ネクストウィッシュ
54
これは昔々のお話。
すべてのおとぎ話が始まるよりも前のお話。
◆
あの日からどれだけの時間が経ったのか、マグニフィコはもう覚えていない。
何せ暗い地下の牢獄の中だ。時間を測れるものなど何もない。朝も夜も、月の満ち欠けも、願いをかける星さえも、ここからでは何も見えやしない。
地下牢に入れられたばかりの頃は、常に怒鳴り散らし、あるいは泣き落として情に訴えもしてみたが、そもそも聞く者もいないのでは徒労でしかない。
牢番さえいないここでは、動くものと言えば蜘蛛やネズミのような小動物がうろつく程度。
「これが感謝か!? 恩知らずどもめ!」
時折腹を立て、マグニフィコは一人で怒鳴る。
まともな精神であればとっくに廃人となり果てていただろうし、マグニフィコ自身もそれを懸念していたが、鏡に封印されたマグニフィコは幸か不幸か、精神もそのまま固定されたように一定以上劣化することはなかった。
禁断の魔法。闇の力。それに触れた者は『永遠に抜け出せない』。逆に言えば、彼は『永遠』なのだ。身も心も変わることなく、ただ自分を鏡に押し込めた者たちを恨み、憎み続け、絶望することも諦めることもなく、存在し続ける。
あるいはこの地下牢が年月の重みで崩れ落ちても、マグニフィコと鏡だけは変わらずにあり続けることだろう。
だが、運命は彼をそうはさせなかった。それはまったくもって『幸運』であった。
「見つけたわ!」
どれほど久しぶりのことだろう。
マグニフィコは他の誰かの声を耳にした。
「……誰だ」
少なからず驚きながら、マグニフィコは目を凝らす。錆びた鉄格子の向こう側に、人影が見えた。
「ようやく見つけた! ねえ、貴方が『鏡の王様』でしょう?」
その声の主は、まだ小さな女の子だった。白い肌に金の髪、丸みを帯びた可愛らしい顔。フードと大きなピンクのリボンのついた水色のローブをまとった、元気はつらつした様子の少女。
しかし、ただの少女ではないことは明白であった。彼女の体の周囲からは、蛍のようなかすかな光が発せられていたから。
「お前は……もしや『妖精』か?」
「さすが! すぐわかるのね!」
マグニフィコは昔読んだ書物の知識を思い出す。
『妖精』。人間とも動物とも異なる、知恵のある種族。強い魔力や様々な不思議な力を当たり前のように使うことができ、永い寿命を持つ存在。ただし霊的な存在であるがゆえに、周囲の人間の精神に強く影響されることが多く、悪い人間ばかりの中にいると急速に力が衰えてしまうとも言われている。
(書物で読んだだけの知識だ。実際にそうだとは言いきれないが)
優れた魔法使いであった彼は、思いこみで判断するのが危険なことを知っていた。注意深く観察しながら、言葉を口にする。
「なぜ『妖精』がこんなところに? それに『鏡の王様』とはなんだ?」
「貴方に会いに来たのよ『鏡の王様』! あなたが昔、鏡に封じられた悪い魔法使いの王様でしょう?」
悪い魔法使い、などと言われてマグニフィコは顔をしかめる。なぜそんなふうに言われたのか見当はついた。あの恩知らずの無礼者たちが勝手なことを外で言っているのだろう。
「私は断じて悪くはない! 悪いのはあの裏切り者たちの方だ!」
「悪くないの? 昔、国民から夢を奪って独り占めにしようとしたせいで、鏡に閉じ込められたって聞いたけど」
無垢な表情で『妖精』は首をかしげる。
「私は王だ。国の物はもともと全て私の物なのだ。まして、あれだけ幾つもの願いを叶えてやったというのに……!」
「ふーん……? よくわからないけど、良い人だっていうなら、私のお願いも聞いてくれる?」
思い出すごとにフツフツと怒りがわいてくるマグニフィコに、『妖精』は今までよりも真面目な顔つきになった。
「私、魔法を使いたいの!」
「……魔法だと? 妖精ならそんなもの、息をするようにできるだろう」
マグニフィコは困惑した。人間が歩くのと同じように空を飛び、小石を拾って投げるのと同じように、魔法を飛ばすことができるのが妖精というものだ。人間にわざわざ教わるまでもないはずである。
「そりゃあ……空を飛んだり、物を浮かせたりするくらいなら出来るけど、もっと難しい魔法が使えるようになれないといけないの。変身させたり、悪者を追っ払ったり」
つまり、技術を学びたいのだろうとマグニフィコは察する。いくら妖精といえど、高度なことを行うためには、やはり勉学をしないと無理なのだろうと得心した。
「だがそれなら他の妖精に頼めばいいだろう」
「この辺りはもう他の妖精はいないの。人間が戦争することが多くなって、逃げ出しちゃったから」
妖精は争いごとを嫌う。妖精の中にも争いを好む邪悪な妖精がいないわけではないが、人類全体の中に邪悪な人間がどれだけいるかと比べれば少ない方だ。
マグニフィコは外がどうなっているのか知らないが、マグニフィコの子供の頃から人間は争っていた。今もそうなのだろう。それで多くの妖精は姿を隠してしまったのだ。
「私、人間の中で魔法が得意で教えてくれそうな人を探してたら、この辺りに『昔、鏡に封じられた魔法使いの王様』――『鏡の王様』がいるって話を聞いたの。悪い人だというけど、それでもちょっと悪いくらいだったら、もしかしたら魔法を教えてくれるかもって思って、探したの」
「それで見つけたわけか?」
「そう! それで、どう? 私のお願い聞いてくれる?」
マグニフィコは考え込んだ。魔法を教えてやる義理があるわけではない。だがこの『妖精』を追い返したら、次に誰かがくるのはいつになるかわからない。この機会を逃すわけにはいかなかった。
「……条件がある。お前が魔法を覚えたら、その魔法で私の封印を解き、私を鏡から出すことだ」
この鏡の封印は強い。だが、妖精の力なら解けるかもしれないと、マグニフィコは期待した。
「そっか。閉じ込められっぱなしはつらいよね。わかったわ! それを私の初仕事にするわ!」
「初仕事? 何の仕事をするというのだ?」
「『フェアリーゴッドマザー』の初仕事よ! 私、『フェアリーゴッドマザー』になりたいの!」
『フェアリーゴッドマザー』。それはマグニフィコにも聞き覚えがあった。おとぎ話の一つで、貧しい人間や困っている人間に手を差し伸べ、母親のように優しく助けてくれる親切な妖精の伝説だ。
しかし妖精自らそう言うということは、本当にいるのだろうか。
「苦しんでいる善良な人々を助け、夢を叶えて大活躍する『フェアリーゴッドマザー』! かっこいいわよね! 私、そんな凄い妖精になりたいの!」
目をキラキラとさせて言う、幼い『妖精』の願いに、マグニフィコは気圧された。いわばヒーローになりたいという子供っぽい願いだが、彼女にしてみれば真剣な願いなのだろう。
その魂からの憧れは、マグニフィコにかつて持っていた輝けるものを思い起こさせ……
「……報われやしないがな」
苦い言葉が口から出された。
「何?」
「いや、何でもない……とにかくここから出してくれ。私は自由に動けないからな」
「そうだね、『鏡の王様』」
「『鏡の王様』じゃない。私の名はマグニフィコだ。ああそういえば君の名は?」
『妖精』はウーンとうなって、
「人間の言葉にすると言いづらくて……鳥や蝶々の言葉でなら言いやすいんだけどさ。そっちで呼び名をつけてくれればいいよ」
「呼び名……では『フェアリー』と呼ぶことにするが、いいかね?」
「いいよ。よろしくね、マグニフィコ! じゃあ、えーと、えーと、そうだ! ビビディ・バビディ・ブー!」
フェアリーの手から柔らかな光が放たれて、マグニフィコの鏡を包む。鏡はふわりと浮き上がって空中を飛び、鉄格子の隙間をとおって少女の手の中に納まった。
そして古ぼけた地下牢から、鏡が一つ持ち出され、新しい物語が幕を開けた。
◆
それは昔々のお話。
『悪い鏡の王様』と『優しい妖精の弟子』のお話。
灰かぶりという名の少女が幸せになるよりも前のお話。
闇の魔法が『永遠』ではなくなる前のお話。