トラファルガー・D・ワーテル・ラミの物語
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「ラミ、今日から姓を名乗るのは辞めなさい。必要な書類などには私の姓を書くといい」
「え…」
それは、とても突然のことだった。
___長いような、短いような月日を経て 私は海兵になった。
大恩人たるセンゴクさんには反対されたが…私の決意は固く、センゴクさんは怖い顔をしながらも私の就職を許可してくれた。というか、ワガママらしいワガママを言ったことのない私が強く願ったから、というのも理由も一つであろうが。
彼に拾われて最初に私の中にあったのは抑えきれない安堵と、耐えがたい恐怖だった。幼い私は迫害の条件などあまり理解できておらず、珀鉛病の治療が終わっていたあの時も、投げられる悪意に怯えていた。人の悪意はまるで洪水の様だ。とどまることを知らず、溺れて死んでしまいそうなほどの勢いで人間を悪意の渦に飲み込んでいく。
ただ口を閉ざしていた。黙り込んでいたらこの暖かい場所から追い出されてしまうかもしれない。それでも、名前も何も言えなかった。私が何か言えば、それによってお兄さまが危険にさらされてしまうかもしれないから。大人だって信用できなかった。子供は皆私たちに怯えて逃げて行ったけれど、大人の中には逆に怖い目で、私たちを追いかけてくる人たちもいたから。
『よく頑張った もう もう大丈夫だ』
その言葉と共にセンゴクさんは私にいろんなものをくれた。
数日ぶりに食べたものは温かいスープだった。雨水でない無色透明なシャワー。近づいてくる足音に怯えず眠れるふわふわのベット。体を隠さず着れるかわいいワンピース。そして優しいまなざしをくれる海兵さんたち。
我ながらチョロイなぁと思うけれど、それであったはずの恐怖は、ほとんど安堵に押しつぶされてしまった。私は泣いた、そりゃあもう盛大に。泣くたびに困り顔で私の周りをウロウロするセンゴクさんと海兵さんを横目に三日三晩、あらゆるときに泣いた。
自分でどうして泣いているのかわからかった。悲しいわけでも怖いわけでもない、うれし泣きというにはその涙は切実だった。でも、随分久しぶりに、生きててよかったと思った。
『ら、ラミ その、ほかのお名前は教えられないけど 私はラミっていうの』
『…! そうか、ラミか』
“かわいくて素敵な名前だ”と。そう言うセンゴクさんの声があまりに優しくて私はまた泣いて、センゴクさんは慣れたとばかりに眉を下げて頭を撫でてくれた。
それでも兄のことを、家族のことを、故郷のことを話したのは保護されてから何年も経ってからだった。大きくなるにつれ、余計にあの過去の異常さが理解できてきたからだ。珀鉛病、フレバンス、そして恐らくオペオペの実食べた兄…。知っていることを全て話したのも、結局センゴクさんだけだ。そのセンゴクさん本人に口外を禁じられたこともあるが。
私は海兵になりたいと彼に告げた。彼は反対した。何度も何度も。
彼が私に、私たちに隠し事があるのは分かっていた。曲がりなりにも家族のような近さで生活していたのだ。それがいわゆる負い目とも呼べることだとも理解できた。私に優しいセンゴクさんでも娘の立場の私には言えないことであろうことも。
もしかしたら、彼の娘として、平和に何も知らず過ごしているのが正解だったのかもしれない。だって故郷のことを問いかけられたセンゴクさんは見たことのないような、首を絞められているかのような苦悶の表情だったから。
けれど、諦めることなんてできなかった。全て過去のことならばまだしも、兄は、私の最愛のお兄さまはまだきっと生きているのだから。
調べなくては、フレバンスの白い病を、お兄さまの居場所を。
そうして私は海兵になった。
なぜか珀鉛病が感染症とされて政府に隔離されたことなど、少しずつ情報は手に入った。でもなんでそんな誤情報が出回ったのかはなどは、今の私の立場ではわからなかった。
お兄さまの足取りは、未だ掴めない。まるで兄の方が私の、海軍の捜索から逃げているように。
…まだ全然情報面では前進できていない。でも私の海兵としての生活は充実している。だって本音を言えば、海兵になった理由は過去のアレコレを調べるためだけではないから。
私が海賊から守った子供が、親に連れられて去っていく背中を思い出す。
___あの日、差し伸べられた優しくて強い海兵さんの手を。
もし、もし私より頭も良くて優秀なお兄さまがどこかで一人困っているのなら
「こーんなに立派になったよ!」と、笑って私も手を差し伸べたいのだ。
「な…ぜ、ですか。センゴクさん」
「職務中は“センゴク元帥”だ。ラミ… まぁいい、この話は半分…いやそれ以上にプライベートなものだからな」
職務中の厳しい顔のセンゴク元帥が呟く。私は少なからず困惑していた。センゴクさんに本名を告げても、それを否定されたことは無かった。忌み名である“ワーテル”と“D”はなにやらまたまた厄ネタのようなので、多少海軍で隠ぺいするようには言われたが。
家族との大事なつながりだろう、と娘のように扱ってくれながらもセンゴクさんは私の姓を取り上げることをよしとしなかった。それが、こんな、どうして急に。
「…ラミ “調べもの”はどうだ 順調か」
「…フレバンスの件はどうやら上層部が何かしら情報の操作をしているようなので、順調ではないですね」
「そちらではない、お前の『兄』の件だ」
「、え?」
嫌味っぽく質問に答えると、それを否定される。
だ、だって、お兄さまの件は、何年も進展がなくって、きっとどこかで生きてるって、お兄さまは名医だからって、でも、でももしかして、苦しんでるどころか、し___死んじゃってるんじゃないか、て それが
「み」
じわりと滲むそれを堪えることなんてできなかった。
「見つかった、ん、ですか… !!! 何か、お兄さまに関することが…!!!」
言葉が震えて、こらえきれずに涙が一粒落ちた。
手がかりだったとしても嬉しかった。だって今まで世界から消えてしまったかのように、兄のことがわからなったから。どこにもいない、もしかしてもう死んでいるのかもしれない。兄がもういない証拠を集めるかのようにお兄さまを探すのはつらかった。
それでも諦めきれず世界を探した。もし兄が生きていて、苦しんでいたら私が少しでも助けになりたかったから。あの優しい兄もきっと私を探してくれているから。
涙を流す私にセンゴクさんが頷いた。その顔は涙で見えなかったけれど、多分笑ってくれているだろう、厳しいくせして、なんだかんだ優しい人だから。
「ああ…手がかり、どころかお前の兄は生きている この海のどこかで今も。 居場所は正確には分からないが」
「…! いえ!!! いいんです 生きているのなら…それだけで、本当に…!!!」
きゅうと喉が詰まって声が出なかった。生きてる、生きてる、生きてる!あの兄がこの世界で息をしている!それだけで、飛び上がるほど嬉しかった!
「探します…!!! 正確にはってことは、大まかには居場所も分かるんですよね。 どこへだって行きます!その為に、今日まで海軍で見識を深めて、体を鍛えてきたんですから!」
「…ラミ」
「船はあそこで借りて… あ、休暇を申請します!三日だけでいいので、お願いします!」
「… ラミ」
「…? はい、なんでしょう」
「おまえは」
センゴクさんはそこで口もごった。珍しいな、と思った。そこでやっと頭が冷静になった。目の前の彼が、どうやら冷静でない様子だったから。
「、お前は今まで精いっぱい生きてきた。人の悪意を見ながら、自分はそちらではなく正義の側に立った。誰にでもできることではない」
「な、なんですか急に それに、それはセンゴクさんのお陰で」
「素晴らしいことだ。お前は両親にとっても自慢の娘だろう、こんな老兵ですらそう思うのだ。 お前の兄を探し続ける決意も、間違ってなんかいない 立派なものだ」
「せ、んごくさん?」
「間違ってない… 間違っているはずないんだ。悪いのは全て、全て私たちなのだ」
「顔色が…! は、話はあとでいいよ! 早く医務室に…!!!」
みるみる蒼白になっていくセンゴクさんの顔に思わず身を乗り出し体を支えようとする。だがセンゴクさんはそれを拒絶するように手のひらを私に向けて、もう片方の手で私に何かを差し出した。それは数枚の紙束だった。いつも見る書類と同じサイズをしている。
差し出されたソレを受け取った瞬間、背筋に寒気が走った。なんてことない紙きれ数枚。けれどまるで…兄と逃げていた冬の日のような悍ましい寒気だった。
本能が警告していた。見るな、と強く脅迫してくる。けれど現実はあっさりその紙面を私に見せた。
「___ は?」
トラファルガー・D・ワーテル・ロー
そこには青年が映っていた。いや、まだ青年に片足を入れただけの少年の写真だ。
少し荒れた黒髪を惜しげもなく晒し、その下からは氷塊のような目が爛々と病的に輝いている。ただ、生気があるのはその瞳のみ。雪のような白い肌と合わさってその人はまるで人形の様だった。
何度も見た手配書の枠の中に彼がいた。
否定しようとした。でも馬鹿みたいにその人を渇望していた妹がこぼした言葉は、嘘のない、まっさらな言葉だった。
「お 兄さ、ま」
疑問符すらつかない、確信だった。本能が、理性が否定して、血が肯定した。間違いなくこの人間はお前が探し求めた実の兄であると。
紙のこすれる音でぼんやり意識が浮上した。ほとんど無意識に兄の手配書に重ねられた他の紙を見る。それは資料だった。
ケリー・ナード、コラン・ナード、サドラン・H・クロムファージ、ドトーレ、レモネ、ガンファクト・S・シドリウム、アラン・ドンナ、ロイド・カンネル……
紙面いっぱいに書かれていたのは人名だった。小さな字でみっちり書かれているのに一枚では収まらず、人名を記載した紙は数枚に及んでいた。そして最後の方の数枚にはどこかの施設の名称が同じように書き連ねられていた。
やけに目についたのは人名の隣についた死亡、の文字だった。
「それはそいつによって起こされた被害のリスト…」
絞り出したような声が聞こえた。けど目はこの資料から離せない。
「ラミ、お前の兄は…人を殺している 海賊の頭目だ」
“だがどうか自分だけは恨まないでくれ”
そんな声がした。そしてああ、とふと思い至った。
この書類は、カルテに似ている。
カルテと言っても、うちはそう呼んでいただけの患者をまとめるリストだ。お父さんとお母さんが、嬉しそうに治療済み、と記入するのだ。当時は難しい単語がいっぱいでわからなかったけれど、そう教えてもらったのだ。
自分もいつか、たくさんの患者の名前の横に、治療済みと書き込むのだと、お兄さまがいたずらっ子のような顔で 私に話してくれたのだ。