トマト畑でつかまえて
潰れたトマトが転がっている。
いや、厳密に言うと、「さっき自分が潰したトマト」が転がっている。男はその場から立ち上がると、右手に握った金槌を地面に放り投げた。
カラン、と音を立てて金槌がトマトのすぐ傍に転がる。つい先ほどまで生ぬるいトマトの果汁で温められていたそれは、今やすっかり冷え切っていた。
続けて、トマトの上に"藁"を、そこから少し離れた所に"生産者ラベル"を置いておく。
生産者ラベルは大通り寄りの位置に置いておいた―「まるで慌てたせいで落っことしていった」ように見せるために。
そのまま流れるように"作業着"を脱ぎ、路地から大通りへ出る。
この時間帯は歩行者はおろか、野良猫1匹すら見当たらない。それがこの場所を選んだ理由。
丸めた作業着を怪しまれないように鞄に詰めると、男は足早にその場を去った。
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「お疲れ様。"摘果"は問題なく終わったかい?」
アジトに帰り、作業着を暖炉に放り込んで火をつけてから、通信機で依頼主に連絡を入れた。
今回"摘果"したのはこの依頼主の男―カミキヒカルが目を付けているという若手タレント、彼女と同じ事務所に所属している先輩タレントだ。
何でも、実力も華も無い癖に芸歴ばかりはご立派で、その娘に対しても先輩であることを理由にパワハラまがいの嫌がらせを続けていた、と。
才能ある者が才能無き者に可能性を摘み取られるのはいただけないから、それが依頼理由であった。
「問題ない、目撃者はゼロ、例のストーカーが罪を被るように偽装工作もしてきた」
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今回の依頼をこなすにあたり、好都合な事実が一つ存在した。
それは、このタレントがここ数週間、悪質なストーカー被害に遭っていた、ということ。
本日早朝、仕事をする直前にカミキから渡されたのは、若い男の名前が記された運転免許証と、10本弱の髪の毛が入ったポリ袋。
「昨日お手伝いさんに頼んで通勤中の彼から頂いてきたよ。スッた財布は免許証を抜いてから電車内に捨ててきたそうで」
スられた本人も今頃財布が見つかってホッとしていることだろう。
……まさか、自分が殺人事件の容疑者となることも知らずに。
「まぁ、自業自得だろうね。ファンから反転アンチに堕ちるなんて低俗なことをしていたからこうなるんだよ」
そう言って無邪気に笑うカミキを余所に、依頼を受けた男―リョースケは、そうだな、と心の中で自嘲した。
―星野アイの反転アンチなんかになってしまったから、自分は今こうなってしまっているのだろう、と。
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「恨みつらみから犯行に及んだように見せかけるために、金槌で原型を留めなくなるまで殴ってきた。遺族が見ても本人だとは分からないだろうな」
「上出来だね、明日はオフの日だから、ゆっくり休んで」
「あぁ、また何かあったら連絡してくれ。じゃあな」
通話を終え、一風呂浴びに浴室へ向かう。脱衣所で服を脱ぎながら、ふと考える。
―どれだけ体を洗っても、この血塗られた手が元通りになることはないだろう、と。
そこまで考えて、急に感傷的になった自分が馬鹿馬鹿しく思えて、思わず笑みがこぼれる。今日の自分は、何か変だ。
笑みと呼ぶにはあまりに歪な筋肉の収縮運動が、鏡台に写っていた。
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カーテンの隙間から朝日が差し込んでくる。どうやらすっかり夜は明けたらしい。
自室のベッドから身を起こしたリョースケが真っ先に向かったのは、アジトの外であった。
このアジトは、表向きはカミキの別荘、ということで周囲に認識されており、普段はリョースケが寝泊まりする場所となっている。
ごくごく普通の2階建ての一軒家、それに加えて数十坪の小さな庭も付いている。
ベランダのサッシを開け、下駄を引っかけると、そのまま庭の隅へと向かう。
庭の片隅には、ごくごく普通の家庭にもありそうな小さな菜園があった。
初めてこのアジトをカミキに紹介された時から、この場所には野菜が植えられていた。
見るからに土いじりに向いてなさそうなこの男にしては珍しい趣味だと、若い頃のリョースケは何気なくそう思った。
だがその後、カミキから依頼が来るようになってからは、この菜園の存在にも納得するようになってしまった。
この男は、「育てる」ことが好きなのだ……「いずれ自分に殺される運命が決まっているもの」を「最高の状態」まで育てることが。
だから、この男から来る依頼は、大まかに分けて4つしかなかった。
―自分達に危害を加えうる"害虫"を駆除すること。
―大切な作物から栄養を奪い脅かす"雑草"を駆逐すること。
―価値ある果実から栄養を奪い質を低下させる"無価値な実"を摘むこと。
―そして、大きく実り食べごろとなった"果実"が腐り始める前に収穫すること。
この社会から自分が既に死んだ人間として認識されたあの日から、リョースケは忠実にこれらの依頼をこなしてきた。
もはや依頼をこなしても、何も感じるものはない。罪悪感も、後悔も、全てあの日に置いてきた。
かつて心の底から推していた一番星を、この手で墜としたあの日に。
リョースケはトマトの株の前まで来ると、中腰になって実った果実のチェックを一つ一つ丁寧に始めた。
全体的に大きさは申し分ないが、まだ赤色が足りない。熟すにはまだ待つ必要がありそうだ。
やがて機が熟したら、その時は―。
そこまで考えた次の瞬間。
ヒュンッ、という音と共に、トマトの収穫用に持参していたナイフがリョースケの手から離れ、宙を舞った。
一切の無駄のない動作で投げられたナイフは、鈍い音を立てて地面へと突き刺さる。
その場所には、何もいなかった。
ただ、黒い羽根が数片、ひらひらと舞いながら落ちてくるのみである。
―ついさっきまで、何かがそこにいたかのように。
「…………」
リョースケはほんの数刻思いを巡らせた後、首を横に振ってから、先ほど自分が投げたナイフを拾いに行く。
地面からナイフを抜いた瞬間、通信機に着信が入った。
「……珍しいな」
あの男がオフの日にわざわざ連絡を入れてくるのは珍しい。よほどのことがあったか、或いは。
「おはようございます」
だが、スピーカーの向こうの声はいつもどおりの落ち着いたトーンだった。緊急事態というわけではないらしい。
「わざわざこっちにかけてくるなんて、何かあったのかと思ったが」
「いや、今のところは何も。今の所は、ね」
「……何だ、単刀直入に言え」
含みを持たせたあちらの言い方につい急かすような反応をしてしまった。
「もうすぐ、大規模な"害虫駆除"を依頼することになりそうでね、準備だけはしておいて、と伝えたくて」
「もちろん引き受けるが、相手によっては遂行が難しくなるかもしれん。必要なものがあったらその時は」
「ああ、こちらで手配させてもらうよ。君の仕事ぶりにはずっと助けられてきたからね」
「そうか、なら良い。よろしくな」
通信を切った後、リョースケはぼんやりと空を仰いだ。
今日はいくつか野菜を収穫する予定だったが、何となくそんな気分ではなくなってしまった。
「……手入れでも、するか」
"仕事道具"のメンテナンスをするため、下駄を脱いで家に上がると、リビングのサッシを閉めた。
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カラスを腕に抱いた少女が、高層ビルの屋上から見ていることに気づかずに。