ハナコショックの話・前編

ハナコショックの話・前編


 補習授業部による桐藤ナギサの身柄確保は、驚くほどスムーズに進んだ。

 最低限の身辺警護要員しか配置されていないナギサのセーフハウス。トリニティきっての戦力である正義実現委員会さえいなければ、あとはナギサ自身が傍に置くと判断したフィリウス分派所属の生徒だけだ。

 アズサ直伝の首筋チョップやらハナコ謹製睡眠導入剤入りハンカチやらを駆使して補習授業部はセーフハウス内に侵入し、とうとう彼女たちはこの建物の主の元へとたどり着く。

 疑心暗鬼に陥ったナギサを説得して別の場所に避難させることは不可能。ならばさっさと気絶させてから担いで運び出してしまえばいいというアズサの言に従い、すぐに彼女を制圧できる実力を持ったアズサと、ナギサを混乱させられるほどに弁の立つハナコの二人が実行役を担うことになったのだが……


「……そう、ですね。ヒフミさんには可哀そうなことをした、と……いいえ、今でもそう思っています」


 ことの発端は、ナギサを気絶させる前にどうしても問わねばならぬことがある、とハナコが口を開いたことだった。

 明らかに出自の怪しいアズサや、突如として周囲の期待に背いて奇行を重ねるようになった自分。その二人だけならまだしも、なぜ善良なコハルやヒフミすらも疑いの余地ありなどという理由でまとめて退学処分―――キヴォトスにおける事実上の人権剝奪などという重い罰を課そうとしたのか。

 今この時こそ補習授業部の四人はナギサを暗殺の魔の手から救うために行動しているが、元はと言えば部を組織して四人を危機にさらしているのは、ほかならぬナギサなのだ。

 ハナコにとっては入学以来初めて胸の内を明かせるほどに心を開いた友人たち。特にヒフミはナギサにとっても得難い友人である筈。かつて自分が心から望んで叶わず、奇妙な巡り会わせの末にやっと得られた絆を、そんなにあっさりと切り捨てるとはどういう了見なのか、と。


「それでも私には、なさねばならぬことがいくつもあります……エデン条約の締結もその一つ。そこに、私一人の感傷を差し挟んで万に一つの危うさも残してはいけないのです」


 静かな怒りを込めたハナコの問いに、それでもナギサは毅然と反論する。

 桐藤ナギサの入学以来、陰で囀るやかましい小鳥たちの話題の種に供されてきた事実―――ナギサが推し進めるトリニティ・ゲヘナの友好とは、かつて彼女の婚約者が掲げた夢であった、と。

 ハナコとてかつては見聞きしたくもないその下世話な茶会に、幾つも誘いを受けた身だ。ナギサがその噂を否定せず事実として認めていることも、その理想を以て今の穏健派・改革派たるフィリウス分派をまとめ上げたことも重々承知している―――亡き婚約者に殉ずる女の美談を他の者たちと一緒になって上辺だけ讃えながら、そんな大切な人すらも政争の道具にするナギサに、腹の底では嫌悪感すら抱きながら。


「あくまで優先順位の問題、と……セイアちゃんが“入院”してようやく目途が立った友好協定が長続きすると本気でお考えですか? 今でさえフィリウスとパテル、条約賛成派と反対派でトリニティを割りかねない事態を招いたというのに」

「ミカさんがいくら反対派をまとめたとしても、所詮は個人の感情に振り回される烏合の衆。セイアさんがティーパーティーに戻らない限り、反対派が盛り返すことはありません。一度でも掟を掟として定めてしまえば、あとはそれに歯向かうものを罰し続ければいい。いずれ逆らうことこそが罪であると皆が理解すれば、悪法は法に変わる」

「それは暴君の理論です。ナギサさん、貴女は学園の歴史に悪名を残しますよ」

「長く続く争いに終止符を打つためなら私一人の悪名など、痛くもかゆくもありませんとも……ああ失礼、浦和ハナコさん。あなたはティーパーティーの……その痛みから逃げるため、あのようなはしたない振る舞いをし始めたのでしたか」


 その時点で、ハナコはナギサの為人に興味を失った。価値を見出せなくなったと言ってもいい。無論、ナギサの命を守ってほしいというアズサの頼みをこの場で反故にすることなど出来やしないのだからこれ以上の口喧嘩は時間の無駄だろう。

 しかしハナコとて、やられたからにはやり返さなければ気が済まない性分だ。最後の皮肉の一つも浴びせてやれと、笑みの形に固定した唇をおもむろに開く。




「……流石はトリニティ総合学園の差配を担う御方。学園も、友人も―――」




……この時何が不幸だったかと言えば、ハナコが数ある情報のうちから「桐藤ナギサの悪辣な策謀」と「一般的なトリニティ生徒達の気風」とを直線的に結びつけたこと。ミハルを想うあまり度々取り乱すナギサの狂態をフィリウス分派が外部に漏らすまいと全力で隠蔽したこと。そして何よりハナコ自身も、自分が予想以上にナギサに怒っていると自覚していなかったことであろう。

 もしもハナコが本来持ちえた明晰さが、ナギサへの怒りで翳ることなく発揮されていたなら……あるいはハナコは、今の自分と同じように大切なもののため全てをなげうつ誰かが居ることに途中で気付いただろう。

 しかし己よりも仲間たちのため、ある意味で「正義は我にあり」と思い定めてしまった彼女は―――





「―――『愛した人の掲げた理想さえも、己を着飾る小道具に過ぎないのですね』」


 結果として、虎の尾どころか竜の逆鱗を全力で踏み抜いた。





 先ほどまでハナコのことなど眼中にもないとばかりに凪いだ表情を見せていたナギサの瞳が見開かれると同時。


「…………お、ま、えぇえええええええええっ!!」


 普段のナギサからは想像もできないような口汚い叫び―――裂帛の気合などではなく、ただただ憎悪の発露でしかない金切り声と共に放たれた32ACP弾がハナコの柔肌を食い破らんと全弾襲い掛かる。


「なっ、あ。痛っ……」

「ハナコっ!」


 7発撃たれたうちの数発を眉間に受けたハナコを背に庇うよう咄嗟に前に出たアズサが、両手で構えたアサルトライフル『Et Omnia Vanitas』に装填された30発を瞬時に連射する。

 しかしその間にもナギサは着弾の衝撃に身をよじりながらも予備の弾倉を装填し、チャンバーチェックすらせず続けざまに引き金を引く。照準もへったくれもない、乱射と呼ぶにふさわしい撃ち方だったが、狭い室内という環境はより身軽な銃を愛用するナギサに味方し―――アズサのガスマスクに、幾つも銃創が穿たれた。

 至近距離で銃撃の応酬を続けながら、自身の安全よりも相手を屠ることを優先するナギサの振る舞いはゲリラ戦の達人であるアズサをして恐怖を感じさせた―――その一瞬の恐怖が、アズサに致命的な隙を作る。


「このぉっ!!」

「ぐっ!?」


 さらに7発の銃弾を撃ち尽くしたナギサは前へと一歩踏み出し、手にした拳銃『ロイヤルブレンド』のグリップエンドで『Et Omnia Vanitas』を殴りつける。

 射線をずらされ、さらにマスクへの銃撃で視界を奪われたアズサを無視して―――ナギサは殴打の勢いで拳銃を手放したまま、両手の指をアズサではなくハナコへと伸ばした。


「よくも、よくもよくもよくもよくもよくもっ……!!」

「あが、はっ、ぁ……!?」

「ハナコっ!? おい止めろ、ハナコを放せっ!!」


 純度100パーセントの殺意で以て、ナギサの細い指がハナコの首筋に食い込む。相当な力で締め上げているのだろう、ナギサの指先は第一関節で反り返り真っ赤に充血している。ハナコを絞殺せんとする一方で、ナギサの方が握力に耐えきれずに指の骨が折れているのだ。

 横合いからアズサが引きはがそうとするが、怒りのあまり身体のリミッターがどこかに吹き飛んだかのようなナギサの手は中々ハナコの首から外れない。


「くそっ……ハナコ、少し我慢して!」


 正攻法では無理だと判断したアズサはナギサの手元に狙いを定めると、ナギサの手首めがけて5.56mm弾を掃射する。

 跳弾の一部がハナコにもダメージを与えるが、ナギサにもたらされるそれはハナコ以上だった。拘束が緩んだ瞬間にすかさずナギサの顎先を『Et Omnia Vanitas』のストックで跳ね上げてそのまま回し蹴りを見舞い、バランスを崩したナギサの全身に残りの弾をありったけ叩き込んだ。

 吹き飛ばされたナギサが壁に叩き付けられたのを確認したアズサは、のどの痛みに耐えながら荒い呼吸を繰り返すハナコに手を差し伸べた。


「かは、けほ、ぇほっ……」

「大丈夫!? しっかり……!」

「はぁっ、はーっ……ありがとうアズサちゃん……それよりナギサさんは……?」

「弾倉二つ分も撃ち込んでやったんだ、流石に向こう一時間は意識を取り戻したりは……」


 アズサの言葉を遮ったのは、倒れ伏すナギサの胸元から聞こえて来たガチャコンという不吉な音だった。







―――撃たなければ。立ち上がり、抵抗しなければ。


 幽鬼の如く上体を起こしたナギサの胸にあったのは、ただただその一念。


―――ここで負けるわけにはいかない。自分が今倒れれば何もかもが破綻する。エデン条約も、ミカの身の安全も、トリニティの統治そのものすらも。


 顎から脳天まで突き抜けた衝撃に脳を揺らされたせいか、視界がぐるぐると定まらない。しかし、おかげで全身の痛みを無視することが出来る。

 手持ちの銃器は残り一つ。制服の内側、普段は見えないところにインサイドホルスターで吊るしていた『ロイヤルブレンド』の同型の銃を引き抜くと、指先の折れた両手に無理やり握りこむ。


「まだ火器を……!」

「いけません、ナギサさんのあの拳銃にはシスターフッドの銀の銃弾が装填されています! 幾ら私達でも当たったら……!」


 この期に及んでお互いを庇いあう素振りを見せる裏切り者達……好都合だ。小型拳銃の口径とはいえこの距離なら、重なった標的を二人まとめて撃ち抜くぐらいは出来るだろう。

 トリニティの長い歴史の中でこの銀の銃弾によって闇へと葬られるものが二人ほど増えるだけのこと。

 よく口の回る方の裏切り者も先程言ったではないか、私のことを目的のために何もかもを利用する女だと。そこまで言うならお望み通り『私の目的のため』に息の根を止めて―――



(…………わたし、の もくてき……?)



 忘我の境で胸に浮かんだ言葉に、誰よりも動揺したのはナギサ自身だった。


「 ちが う わたしは あのひと の ため 」


 何故。何故、手が震える。狙いがずれる。目の前にいるのは私とあの人の夢を阻む敵だ。


「あの人の、かたき……ゆめを……ちがう、あのひとが……」


 私が手にしているのはなんだ。あの人が決して使わなかった銃だ。

 私が銃を向けているのは誰だ。あの人が平和を与えようとした者だ。

 私が立ち上がる目的はなんだ。あの人の理想を叶えるためだ。



 それなのに何故―――私は、あの人が守ろうとしたものに、銃口を向けている。



 それぞれを尊重して、共に助け合って、同じ目的のために背中を預けあう者たちに。あの人の理想を、体現する者たちに。


「―――二人とも、助けに来たわよっ!!」

「―――もうやめてください、ナギサ様っ!!」


 扉が開く。誰かが、大声と共に踏み込んでくる。新たな敵。撃たなきゃ。距離を取って、迎撃を――――――どうして、あなたが。

 両手を広げて、そいつらを庇って。

 あなたまで私を。

 なんで、そんな風に泣きながら。




「こんなのおかしいです、こんなのは駄目ですよぉ……ナギサ様……!」


『……こ、こういうのは駄目だって、ナギサちゃん!』




 あの人のような言葉で。私を。




「なんでっ……なんっ、な、ぁぁぁぁ………」


 どうしてわたしをひていするのどうしてとめるのどうしてそいつらのみかたするのどうしてわかってくれないのどうしてここにいないのどうしていっしょにつれていってくれないのどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――――――!!!!



「あ、ぁあああああああああーーーーーーーー!!!!!」




――――――もう、やだ。




「っ、ナギサ様、だめーーーーーー!!」

“だめだ、ナギサ――――――――!!”








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