ドヴォルザークの刻銘、或いはタレーランの睦言

ドヴォルザークの刻銘、或いはタレーランの睦言



「あーもー!なんなのー!」

「無駄口叩いてねぇで走れバカ猿!」

「でもまだ中華サラダ食べてな……」

「言ってる場合か!後でお前んとこのコックにでも頼め、麦わら屋!」


三つの影がドタドタと路地裏を走っていく。その先頭を行くのはモンキー・D・ルフィ。今やその勢いはとどまらない麦わらの一味の船長である。その両脇から追いかけるように走るのはキッド海賊団船長とハートの海賊団船長。麦わらの一味とは(全く心外だが)何やかんやで共に事件に巻き込まれることの多い間柄だ。彼らが全力疾走しているのは、この怪しげな島で行われている祭典が原因だった。


最初は、ルフィ宛に謎の封筒が届けられたのが始まりだった。封筒にはとある島へのエターナルポースと、その島で行われる宝探しの祭典への招待状が同封されていた。封筒に書かれた文書を見た一味は(冒険好きのルフィはともかくとして)普段厄介事には首を突っ込みたがらないナミやウソップまでもが熱に浮かされたように文書に記された島を目指した。普段の一味なら、誰かしらがこれは罠だと気づくだろう。しかし、罠だろうと行きたい、行かなければという思いに文書を見た全員が突き動かされ、何かおかしいと思ったのは島に着いてからであった。

……後にこの文書には『カラーズ・トラップ』が使用されていたと判明し、その奇っ怪な術を使う女性と彼女が協力する黒幕の目的が明かされることになるのだが、それはまだ先の話である。

とにかく、誘い出されて島に停泊してしまったからには迂闊に帰っても何かしらの罠を仕掛けられる可能性が高い。ここまで来たらひとまず誘いに乗ってみよう……とは、ルフィの提案だ。もっとも、ルフィの目的は文書に書かれていた『世界を揺るがす冒険の宝を探す祭典』という甘い誘い文句に乗りたがっているだけではあったが、彼女の言うことにも一理ある。そんな訳で、3つのグループに分かれて行動することとなった。

ルフィはウソップ、チョッパーと共に島の内情を探る冒険部隊を買って出た。しかし内地へと進むうちに、ふたりとははぐれてしまう。まあ合流できるだろうと呑気に寂れた町の中を歩いていると、突然声をかけられたのだ。


「久しぶりだな、麦わら」


ルフィが振り返ると、そこには数人の男たちがいた。ルフィとしては久しぶりと言われてもなんの事やらだったが、彼らはルフィが、主に東の海や空島近辺でぶっ飛ばしてきた男たちであった。彼らは目を爛々と輝かせ「ようやくお前を手に入れる時が来た」「早くこっちに来い」と手を伸ばしてくる。いきなり来いと言われても誰が行くか!と再び彼らをぶっ飛ばしてルフィは来た道を戻ろうとするが、個々の戦力がそれなりに強い上に人数も多い。どうしたものかと考えていると、横から声が飛んできた。


「『シャンブルズ』」

「『磁気激突(パンククラッシュ)』!」


目の前の敵が吹っ飛んだりバラバラになったりする様子をほけーっと見ていたルフィの両腕を、何者かが同時に掴む。そしてはるか頭上から降ってきたのは。


「「何やってんだお前は!!!」」


トラファルガー・ローとユースタス・キッドの声であったということだ。


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こうして、ルフィはロー、キッドと共にドタバタと路地裏を走り、港へと向かっていた。ローもキッドもこの島に来たのは偶然とのことらしい。ルフィは妙な封筒のことを尋ねたが、ふたりとも「何だそれは」と怪訝な顔をしていた。本当に全くの偶然もあるものだと思いながら走っていると、背中から更に奇声が聞こえてくる。ルフィは振り返らなかったが、先に振り返ったローとキッドからうげぇ、といった声が聞こえた気がする。ふたりはルフィに「「お前がいる方がややこしくなるからお前は先に行け」」と一言一句違わず言われ、一人で港方面へと逃がされた。ちらりと振り返ったルフィが最後に見たのは、飛び上がって珍妙なポーズをとったバラバラの実の能力者と、不気味な笑みを浮かべた、ここにいるはずのないイトイトの実の能力者だった。

しばらく走って、ふたりの姿が見えなくなってから物陰で息をつく。


「はぁ〜……せっかくサラダバイキングのお店見つけたのに……」


寂れた町ではあったが、確かに飲食店らしき建物も見えたのだ。しかも看板にはサラダバイキング食べ放題、とも書いてあった(ルフィが後にこのことを一味に話すと、それ絶対罠だろと突っ込まれたのだが)。惜しいことをしたが、はぐれたウソップやチョッパーの動向も気になる。一旦船に戻ってもいいかと考え、ルフィは再び足を動かした。

潮の香りを頼りに走っていると、ちょうど路地裏の切れ目から港が覗いていた。サニー号が停泊している港である。船もバッチリ見えるし、目を凝らしてみると、肉眼でもフランキーの巨体が見て取れた。


「あ!サニーみっけ!」


おーい、と腕を振り上げながら出そうとした声は、突然奪われた体の自由によって出せなくなった。

ふわり、体が宙に浮く。

  

「えっ?!あ"……!」


たった一瞬、動揺した隙に声を潰された。喉がカラカラになったのだ。比喩ではなく……物理的に。

宙に浮いたルフィの体は、誰かの逞しい腕に喉笛をがっちりと掴まれ、路地裏の煉瓦造りの壁に叩きつけられた。目で見ることは出来ないが、おそらくルフィの喉は、掴まれている喉の部分だけミイラのようにシワシワになっているのだろう。すぐに四肢を振りぬこうとしたがそれも遅すぎた。ルフィの両手両足とも、喉元と同じように水分を奪われ干からび、体からだらりと垂れ下がるのみになってしまった。

こんな芸当ができる男は、ルフィの記憶にもしっかりと染み付いている。


「久しいな、麦わら」

「わ、ニ……?!」


ルフィを右手ひとつで拘束しているのは、あのサー・クロコダイルだった。

ワニ、と呼ぶ。何とか声は出せたが、カラカラの喉で振り絞るので掠れた音しか出ない。路地裏の闇にあっという間に消えてしまう声量では、誰のことも呼べそうになかった。ゲホゲホ、と咳き込みながら、ルフィは上手く動かない体を捻ってクロコダイルの拘束を逃れようとする。じたばたと動くルフィに、クロコダイルは珍妙なペットでも見るような視線を向けてうす笑っていた。


「んぎ……」

「……いい眺めだ」


目を細め、舐めまわすような視線を向けるクロコダイルを、ルフィはギリッと睨んだ。よく分からないが、この島では自分がぶっ飛ばした男ばかりと出会う。こんな奴らに構っている暇などない。この島にあるというお宝探しがルフィの目的なのに、こんなつまらない邪魔をされるなんてたまったものではなかった。

と、バタバタと不格好に体をひねるせいで、ルフィの服からパチン、と音がした。それは、カツンと音をさせてクロコダイルの足元に転がる。

黄色のボタンだった。ルフィが無理やり動いたせいで、上着のボタンがちぎれてしまったのだ。ちぎれ飛んだのは一番上のボタンらしく、ルフィの胸元がほんの少しあらわになった。それを見たクロコダイルは、ふむ、とひとり頷き。


左手の鉤爪で、ルフィの上着のボタン部分を縦に割いた。


「……ッ?!」

「ほう、これはこれは……」


ぶちぶち、と容赦ない音がして、全てのボタンが弾け飛ぶ。クロコダイルの足元に新たな黄色が二、三個転がった。ルフィの上着はボタンを失い、胸の中央部分が全開でクロコダイルの眼前に出されている。かろうじて谷間だけ見えている状態ではあるが、ソコをクロコダイルはじっくりと検分していた。ルフィは羞恥心よりも困惑の気持ちが勝っていたが、体の自由を奪われて好き勝手されるのは気分が悪い。抗議するように萎びた足をばたつかせると、クロコダイルの方から話しかけられた。


「遠目で見てはいたが、随分デカい傷をこさえたな。頂上戦争の時だろう?これは……」


鉤爪の尖っていない面で、肌をなぞられる。皮膚の薄い傷跡に冷たい金属が無遠慮に触れ、ルフィの体が竦んだ。感触だけでなく、本能的に『嫌な感じ』がする。その傷はルフィにとって大きな痛みだ。目の前で兄の命を取りこぼし、強大な力に抗えず、それでも生き延びて再起を誓った生命の証だ。

クロコダイルに勝手に蹂躙されるなんて、気分が悪い。


「さわ、んな」

「ハッ……」


必死に声を出して睨みつけると、クロコダイルは意外にも素直に引いた。小馬鹿にしたような笑いは忘れなかったが。

そうして、クロコダイルの視線は胸の谷間からへその付近に降りていく。次にトン、と鉤爪で押されたのは、へそより少し上の位置だった。


「ここ、だったか……?」

「……ッ?」


なんの事か一瞬分からない顔をしたルフィを見て、クロコダイルはあからさまに苛立った顔を向けた。さっきまでの薄ら笑いとは随分な違いだ。クロコダイルが首を絞めていた手をぐい、と上にあげ、ルフィの体がさらに地面から離れる。次に、肌をなぞるだけだった鉤爪を少し強めの力でぐいと押し付けられた。

それでようやく、思い出した。


『カラカラのオッサンは関係ないでしょ!』

『止めて!止めてよ!止めろ!』

『あ……?』


ルフィの脳裏に、砂漠でのやり取りが克明に浮かんでくる。

クロコダイルが確かめていたのは、ルフィと彼が初めて戦った時。

彼に決定的に敗北した証として付けられた、貫通痕だったのだ。


「薄れて分からん。余程いい医師が船にいると見た」


不満げな声音で、クロコダイルはグリグリと該当の箇所を押す。痛みはないが、やはり金属の当たる不快感が強い。ルフィはクロコダイルを睨みながら言い返した。


「……ったり前!チョッパーは、最ッ高の、医者だから!」


実際、アラバスタでクロコダイルとの死闘で負った傷跡は、チョッパーのおかげでかなり綺麗に治っていた。クロコダイルが付けた貫通痕も、皮膚がほんのり盛り上がっているが遠目から見ては分からない。ルフィの体にはっきり、見てわかるように付けられた傷跡は、目元の縫い傷と、胸の中央の大きな傷だけだ。

はァ、とクロコダイルが息をつく。さっきから勝手に苛立ったりため息をついたりしているなぁ、とルフィは思っていた。いつもそうだ。自分がぶっ飛ばした男たちは、ルフィの意思を無視して何やら勝手に盛り上がったり因縁をつけてくる。今度は何なんだ、とルフィが考えているのが伝わったのか、クロコダイルは顔を上げた。

その瞳の中には、危険な光が宿っている。


「なら今度は、しくじらねェようにしねぇとなァ」

「ワニ、何、言って……」


意図が読めない。彼が何をするつもりなのか、ルフィには分からない。


「ココ、に」

「い、」


ぐい、と貫通痕を強く押される。さっきよりも強く、強く。レンガの壁に挟まれ押し付けられて、さすがに痛い。ルフィが顔を歪めると、クロコダイルは今までで一番嬉しそうな笑みを浮かべた。

恐怖を感じなかったと言えば、嘘になる。何故クロコダイルが笑うのか、ルフィには理解できない。理解できないことが恐ろしかった。


「『コレ』よりももっと赤く、熱く、純粋で、甘ァい跡を残さないと、な」

「な、に……」


クロコダイルの体が近づいてくる。耳元に熱い息を吹き込まれて、体がすくんだ。首を絞める手も、治った傷を押す鉤爪も痛い。苦しい。ルフィがこんなにも苦しい思いをしているというのに、クロコダイルの声はどろりとした熱情を纏っていた。冷たいはずの鉤爪の金属が、熱いような気がしてくる。熱砂の国の陽光のように肌を焼くソレがおぞましい。より強く首を締められ、ルフィの頭は酸欠でぼうっとしてきた。勝手に潤んだ視界に、クロコダイルの伏し目がちな瞳が近づいてきてーーー


「レイン・テンポ!」

「『六輪咲き』」

「ッ?!」


瞬間、武骨な男の手は離れ、代わりにたおやかな女性の手が何本もルフィの体を囲って運んだ。同時に全身に大量の水が浴びせられる。干からびた手足は一瞬で元に戻ったが、まだ上手く力は入らなかった。抱きしめられた柔らかい感触。見上げると、いつもの黒髪とオレンジの髪がルフィの視界に入った。


「ナミ?ロビン……?」

「間に合ってよかったわ」


水分を取り戻して復活した喉は、まだ発声しにくい。自分を抱きしめているロビンは、喋らなくても大丈夫よ、と言うように微笑んだ。彼女の横にはソーサリー・クリマタクトを構えたナミがいる。元七武海と相対していることで足は震えているが、しっかりと敵から視線は外していないのがルフィにとっては頼もしかった。


「ごめん!ロビンも濡れちゃったわよね……」

「平気よ、この作戦ならしょうがないわ。別に海水では無いし。でも向こうには……十分効いてるようね」

「泥棒猫と……ミス・オールサンデーだな」

「あら、その名前で呼ばないでって言ったはずよ」


黒髪の強気な男女のやり取りに、ナミはまたビクッと肩を震わせた。しばらく睨み合いが続くが、いくらでもクロコダイルの全身を濡らすことが出来る能力を持ったナミ、クロコダイルの手の内をある程度知るロビンがいることは分が悪いだろう。

ロビンは不機嫌さを隠しもせず、フンと鼻を鳴らして吐き捨てた。


「とにかく、今すぐお引き取り願えるかしら。私たちの船長にこれ以上ちょっかい出さないで」

「そうよっ!わ、悪いけど、私たちオトコなんてお呼びじゃないの!分かる?」

「ナミ、ロビン……ぐ、ぐるじ……」


ナミも必死にルフィをかばって啖呵を切る。ふたりの女性が少女を守ろうと身を寄せたのはいいが、彼女らの並々ならぬたわわな果実にルフィは顔を押し潰され、今度は幸福な呼吸困難に陥っていた。耳を澄ますと、ナミとロビンの背後から複数の男の声が聞こえてくる。全員、ルフィが聞き覚えのある仲間の声だ。ウソップとチョッパーの声も聞こえてきたので、ルフィはホッとして息をついた。

クロコダイルは苦々しげに踵を返す。ルフィの仲間たちが女子3人組を取り囲んだ頃には、既に路地裏からクロコダイルの姿は消えていた。サンジが電伝虫を使って話している相手は、漏れ聞こえる音声から察するにローとキッドだろう。とりあえず、ルフィと行動を共にしていた全員の無事が確認できた。何があったのか教えろ聞かせろと船員たちに詰め寄られながら、ルフィは太陽の船へと帰る。


道中、ふと脇腹に手をつく。

あの男は、自分だけの傷を刻むつもりだったのだろうか。この胸に刻まれた火傷の跡すらも超えるものを。

腹の奥がゾッと冷えたのに気づかないふりをして、ルフィは仲間たちの手を取って走り出した。


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