チルッチ戦とザエルアポロ戦の間あたり
急激に膨れ上がった霊圧に胸がざわついたのは、それが見知ったものだったからではなかった。明らかに異常であるそれはまるで破裂寸前の風船のようで、その上ありえない速さでこちらに向かって移動してくる。
それに気を取られて足を止めた瞬間、少し先の白壁が壁の向こうから飛び込んできたもので粉々に砕け散った。白い粉塵に視界を封じられ舌打ちをする。新手の相手をしている場合ではないというのに。
「な、なんだ!?」
「くっ……、こんな時に」
弓を構え、ふとさっきまで感じていた霊圧が消えている事に気づいた。いや、消えているんじゃない、確かにある、確かにあるが、これは。
改めて目の前の粉塵の中、舞う金の色を見て心臓が嫌な音を立てて軋んだ。知っている、でも知らない、知りたくはない。
「……平子さん?」
白い服に包まれた胸が血に濡れていた。明らかに刺されたとわかる傷を見て胃に鉛でも流し込まれたような気分になる。しかしそれ以上に異質なのは蠢き顔を覆わんとする仮面。それはまるで虚のような、というよりも虚そのものであるかのような。
戸惑っている間に距離を詰められ、しまったと思うより先に眼の前に顔があった。これが虚だとするならば弓を引かなければならない、でもこれが、これが彼女で。
「止すんだ、滅却師」
頬に触れた手のゾッとするほどの冷たさに息が止まる。聞いたことのある声が全く違う響きを持って耳に届いて、本能が全力で「違う」と警告を発している。
息がかかるほど近い顔は半ば仮面に覆われ、金に縁取られた瞳だけが露出し異様な色を際立たせていた。なにより感じる霊圧が明らかに変わっている。信じたくはないが、これは虚の。
「虚の、霊圧」
咄嗟に弓を引こうとした手に冷たい指が触れる、急激に注がれた霊力で上手くコントロールできなくなり慌てて距離を取った。まるでメノスグランデの時の黒崎のようだ、あの時ほどではないにしろ膨大な霊力が彼女の体に収まりきらずに溢れ出してしまっている。
明らかに正常な状態ではない、それは見た目だけでなくその姿からも見て取れた。溢れ出る霊力がなんらかの力になって彼女が身にまとっていた服の肩や背中が無惨に破れてしまっている。
「止せと言っただろう、撫子を殺したいのか?」
わずかに見えていた顔も完全に覆われて、こちらを睨めつける瞳はすでに仮面の奥。見覚えのある金の髪はそのままなのに、冷え切った声が知った彼女とは違うものだということを否が応でも僕に教えてくる。
間に合わなかった、という言葉が頭によぎる。彼女の体を濡らす血はまだ新しく、先ほど感じた霊圧が急激に膨れ上がったことからも少し前までは無事でいたことは明らかだ。ほんの少し、後少しだけ早ければ、側に行くことができれば、こんなことには。
「おい!どうするんだあれ!」
「うるさい!今考えてる!!」
「というかあれ知り合いなのか?明らかに人間じゃないぞ!!」
「知り合いだけど普通の人なのかどうかは僕も知らないよ!それどころじゃないだろ!!」
ペッシェに怒鳴ってみても解決方法が見つかるわけでもない。そもそも解決できるのか?あれは元に戻るものなんだろうか?回らない思考で考える、浦原さんは彼女のことをなんと言っていた?彼女の父親の事、だから彼女はおそらく無事だろうという事、それから……彼女は虚圏では不安定になっているかもしれないという事。
もしかして、彼女は元々虚かそれに繋がるなにかの力を持っていたんじゃないのか?それがなにかのきっかけで暴走して、彼女の体を乗っ取って動いているのでは?それならば、それを打ち砕くためには。
「弓を引くな、と私は言ったはずだ」
「その体、返してもらうぞ虚」
「……君のものではないだろう?」
「君のものでもない、それは平子さんのものだ!」
虚の力を一番強く感じるのはその仮面、ならば試してみる価値はある。彼女がまだ生きているならば、僕が間に合っているならば、もう一度言葉をかわすことだって可能なはずだ。
狙いを定めて矢を放つ。彼女は僕の手を針を持ち弓を引くための手だと言った。その通りだ、それすらできなくなるような恥を晒すつもりはない。
「体を返せと言いながら、弓を引くのか?射る相手を間違えるなよ滅却師」
まっすぐに飛んだ矢は最低限の動きで避けられて、金の髪をわずかに散らして後方に飛んでいく。だが次の矢を打つことはない、それで十分だからだ。
避けるのはわかりきっていた。滅却師の矢を真正面から受けようとする虚なんて存在しないだろう。そもそも僕の狙いは彼女に直接矢を当てることではない。そんな事をするはずがない。
「君だけを射抜くぐらい、できないはずがないだろう」
仮面にヒビが入り、虚の動きが止まる。まとめて放った僕の矢は狙った通り虚の仮面をわずかにかすめていた。そして破壊するにはそれだけでなんの問題もない。
小さく入ったヒビが全面に広がり、隠されていた顔が顕になる。こちらを見る瞳は、最初に見たときよりも異様な光が薄まっているように見える。
「……大口を叩いた分、精々身を粉にして守ることだな。この不安定な体は簡単にこちら側に転ぶ事を忘れるな」
甲高いガラスが割れるような音と共に仮面が砕ける。ぐらりと揺れた体はそのまま崩れ落ちるように床に落ちそうになり、警戒も忘れて慌てて抱きとめた。
幸い完全に意識は無いようだ。霊圧も元の不思議なほど抑えられたものに戻り、虚の気配は感じられない。戻せたのだ、という実感に深く息を吐いた。そっと胸元に触れてみたが傷もふさがっているようでそれの心配もないだろう。
「だ、大丈夫なのか?仮面を割ってしまって……」
「彼女は元々仮面なんて無い方が普通なんだ、問題があるはずないだろ」
「でも目を覚まさないし、勝手に体にも触られて……」
「傷の確認をしたんだ!!!」
「……ん」
小さく声を上げて眉根を寄せる様子に口をつぐんで様子をうかがう。金のまつ毛が震えて、ゆっくりと目が開いた。そこに見えたものが先程までの異様な色合いの瞳ではなく見知ったいつもの彼女のものであることに無意識に詰めていた息を吐く。
よかった。僕は少しは間に合ったらしい。
「…………石田?え、あ、その、そこの……なに?」
「"なに"とは失礼な!先程の活躍を覚えていないのか!私の華麗な姿を……」
「何もしてないだろう君は!!……平子さん、体は動かせそうかな?」
不思議そうにこちらを見上げる瞳は困惑の色を浮かべていて、少しかすれてはいたがその声は聞いたことがあるものと寸分変わらない。そして握った手は確かに温かな体温があった。とりあえず、今はそれだけで十分だ。
僕は約束も果たせない不甲斐ない男にならずにすみそうな事を心から安堵した。