端切れ話(テリトリーバランス:S>E)
監禁?編
いつもの帰り道。もうすぐ家に着くところで、エランはごくりと唾を飲み込んだ。
今日は目の前でスレッタが血を流すという、大変な事件があった日だ。
とりあえず必要な物を買いそろえ、今は追加で夕飯を買って家に向かっている最中なのだが…。正直なところ、帰りたくない。
でもいつまでも帰らないわけにはいかないので、エランはたくさん買ってしまったスープや粥を持ちながら、外付けの階段を足取り重く上っていった。
「………」
しばらくアパートの扉を睨んだ後、覚悟を決めて鍵穴にキーを差し込む。カチリと音がするのにも緊張しつつ、そっと玄関の中に入っていく。
「……た、ただいま。スカーレット……」
帰宅の挨拶はとても小さく、偽名を使わなくても問題ないほどの囁き声だ。これでは彼女にも聞こえないだろう。
廊下の端に一旦荷物を置いて靴を履き替えながら、それでもいいとエランは思う。
むしろダイニングのテーブルに料理を置いたら、すぐにでも部屋に籠ってしまいたい。せめて今日だけでも何事もなく過ぎれば、明日はもっとマシな精神状態になっているはずだからだ。
「お、おかえりなさい。エランさん」
「!」
けれど彼女はきちんとエランの立てた物音に気付いて、パタパタと玄関まで迎えに来てしまった。
途端にびくりと体が跳ね、足が勝手に一歩下がってしまう。逃げ腰な心に引きずられて、明らかに体も逃げようとしていた。
「あの、お夕飯、ありがとうございます」
「………。うん」
目の前にはまだ気恥ずかしそうにもじもじしているスレッタがいる。こちらから目を逸らしているので、少々不自然なエランの様子にも気付いていないようだった。
彼女自身は先ほどよりも血色が良くなっていて、少し元気が戻ったようだ。
袋の中を覗き込まれている間、エランは彼女から目線をずらしてジッと息を潜めていた。
「あ、スープがいっぱいですね。どれも美味しそうです」
「…いくつか、種類を買ってみた。スープとか、粥とか…。体を温めた方がいいと聞いたから」
「そうなんですね。荷物の中に温かくなるシールが入ってましたけど、確かに使ってみたらお腹がポカポカして楽になりました」
「そ、そう…なんだ」
スレッタが言っているのはお腹に貼るタイプのシートの事だろう。老人に言われるがままにカゴに入れた中に、確かにそんな商品があった。
何とかカイロ、とか、そんな名前だったと思う。女性の下半身…下着に直接貼れるもので、使い方が分かりやすくイラストで表記されていた。
下着の絵を思い返したところで、うっかりスレッタの下半身に目をやりそうになってしまう。寸での所で気付いて目を逸らし、誤魔化すように料理を手にした。
「これ、テーブルの上に置いてくる」
とりあえずは戦略的撤退だ。少し彼女から離れて、正気を取り戻した方がいい。スレッタに気取られないようにしつつ、急いでダイニングへと向かっていく。
彼女のそばにいると色々と良くない事を考えてしまう。エランは己の妄想を追い払うように、少々勢いをつけて夕食入りの袋をテーブルに置いた。
───ビシャッ!
「!!」
今日の夕食は粥やスープ、つまりはほぼ液体状のものだ。当然のようにテーブルに叩きつけられた中身が跳ね返ってきて、エランは驚き硬直した。
「ひゃっ、だ、大丈夫ですかエランさん!」
「………」
スレッタが声を掛けてくれるが、呆然とするあまり返事もできない。いつも綺麗なテーブルは、一瞬で目も当てられない惨状になった。
幸いすべての料理が零れたわけではないようだが、テーブルの一部とエランのシャツは生温かいスープに浸されてしまった。
「ごめん、ちょっと着替えてくる…。テーブルの上は後で拭くから…」
「は、はい」
こんな失敗をするなんて…。地味にショックを受けながら、エランは自室へと引き返した。
急いでウェットシートで体を拭い、新しいシャツを手に取って着替える。本当はシャワーを浴びたいが、その前に汚してしまったテーブルの掃除をしなければいけない。
ついた匂いを気にしながらも、慌ただしく部屋を飛び出していく。
けれどダイニングに行くとすでに掃除がされてしまっていた。テーブルを丁寧に拭いているスレッタの姿にエランは申し訳ない気分になる。
…その後の夕食も散々だった。
ようやく食卓についたと思ったらコップを倒し、さらに別皿に盛ったスープを零す。粥が気管に入って盛大にせき込んだりもした。普段はあまりしない失敗のオンパレードだ。
その度にスレッタにフォローされ、本来安静にさせるべき彼女からタオルやティッシュを渡されたりと、いらぬ仕事を増やしてしまった。
食事が終わってひとりになっても落ち着かず、シャワーを浴びに行く時間になってもなかなか次の行動を起こせない。
もし血の一滴でも見つけてしまったらどうしよう、妙に追い詰められた気持ちでそんな心配をしてしまう。
結局だいぶ遅い時間になってから、こっそりとシャワーを浴びに行った。
シャワールームはとても綺麗に掃除されていたが、お湯を浴びている間のエランは気が気でなかった。恐らく最速の時間で体を洗い終わらせていた。
いつもの生活を送ろうとするのに、上手くいかない。やたらと疲れて時間が掛かる。
エランは脱衣所で髪を乾かしながら、すぐにでも寝てしまおうと思っていた。
とりあえず監視カメラの確認は大体終わっているし、後は寝る前のルーチンをこなせば散々だった今日を終了できる。
寝る前のルーチンはすぐに終わる。隣の洗面所で歯磨きをして、トイレに行って用を足す。そうすれば後は自室に戻って寝るだけだ。
しっかりと寝て、起きて、明日になれば少しはマシになるだろう。
もう少しで寝れるという安心感から、エランは少し冷静になれていた。髪を乾かし終わると次は手早く歯磨きをして、最後にトイレのあるドアを開ける。
「?」
すると、見覚えのないものが便座の近くに置いてあった。
薄いピンク色をした小さな容器。見覚えはないが、見た事自体はある気がする。
エランは置いた覚えがないので、きっとスレッタが置いたんだろう。でも、どうしてこんな所にあるんだろう。
首を傾げるが、すぐには分からない。もしかして忘れ物かと思ったが、それにしてはきちんと決めた場所に置いてあるような配置をしている。
入れ物のようなので、中に何かを入れるんだろう。そういえば小さなゴミ箱のようにも見える。
用を足した後にでも中身を確認してみようか…、とぼんやり思ったところで、唐突に思い出した。クーフェイ老に言われるがまま買った品物に、この容器が入っていたことを。
トイレ。
入れ物。
ゴミ箱。
生理用品。
「!!!」
今までのぼんやりした頭はどこにいったのか。エランは一瞬で真相にたどり着き、反射的に行動した。
天敵に遭遇した動物のように大きく後ろに飛び下がる。ドアと背中がぶつかってドゴッと大きな音が鳴ったが、それどころではない。
中身を確認とかとんでもない。これは一生エランが触れてはいけないものだ。
恐ろしい動悸と共に冷汗が出てくる。危ない所だった。何も気付かず開けていたらすさまじい変態になるところだった。
見た目は先ほどと変わりないのに、入れ物からものすごいプレッシャーを感じてしまう。
───駄目だ、すぐにここから逃げよう…!
ピンク色の可愛らしい容器に威嚇されたエランは、用を足すこともできずに退散した。
エランは痛感する。たった一日でアパートの中は様変わりしてしまったと。ダイニングも、シャワールームも、トイレだって、もう自分の領域ではない。
スレッタの陣地から逃げ出したエランは、唯一の安全地帯である自室へと引きこもったのだった。
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