トリニティ編 3話

トリニティ編 3話


「ミカ様、間もなくお時間です。」


「…そっか。皆ごめんね、一足先に失礼するよ。」


先生がこれから発足する『補習授業部』の面々と顔合わせをしている頃、聖園ミカはお茶会の席を立っていた。

出席者の全員が軽い会釈を返し、その退出を見届ける。


「…最近のミカさんは見違えましたね。」


ミカの幼馴染でもあるナギサは率直な感想を述べる。

それを肯定したのは今までよく衝突を繰り返していたセイアだった。


「ああ、ここまで理知的になってくれるとは思いも寄らなかった。」

「私としても会話が有意義かつ、心地好いものになってとても嬉しいよ。」


「ええ。書類仕事も文句を言いながらでも真面目に取り組んでくれるようになりました。」


幼馴染の良い変化。

それを自分以外の他者に肯定される事にナギサは我が事以上の喜びと誇らしさを感じる。

だが、この場に居合わせている人間にも気を配る事を忘れてはならない。

高揚を抑え、言葉を継ぐ。


「エデン条約についても考えを改めて頂けた様ですし、皆様の協力もある今のトリニティは正に磐石。」

「その上、シャーレの先生というジョーカーは手中に収めたも同然です。」

「事は全て上手く運ぶでしょう。…ですが相手はあのゲヘナ。くれぐれも慢心はなさらぬ様…」


紅茶は注がれ、会話は続く。

手元にあるその茶菓子が無くなるその時まで。


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「…」


自室の扉を静かに閉めたミカ。

誰の気配も感じない事を悟ると​───


「っ…!!」


部屋の中を駆け、トイレへと駆け込む。


「う"、おぇぇぇぇ…!!!」


繰り返すこと四度。"摂取せざるを得なかった猛毒"を吐き出す。

先程まで堪え続けていた吐き気は既に感じなくなった。だが、"吐き足りない。"

喉奥に指を這わせて強制的に嘔吐反応を引き起こす。

そうして嘔吐を繰り返し、吐瀉物が胃液だけになった事を確認してやっと、這い出でる様に部屋へ戻った。

あと少し、側仕えの生徒に指示していた時刻を遅く設定していたら、ボロを出してしまっていたかもしれない。

一人掛けのソファに背中から倒れる様にその身を預ける。

狂ってしまった箱庭の中で、聖園ミカは静かに抗っていた。


「っ…」


濡れた目元を手の甲で拭う。

姿見に目を向けると、メイクで隠していた目の下の隈が顕になっていた。

良質な睡眠を取れていた頃は何時だっただろうか、とこれまでを思い出す。


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異変に気が付いたのはナギサにロールケーキを口にぶち込まれた時だった。

いつもの様に気ままに振る舞う私に、怒ったナギサがそれを口に押し込む。

味わう余裕など無く、呼吸のために丸ごと一本を咀嚼する。今までよくあった戯れ合い。

しかし、この時は違った。ロールケーキは今まで食した物の中で最も美味しかったのだ。

それだけなら私は「このロールケーキ、どこのお店のやつ?」などと聞いて、

ナギサたちと同様になっていただろう。だが───


そのロールケーキを押し込むナギサは"嗤っていた"のだ。


恐怖を感じた私はナギサの諌言を全て肯定し、足早にその場を去った。

何だあれは、あれは誰だ。私の幼馴染はそんな顔をしない。

…いや、何かの間違いだったのかもしれない。そうだ、そうに違いない。

無理矢理に自分を納得させ、気持ちを落ち着ける。

明日、何も無かったかのように振る舞い、ナギサを呆れさせる。それだけで済む話だ。

だが、腹の中に落とされた魔物はそれを赦さなかった。


半刻ほど経った頃、魔物は大きく暴れだす。

大理石の固い床であるにも関わらず、ふわふわとまるで雲の上を歩いているかの様な浮遊感。

先程の恐怖ですくみ上っていたはずなのに、感じる理由の無い高揚感。

誰もいないはずなのに自分を肯定し、称賛し、欲しかった品々を献上してくる幻聴・幻覚。

とても幸せだった。全能感に満ち溢れていた。ずっとこれを享受していたかった。

しかし、先程のナギサの嗤いが脳裏にフラッシュバックしたことで意識は現実に引き戻される。

何だ今のは、私に何が起こった?


「やあミカ。」


意識が内に向いていたため、不意に掛けられた声に肩が跳ねる。

この声はセイアだ。難解で長い話ばかりする馬が合わない子。

それでも今はその自分に無い聡明さ、思慮深さに縋りつきたい気持ちでいっぱいだった。

振り返った先には───


「気分はどうだい?」


先のナギサと同じく嗤う、セイアがいた。


「…もーう。せっかくいい気分だったのに邪魔しないでよ。」


嫌な予感がして咄嗟に話を合わせる。

だが、続く会話は私に非情な現実を叩きつけてきた。


「おっと、幸せを享受しているところだったかい。すまないね。」

「詫びと言っては何だが、これからナギサに例の菓子を貰いに行くところなんだ。」

「そこで私が貰う分を一つ、君に進呈しよう。」

「それで幸せ一回分にはなるだろう、それで埋め合わせてはくれないかい?」


普段は情緒的かつ、衝動的な自分にしては珍しく悟る。

二人はもうダメだと。


「…うーん今は良いかなー。さっきナギちゃんにロールケーキぶち込まれたところだし☆」


「そうかい。ではまた次の機会に君に渡すとしよう。」

「しかし、羨ましいね…」


「何が…?」


「恍けないで欲しいな、ロールケーキだよ。アレは他と比べても含有量が多いんだ。」

「私もナギサを怒らせれば口に押し込んでもらえるだろうか…。」


思わず息を呑む。鳩尾の辺りが酷く気持ち悪い。


「っそろそろ行くね、パテルの子達に呼ばれてるの。」


「ああ、引き留めて悪かったね。」


校舎の陰、誰もいない場所で嘔吐した。


それからの日々は地獄だった。

ナギサが、怒りのままにティーカップを投げつけてきた。

セイアが、私が発した嫌味で腹を抱えて大笑いしていた。

そんなまともでない時の二人の失政を、裏から必死にカバーする様になった。


今まで目を向けていなかったティーパーティーの傘下も軒並み汚染されていた。

いつも人の陰口やゲヘナに対する不満を挙げ連ねていた様な子達は、

それらが嘘だったかのように紅茶と共に菓子に舌鼓を打ち、笑いあっている。

しかし逆に、菓子を得られていない子達は些細な事に苛立ち、

近くに私が居るにも関わらず銃のセーフティを外して撃ち合いを始めていた。


ティーパーティーではどうにもならない事態になっていると判断し、他の組織を頼ろうともした。

だが、私の期待はあまりに容易く打ち砕かれた。

初めに頼ろうとした正義実現委員会の委員長ツルギの姿を探すもその姿はどこにも無く、

委員会の構成員達は必ず菓子を頬張っていた。

救護騎士団も同様に、ミネ団長も行方不明だった。

苛立ちで始めた銃撃戦の負傷者達の治療後に、菓子を与えている姿を見た時には卒倒しそうになった。

アリウスは論外だ。

和解のために接触し、こちらが支援する側であるのにこんな事態に巻き込むなど以ての外だ。

迎え入れたアズサは何が何でも守り切らねば、全面戦争にすら突入し得る。

シスターフッドは…最悪だった。


「サクラコ様!!!シスターヒナタ!!!お願いですっお止めください!!!」


様子を伺うため、コッソリ覗き見た聖堂。

そこには髪を振り乱し、泣き叫ぶマリーとそれを囲むシスター達がいた。

ヒナタはその怪力を持って羽交い締めにし、サクラコは少し離れた場所から微笑みながら佇んでいる。

サクラコがハンドサインでマリーを指す。


「こんなこと、許されがっ、もがぁ!!!」


周囲のシスターたちがマリーの小さな口に菓子を詰め始める。

必死に吐き出そうとして飛散する菓子の欠片。

顎を掴まれ無理矢理咀嚼させられているため、嚙んでしまった舌や唇から流れる血が一緒に飛び散る。

その姿はさながら、過激な漫画で見た喀血シーンの様だった。

力が尽きてきたのか、次第に抵抗が弱まるとプシッという空気の抜ける音が聞こえた。

遠目に見る限り、最近自治区内で試供品として配布されていたジュースの様だった。

窒息しないよう流し込まれていく。

その容器が空になる頃には先程までの喧騒は何一つ聞こえなくなっていた。


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意識を現在に戻すと嫌な汗が全身から吹き出ていた。

吐き戻せたから良かったものの、あのロールケーキを再度ぶち込まれ、

消化しきってしまったのなら自分はどうなってしまうのか。

滑稽なことにナギサをあれだけ怒らせてきた私は、今はナギサの顔を見ているだけで膝が笑ってしまう。


トリニティは、自浄作用を完全に喪失していた。

各派閥・組織内の長が陥落、または不在で横の繋がりが強い校風も手伝って一瞬で蔓延したのだろう。

手口も悪辣極まりないものだった。被害者は皆一様に供給元にこう持ち掛けられている。

『もっと濃厚なお菓子が欲しいなら、お菓子仲間を増やしなさい』と。

被害者が自主的に新たな被害者を増やすのだ。際限なく鼠算的に伝播するに決まっている。

しかも、やっていることはただの菓子の配布。倫理や法にも引っ掛かり様が無い。

どうあっても止める方法は無かった。

この状況では源泉を止めたとて、内戦に発展することは火を見るよりも明らかだった。

そうして何も出来ないまま、何時自分が狂うのかと怯えながら、今日という日を迎えている。


だが、希望はあった。


「シャーレの先生、来てくれた…」


拭ったはずの目元が濡れる。


「お菓子、食べないでいてくれた…!」


肩が震え、ポロポロと溢れた雫が頬を伝う。


「あの人、ならッ…!!!」


何とかしてくれるかもしれない。

まだロクに言葉も交わしていない相手だと言うのに希望を抱く。

そう思わないと今にも壊れてしまいそうだったから。


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