ノア様に夜這いを仕掛けるチョキ宮と花イザー①

ノア様に夜這いを仕掛けるチョキ宮と花イザー①


(※ただしチョキ宮は安眠をお届けしたいだけなのである)


 喉の奥から酸っぱいものが迫り上がってくるのを感じる。雪宮にバレないように口元を服の袖で押さえ、カイザーは吐きそうなのを我慢した。

 苦しみや痛みをやり過ごすのは昔とった杵柄だ。とはいえ心に負った傷は先日穿り返されたせいで未だに湯気を立てており、煮えたように熱を帯びた鮮血をこぷりこぷりと噴き出し続けていた。

 今から二人でノエル・ノアに夜這いを仕掛けに行く────その事実が、見えていないフリで目を逸らしていた己の弱い部分をいたずらに刺激して痛ませてくる。

 家を放火された者がマッチやライターで火事の記憶を思い起こすように、この脳味噌は性的な物事と幼少期の被虐の日々とを紐付けてしまっていた。


「カイザーくん、大丈夫? 体調が悪いなら俺1人で行くよ?」


 自分と同じで、運は悪いのにそこだけは神様に依怙贔屓された極上の美貌に心配の色を乗せ、雪宮がこちらを覗き込む。

 琥珀やシトリンを想起させる橙色の瞳に張られた涙の薄膜に、青褪めた肌色のカイザーが写っている。血の気が引いていて良かったとさえ思った。昔はこれからどれだけ酷い目に遭わされるかわかっていても、もはや顔を青くすることも涙を流すこともできないくらい精神が削れきっていたから。こんな風に怖気付けるならまだ真の限界ではない。

 吐きそう、吐いた、吐きたいのに吐けない、吐き気さえ湧かない。これらの順で昔カイザーは生理的嫌悪感を摩耗させていった。今は吐きそうなだけ。大したことはない。地獄でいうと一丁目のもっと手前だ。


「……いや、問題ない。食べ過ぎた夕飯の消化が終わっていないだけだ」

「そっか、なら良かった。今日の晩ごはん美味しかったもんね」


 美しい微笑みを日本語では「花咲み」と称する。まさしくそれに見合った微笑みで胸を撫で下ろして、雪宮は再び前を向き、消灯後の薄暗い廊下をふわふわのスリッパで進んでいく。

 本当は、夕飯なんて半分も食べられなかった。今晩も一緒に寝ようと誘った雪宮が、ノアの部屋へ行くからと申し訳なさそうに断りを入れてきたのが直前の出来事だったから。

 正直なところ一口だって食べたくなかったが、体を資本とするアスリートのプライドでなんとか必要最低限の栄養素とカロリーだけは胃袋に詰め込んだ。

 詰め込んだそれを戻さないようにちびちび水を飲んで胃液を押し返して。ぐるぐる回る視界と脳味噌の中で、カイザーは雪宮が急に大人の男に夜這いなんて仕掛けに行く理由を考えようとしていた。

 ……考えるまでもなかった。自分のせいだ。自分の飼い主だった男のせいだ。件の誘拐騒動の折、挿入を伴う性行為にまでは至らなかったが、それでも陵辱と呼ぶに値する扱いを雪宮はあのクソ野郎から受けた。衣服をナイフで切り裂かれ、仲睦まじい飼い主から与えられた首輪をゴミとして打ち捨てられ、全身を撫で回され、流れる涙を執拗に舐め取られ、白い肌に真っ赤な跡が残るほど噛みつかれ、薔薇を刻んでやろうと刃先で柔肌を嬲られ、挙句に馬乗りになって首を絞められ────。


(────「性的な虐待や暴力を受けてしまった子の中には、それを大したことではないと思いたいがあまり、忌避するのではなくむしろ積極的になる子もいます。自傷行為と紙一重の防衛反応。古い痛みの上に新しい痛みを重ねて、一番下にある一番怖い傷を見ないようにしたいんです」)


 いつぞやテレビで流れていたニュース番組。増加する性犯罪うんぬんについて語っていたコメンテーターの発言の一部が、何故だかぶわりと脳裏に蘇った。コメカミのあたりがズキズキと痛む。フォークを掴んだ長い指が小刻みに震えているのを意図的に無視して、カイザーは十数秒だけ瞼を伏せた。

 次に目を開けた時には、もう覚悟が決まっていた。即ち、自分の耳元にかかる息、天使だか悪魔だかの囁きを受け入れることを。

 ────貴方の巻き添えのせいで穢れてしまった子なのだから、貴方も一緒に穢れてあげるべきじゃなくって?

 そうしてカイザーは雪宮と共にいる。二人してノエル・ノアに股を開くために彼の部屋まで歩いている。

 自分も一緒に行って良いかと申し出た時、雪宮はきょとんとした表情だった。でもすぐに嬉しそうに目元を和ませて、いいよ、と僅かに声を弾ませた。きっと心細かったのだ。自分が気付いていないだけで。だからカイザーが連れ合って穢れてくれることを無意識に喜んだ。雪宮剣優を『あの一日』がそんな弱い生き物にしてしまった。


「ノアさんの部屋って、ここで合ってるかな?」


 泥濘む思考に雪宮の声が差し込まれ、慌てて顔を上げる。

 ネームプレートなんて親切な物は用意されていないが、雪宮が指差す扉は間違いなくノアに与えられた部屋に繋がるものだ。

 もう夜遅いからと小声で話してはいるが、スラム育ちで気配に聡いノアのことだ。向こうからリアクションはとらないだけで、もう扉の前に誰かいることは察しているかもしれない。

 だがまさか、他棟の選手に飼われているモデルと自棟の生意気な後輩エースが自分に抱かれに来たとは思ってもいるまい。


「合ってるぞ。……ところで剣優、アポは取ってあるのか?」

「うん。凪くんが伝えてくれるって言ってたから、今晩俺が来るのは知ってる筈だよ。でもカイザーくんも来るのは知らないかも」

「…………そうか」


 雪宮の手が扉を押し開いた。いつもは聞こえないのに、耳障りな軋みが鳴った気がする。

 凪誠士郎はどんな想いで己の花を送り出したのか。思いを馳せる間も無く、雪宮の体がノアの部屋へするりと入り込む。

 鍵はかかっていなかった。

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