものではない。けれど、いやだからこそ、せめて人ひとりに課すことのできる最も重い罰を以て、私達は裁かれるべきなのだろう。間接的に告げられた死刑宣告に対して、私は納得しか感じられなかった。
「何言ってんのよっ………そんなの、だめに決まってるじゃないっ……!!」
なのに。コハルちゃんは表情を歪めて、必死になって私を止めてくる。
「…………コハルちゃんがそこまで言ってくれるのは、烏滸がましいかも知れないけれど、嬉しいです。しかし、これは────」
「確かにハナコに死んで欲しくないから言ってるのもあるけどっ!そうじゃないの!それだけじゃない!私たちは知ってるでしょ!?」
「え……?」
私たちは、知っている?どういう意味なのか、わからない。コハルちゃんの言う、コハルちゃんの優しさ以外の理由がわからない。
そんな私に、少し怒りを滲ませながら、コハルちゃんが叫んだ。
「…………ッ、あんたねぇ!"あの時"のアズサがどうだったか、もう忘れたの!?」
「────あぁ」
あの時のアズサちゃん。そう言われて、コハルちゃんの言わんとすることに思い至った。
エデン条約の争乱とアリウスとの戦い。セイアちゃんのヘイローを壊すことを命じられ、そんなことはできないと、家族のようとすら思えたスクワッドまで裏切ることを決意するほど人殺しを忌避したアズサちゃん。そんな彼女が、アリウスが起こしたテロを止めるために、使わないままだった人殺しの道具────『ヘイローを壊す爆弾』を、使ってしまった時のこと。
一度は殺害という手段に踏み切ってしまった事実は、確かにアズサちゃんを苛んでいて。たった1人でアリウスと戦おうとした彼女を追いかけて合流した時には、決意に満ちてはいるものの、今にも折れてしまいそうな、心が粉々に割れてしまいそうな、あまりに傷ついた表情をしていた。
その時のことを。コハルちゃんは、ずっと忘れなかった。
「そこにどんな理由があっても、誰かを殺すなんて真似、誰にもさせちゃいけないの!!あんな苦しそうになるような思い、誰もしちゃいけないし、させちゃいけないっ!!そんなの絶対、ダメなんだからっ!!!」
ガタガタの身体で叫ぶのは辛かったのか、息を荒げながら必死に私にしがみついてくる。そんなコハルちゃんに、私は何も言えなくなってしまった。
「………………ハナコは殺させない。アビドスにいる人も、殺させない。誰かを殺すなんてこと、絶対に誰にもやらせない」
「私、バカだから。どうしたらいいかなんて、まだ全然、わかんないけど……でも、でも……!」
「死刑になんて、させないんだから……!」
「…………………………ふふっ」
それを聞いて、私は。
「ふっ、あははっ」
思わず。そんな風に、気の抜けた笑い声が漏れてしまった。
「エッチなのは死刑、なんて散々言っていたコハルちゃんがそれを言いますか」
「あっ、あれは、その、そんなつもりじゃ…………っていうか!あんた私になんてことしてんのよっ!?私に、あ、あんな、あんなエッチな……!」
「今それを言うんですか……って言うか、まず責めるのがそこなんですね」
何だか懐かしい。補習授業部で、私とコハルちゃんは、こんな風に騒ぎあっていた。
そうだ。本当の幸せはここにあったんだ。砂糖に狂わされて、砂糖に侵されて、砂糖に囚われて。そこに感じていた幸福は、確かにあったのかも知れないけれど。そんなものがなくたって、心の底から笑い合える場所を、私は確かに、手にしていたんだ。自分から踏み躙って、切り捨ててしまったけれど、あの時の私は────。
心の底から、笑えていたんだ。
「────────生徒たちの怒りと憎悪の根源は、砂糖中毒者による人間関係の悪化や断裂。あとは砂糖から脱却しようとする人の、禁断症状に苦しむ姿。そんなところでしょうか」
「え……?」
ひとしきり戯れあって。私は、頭の中の思考をそのまま口に出すように話し始める。
「反して、コハルちゃんの手榴弾は、砂糖中毒者の症状を健常者のそれと同じ状態まで治癒することができます。禁断症状も後遺症も副作用も残さず、完全に。この私の精神と身体がその証左です」
この選択は正しいのか。私にそんな資格があるのか。本当はただ死にたくないだけで、保身に走っているだけなんじゃないか。疑問も自己嫌悪も尽きることはない。
────それでも。
「三大校を筆頭に、コハルちゃんの力で中毒者を治していく。そうすれば、皆の怒りと憎しみに歯止めをかけられるかも知れません」
「…………っ!ほんと!?」
「あくまで可能性のひとつです。けれど、彼女らの怒りや憎しみが保たれているのは、被害者が今のなお砂糖の中毒症状や禁断症状に苛まれているから。その被害者が苦しみから解放され、完全に元に戻ったのなら、感情に焚べる薪を途絶えさせることができる。賭ける価値は、充分にあります」
ただ、と私は付け加える。
「私を死なせたくない。皆に殺しをさせたくない。コハルちゃんはさっき、そう言いましたね」
「…………うん」
「本当にその目標に向かって動くなら、それは世情に逆らう行動となります。大罪人の私を庇おうとする以上、下手に動けば裏切り者として扱われかねません」
ひとつひとつ考えていく。考えなければならないリスクは何だ。
「もしアビドス側にコハルちゃんの力が露見すれば、確実に狙われ、追われる身となるでしょう。砂糖を広げようとする思想に囚われている以上、根底からそれを覆しかねない力を持つコハルちゃんを、血眼になって捕えようとするでしょう」
「…………味方がいない、って事ね」
「…………アビドス側以外の勢力から、仮に裏切り者として扱われなかったとしても…………今のコハルちゃんの身体は、その、私の、せいでっ……重度の、中毒状態です。治療の為に身動きが取れなくなくなってしまうでしょう。どちらにせよ、捕まった時点でその先は頓挫してしまうでしょう。例え、特効に等しい治癒能力を持っていたとしても、です」
つまり。
「協力してもらえるような人は……ほぼ、いないに等しいでしょう」
「……………………」
まずアビドスが敵に周り。私を庇う時点で、反アビドス派の大多数を敵に回す。仮にコハルちゃんの意思に理解を示す人……可能性があるとしたら"先生"だろうか。そんな人がもし居たとしても、そのような人達が今の限界近いコハルちゃんの身体で動くことは許さないだろう。文字通りの八方塞がり。
────それでも。
「…………やるわ」
震える身体で立ち上がりながら。コハルちゃんはそう言った。
「…………本気ですか?」
「うん。そうしないと、私が納得できない。どうしても、我慢できない。だから、やるの」
でも、と。そう続けつつ、コハルちゃんがくるりと振り返る。
「私1人じゃ、絶対無理。それくらい、バカな私でもわかる」
だから。
「お願い、ハナコ。手伝って」
そう言って、コハルちゃんは手を伸ばしてきた。
「………………………………」
止めるべきだと、感情と理性の両方が訴えている。
迷いも、疑念も、自責も。絶えることなく湧き上がってくる。彼女に触れる資格なんてない。彼女の手を取る資格なんてない。自分の手で彼女の身体を壊しかけたのに、その責任も取れないままで。その上、更に地獄に等しい道を、彼女に歩ませようとしている。本当に私は、彼女を、傷つけて、壊すことしかできない。
けれど。
「………………っ」
請うように、願うように、希うように。こちらを見つめて来るその目に、私は。
「────ありがとう、ハナコ」
コハルちゃんの手を、取ってしまった。
「がんばろ。ふたりで」
「………………はい」
報われる保証はどこにもなく、彼女の願いが果たされる望みも薄い。
それを分かっていながら。私たち2人は、この先も見えない長く苦しい道を、手を繋いで歩み始めた。